5月13日東京新聞
足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
ウクライナ戦争は即時停戦を!!
靖国神社参拝反対!!
ウクライナ戦争は即時停戦を!!
靖国神社参拝反対!!
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
新型コロナウイルスのワクチンを接種したあとに亡くなった人の遺族でつくる団体が、厚生労働省で会見し、予防接種法に基づいた健康被害の救済制度の認定を、速やかに進めることなどを国に求めました。
新型コロナウイルスのワクチン接種をめぐっては、副反応で健康被害が出たり死亡したりした場合、予防接種法上の救済制度の対象となり、接種との因果関係が否定できないと国が認定した人には、医療費や死亡一時金などが支給されます。
9日の会見には、おととし10月に、当時36歳の夫が2回目を接種した3日後に亡くなり、先月、救済申請が認められた須田睦子さんらが出席しました。
この中で須田さんは「夫が亡くなってから、当時、おなかの中にいた娘と上の子3人を育てていけるのか、不安の中で毎日を過ごしていました。接種の中止が一番の思いですが、せめて同じ不安を抱えている多くのご遺族の迅速な救済を望みます」と訴えました。
このあと団体は、救済制度の認定を速やかに幅広く進めることや、ワクチン接種後の突然死などについて、国が研究を進めることなどを求める要望書を、厚生労働省に提出しました。
救済制度には、先月10日時点で6219件の申請があり、死亡30件を含む1622件が認定されていて、厚生労働省は「審査の回数を増やしており、できるだけ迅速に対応していきたい」とコメントしています。
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
安倍元首相銃撃 公判前整理手続き公開を ジャーナリストら団体
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
MISA My Fish is your Fish - YouTube
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
食品衛生法を適用しないことが決定
ちなみに、水俣病事件では食品衛生に関する専門家が全く関与していない。「環境衛生学」の専門家である藤木素士氏が食品衛生に関してどの程度の知識を有していたかは既に紹介した通りである。
食品衛生法を適用していれば
『四日市公害ーその教訓と21世紀への課題』には、水俣病事件当時の熊本大学医学部の様子が記載されている。著者は、「水俣病の原因が熊本大学医学部の喜田村教授(公衆衛生学)らの努力で、その疫学的研究によって、患者発生からわずか6か月後の昭和31年(1956年)11月には「水俣病の原因は、工場廃水中に含まれている何らかの化学物質による魚介類の汚染による食中毒の疑いが強い」という報告が出された」「疫学調査の結果から、この「水俣奇病」が、その症状がウィルス性感染症である小児麻痺に似ていることから名付けられた「異型小児麻痺」という伝染病(当初は伝染病予防法に基づいて地域の各戸の消毒をしていた)ではなく、工場廃水による化学性中毒症の可能性を強く指摘された喜田村教授は、大学研究室(京大医学部公衆衛生学教室)での私の直接の先輩に当たり、喜田村教授が京大医学部の助教授の時、私は先生の直接の部下に当たる助手であっただけに、この問題は他人事ではないという気持ちだった」「もし最初から、疫学的な因果関係の立証で事態を前向きに解決させようという考えがあったならば、死児の齢を数えるわけではないが、水俣病は現在のような数千人を超える患者に係る長く続く泥沼のような問題ではなく、昭和31年(1956年)の時点での約50名程度の患者の範囲で終わり、充分な対策と救済が成立していたであろうことを考えると、この問題をどうように考えるかが、環境問題解決の最大の鍵を握ることがよくわかる」と述べている。
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
再び歴史の改ざん
いわゆる爆発赤痢事件の原因が「水道水」から三井三池染料工業所の「爆発事故」(毒ガス発生による中毒死と赤痢予防錠による隠蔽と人体実験)に目が向けられることを現在も恐れる人達が、組織にいるということです。
巨大企業三井と日本政府・国家が行った犯罪に時効はありません。
過去に目を閉じる者は、再び同じ過ちをおかす。~ワイツゼッカ―~
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第6 立法不作為を理由とする国家賠償請求について
2 例外的な場合に関する原告らの違法性判断基準の誤りについて
(3)
ア のみならず、仮に、原告らが主張するような重大な人権侵害が生じていたとしても、かかる事態に対しいかなる立法措置をいかなる時期に講じるかは全く別事件の問題であり、後者においては、被侵害利益の性格、程度、利益侵害に至る経緯、従来に採られた被害回復措置の状況等はもとより、類似の立場にある者の存否やこれらの者に対する救済状況さらには世論の動向等や関連する諸事情等を踏まえた広範な裁量的判断が許容されるのである。従って、このような場合に立法義務があるというためには、日本国憲法秩序の根本的根幹的価値に関わる基本的人権の重大な侵害が現に個別の個人に生じているだけでは足りず、 そのような立法義務のあることが憲法の明文上または解釈によって明白に認められることが必要である。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
おわりに
満州の鞍山守備兵として徴兵された際の軍隊生活の日記は、満期兵となった1931年の1月1日から6月3日まで毎日綴られていました。ところがその後8月15日で途切れます。その間に一番印象に残ったことは、7月初め頃から炭坑線に頻繁に運航妨害がおきたので 中隊総出警戒が実施されたこと、初日に戦友が路線上を通る中国人3人を捕らえ、その後数日間計18名を連行したこと、密偵と中隊幹部が取り調べた中に女、子どももいたことなどを挙げています。「この時ばかりは国の弱さをはっきり不幸に感じた。泣き出したいような気分がした。自分は地方にいる時でも気は非常に弱いのだ」と書き添えています。
夜霧よ
(彼方河岸の窓の額縁に
のびあがって 花片を脱ぎ
しべをむしり
猫族のおんなは
ここでも夜のなりわいに入る)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
終生の重荷
脳裏にこびりついて離れない断末魔の形相
千田英男(ちだ ひでお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1917年生まれ
1942年 731部隊入隊
教育部付き衛生兵教育
吉村班、植村班、教育部庶務を歴任
■この証言は戦争体験を記録する会(宮城県)編『雲はかえらず』所収「終生の重荷」(1974年)より転載したもの
「私達の実験はいつ終わるのか」
一応、所定の接種が完了した数日後、今度はいよいよ本番とも言える生菌をこの人達の体に注入しなければならない。大方は免疫ができていて発病することはなかったが、対象として免疫を付与していない人はほとんど100%感染した。滅多に死亡する事がなかったのが、せめてもの救いだった。こうした事を繰り返しながら実験は順調に進み、回を重ねるごとにより正確なデータが出来上がっていった。そしてこの実験が完了した時、私は仮病という病気で倒れてしまったのである。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
2 武漢攻略作戦
第11軍の戦闘
「実施報告」の使用例の記述は短いものが多く、毒ガス使用後の突撃でどのように戦ったかが具体的に書いてあるものは少ない。しかし、武漢攻略戦に臨むにあたり、第2軍司令部も、毒ガス使用の場合「機を失せず効果を利用し、敵を殲滅し、以て之が証跡を残さざるに勉む」と教育しているので、 秘密保持のためにこのような殲滅戦法は、第2軍・第11軍を通じて広く実施されたと思われる。嘔吐性ガスを吸い込んで戦闘不能となり、刺殺された国民党軍兵士の数は相当なものとなるであろう。
核時代39年(1984年)5月初版発行
刺突(しとつ)
農民を初年兵の訓練に
江先 光(えさきひかる)
曹長
〈略歴〉
私は山口県岩国市岩国に生まれた。
小学校8年を卒業すると家業を継いで石工となり、
1939年に第39師団歩兵第233連隊第4中隊に入隊、中国に侵略した。
以後曹長となり庶務係、小隊長を経て、1945年敗戦により、9月2日、東北四平において
捕虜となった。今年40歳です。
≪よーし、今こそ師団編成以来の腕前を見せる時だ・・・≫私と西川は兵隊をすかしたり、脅したりして、夜を日についで歩き続けた。それは10月の末、夜風がひやりとする頃だった。私は部隊の中心部で西川の一隊と出会った。
「おい・・・西川軍曹いるか、捕まえたんだってなあ・・・」ロウソクの日を囲んで、入道のようにうごめいている中から、私は素早く西川を見つけた。「おおこいつか、ふん・・・俺のところは、25、6の女だ・・・
今度は少しゃあ・・・ものになりそうだそ・・・・」私は得意になっていた。「そうか・・・見とれ・・・今こいつを吐かしてやるんだ・・・」西川はこう言いながら天井から逆さに吊り下げた男の横に立った。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
第三動 研究問題
6、7月21日下令された本格的作戦準備について次を提出せよ。(状況下の研究№15)
(1)作戦準備の内容とその完成推移の見積
(2) 6月11日着手した作戦準備との連接具合
7、7月22日実施した統幕と在日米軍司令部間の具体的調整事項述べよ。
(状況下の研究№16)
8、7月31日現在における各自衛隊及び在日米軍の現状について下記を報告せよ。
(状況下の研究№17)
(1)主要兵力の展開状況に使用
(2)主要兵力の作戦状況(哨戒、警戒、 偵察、海上警備等)
(3)作戦準備の進捗状況 〈注〉略
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。