細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:48:18 | Weblog

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 
 
新版 「帝銀事件」 森川哲郎 (抄録)
 
第1章 犯人適格者の追及
 
 紙数の関係で他の問題点に触れるわけには行かないが、要するに米軍としては、予定の対共産国に対する戦争で、大量の細菌兵器を用いるために、731部隊の優れた技術・データに目をつけ、もちろん絞首刑と引き換えに、その提供を命じ、かつ細菌兵器の発達のための研究に協力させていたということである。
 
 
 

松本清張と帝銀事件第2部

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帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)

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帝銀事件①


帝銀事件と薬害エイズ事件

 

冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!

社会が許さない 釈放後も「地獄」

 

 

 

 

 

 



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

 

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』


・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?


・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?


・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??


・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??


・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??


・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?


・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?


・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。


・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??


・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)


本所職制改正


この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。


特別研究室とは何だ??


 




実験医学雑報22巻 第5号(1938年)

 

 



挨拶(要旨)

                      二木謙三

 友人総代として 両君に言うことは、いろいろの点で色々たくさん教えられたということである。我々の小さな仕事も働きも両君の御蔭でなされたし、又人格的にも両君に教えられたことが少なくない。この点両君にお礼申し上げたいと思う。

 学問上のことは委員長の話があったから、それに任せ、友人として話すからには何か挙げ足を取るとか、又はしつばぬきをやりたいが、そんなことが何もない。聞けば西澤君の趣味は活動写真だという。先刻西澤君に活動は面白いかと聞いて、又教えられた。どうしてどうして近頃のニュース映画は接ぎ剥ぎして造ったものと違って、危険が冒し、命を賭して戦争のありさまを撮ったものであると教えられた。城井君に君は多趣味だと言うが何うかと聞くと、何もないという。写真はどうかと聞くと、機械をいじることが好きなだけだという。そんなわけで 両君について何も言うことがない。

 両君はいよいよ職を離れられるが、今後もますます研究するという。結構なことである。

 両君とも壮健であるが、西澤君に体のことを聞くと、別に病気はないが多少Verstopfungがあると言うから、二木流に今日から玄米を食うと良いと言った。(文責在筆者)

 


 

 

 

 



1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田

で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

 

浜一中大福餅事件




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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:44:38 | Weblog

浜松一中の慰霊碑

 

大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験

 

 大牟田の爆発赤痢の慰霊碑(表)

 

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

 

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

 

(資料)

1988(昭和63)年8月21日(日) 朝日新聞

旧陸軍の細菌兵器開発

東京の防疫研究室が中枢

軍医学校の極秘報告書が見つかる

 

「731」は実戦部隊

作家の山中氏が入手

 

関東軍防疫給水部 創設者の石井四郎元軍医中将の名をとって「石井部隊」とも呼ばれる。旧満州のハルビン近郊にあり、多数の中国人、ソ連人らを細菌兵器研究などのために生体実験したといわれる。

 

朝日新聞

軍医学校報告書

細菌兵器の機密43年経て見えた

 

ペスト研究、攻撃用か

要人暗殺用にフグ毒

 

旧関東軍防疫給水部(満州731部隊)の細菌兵器研究は、これまで、部隊長だった石井四郎元軍医中将が、日本から遠く離れた地で行なった「暴走行為」といった受け止め方が多かった。しかし、今回見つかった『陸軍軍医学校防疫研究報告』によると、東京の軍医学校との密接な連携があったことが明らかになった。細菌兵器の研究は極度に機密性が高く、報告書でもあからさまな記述はないが、公に出来ない研究が行なわれていたことは随所にうかがわれる。こうした資料が戦後43年を経て見つかったことに、関係者は驚きを隠せない。

 

 

 
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
 
 

   





 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 
 

 

米中の生物兵器開発?

 

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

          
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:42:03 | Weblog

日本の中国東北侵略から92年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』



(お手紙より  2020年)

2次世界大戦がはじまり、 敗戦するまでの行程の「初めの一歩」にあたる1931年9月に起きた満州事変、その半年ほど前の日本の立ち場、中国の立場と抗日の様子、中国人の暮らしぶりを書き残した記録は、歴史の流れの一コマをくっきりさせています。

 無名兵士として父は歴史の一かけらを担い、私はそのかけらを公表する役を引き受ようと考えました。


 
軍都広島での物語

原爆詩集

峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 
 
  その日はいつか

 

  

  住みなれた家は強制疎開の綱でひき倒され

東の町に小屋借りをして一家四人、

穴に埋めた大豆を噛り、

鉄道草を(かゆ)()き、

水攻めの噂におびえる大人に混って

竹筒の救命具を家族の数だけ争ったり

空襲の夜に手をつないで逃げ出し

橋をかためる自警団に突き倒されたり

右往左往のくらしの日々、

狂いまわる戦争の力から

必死になって神経痛もちの父を助け、幼い弟妹を守ろうとした

少女のその手、そのからだ、

 

 

 

 
 
 

 

 
 
" target="_blank">原爆投下
 
" target="_blank">原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
 
" target="_blank">封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。

原爆の威力調査を行い、原爆による「死亡率曲線」などを
作成した。全部で181冊の原爆報告書はすべて英訳され、アメリカに渡された。
その報告書は、もっぱら731部隊などの残虐行為の免責を得るためのカードに使われた。
苦しんでいる被爆者の治療はほとんどされなかったし、入市被爆などの事実も国民には知らされなかった。
また、被爆者本人の治療にも生かされなかった。" itemprop="description"><iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8669gl" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>

 
 
 
" target="_blank">原爆初動調査1
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x87n39j" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ

撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった

 

大竹康二

731部隊・教育部

〈略歴〉

1926年生まれ

1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。

43年8月開拓団入植

1945年5月 122師団(牡丹江)入隊

1945年6月 731部隊教育部に配属

1945年8月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの

平房脱出

 確か8月14日の夕方、ソ連の落下傘部隊が731部隊に降下するという情報で、とにかく急いで平房の引込線から脱出して、ほとんど一日中停まらないで、梅花口(ばいかこう)に着きました。16日未明、通化駅操車場で終戦を知りました。列車はどんどん南下して、“満州”と朝鮮の国境を越えました。江界あたりで威嚇射撃をしたのを覚えています。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
 

本件の検定経過内容をご覧いただいて、また色々とお話をいただいた、歴史学者、専門研究者、あるいは教育者としてのご意見を承りたいと思います。

 

 私は第1回、第2回と現地で調査いたしました。現地に立ちますと、731部隊というのが日本の現代史の中の一大汚点であるということを感ぜざるを得ません。日本の歴史がどういう人たちを犠牲にしてたどってきたのかということを思い、非常に胸が痛くなるわけです。これはどの日本人もそこに立てば、そういう感慨をもつものと思います。そして加害の責任ということを感じざるを得ないわけですね。加害の責任を日本人としてどうやって果たしたらいいのかということになりますと、やはり 731部隊について正しく次の世代に教えていく、そしてそういうことを二度と起こさないということを、やはりしっかり伝えていくということ以外にないと思うんですね。

 
 
 

 

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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:41:09 | Weblog

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941

2 修水渡河作戦

 

大規模毒ガス戦の諸記録 


 この作戦で使用される現代的な兵器の使用指導と教育のために参謀本部から派遣された、遠藤三郎 参謀本部第1〔演習〕課長兼大本営参謀は次のように記している。


 午後2時半出発、南山の〔第101〕師団戦闘司令所に到る。雨晴れざるも、敵陣地は望見し得べし。 而も東北風吹きて瓦斯使用には好適なり。午後4時半、予定の如く砲撃開始、但し雲低く飛行機の爆撃のみは実行せられず。先ず陣地後方の村落を射撃し、次いで河岸の掩蓋銃座破壊、百数十門の砲火殷々として修水河畔を圧す。8時稍前、赤筒に点火、白煙敵陣地を蔽ふ中に、第1線諸隊渡河開始。火箭の如き弾丸飛び行く様壮快なり。間もなく渡河成功の報あり。爾後の前進は明確ならず。雨又頻りにして、将兵の労苦察するに余りあり。

 
 
 
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
大久野島の歴史
 
Ⅳ 日本軍の毒ガス戦
 
 
 ②日本軍の国外での毒ガス使用の始まり
 
 しかし、1932年の5.15事件、1933年3月の日本国際連盟脱退、1936年の2.26事件と政治的動きが発生し国内での陸軍の発言力が高まり日本の国際協調の姿勢は次第に失われていきました。2.26事件では反乱軍鎮圧のために習志野学校から毒ガスが用意されましたが反乱軍が投降し使用されませんでした。このような国内情勢の中で中国東北部では限定的ではあったが関東軍がゲリラ討伐に催涙ガスを使用するようになっていきました。軍部はそれを黙殺しました。そして、1937年7月の盧溝橋事件が起こり、日中が全面戦争に入ると、華北・華中でも日本軍は支配に抵抗する中国軍や人民に対し催涙ガスを使用するようになっていきました。
 

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶

<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" title="Dailymotion動画プレーヤー" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8grcvw" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""> </iframe>



 
中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!
チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
 
山下基之弁護士の話
 
 チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。
 

 

認定NPO法人化学兵器被害者支援:​日中未来平和基金

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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:38:36 | Weblog
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

強制労働

殺人長屋に押し込めて酷使

 

大西馨(おおにしかおる)

大尉

〈略歴〉

本籍 愛媛県

学歴 高等小学校卒業

出身階級 貧農

所属部隊名 第42野戦道路隊

年齢 47歳

 「先頭車から出発!!」先頭車の4人は枠に手をかけ、不規則に曲がった軌道に気を配りながらおしていった、そこから急傾斜で台車は矢のように飛ぶ、長浜上等兵は、「おい、ここからは1人で舵を取って下るのだぞ、うまくブレーキをかけんと脱線して車を壊してしまうから気を付けろ、ええか、わかったか!!」

4人の捕虜は心配そうに見ていたが、≪なるほどこれは殺人道だ、ひどいことをさせやがる≫と憤りの眼で睨んでいたが、やがて1人の青年を選んで3人ははらはらしながら振り返り振り返り歩いていった。

 

 

 

    

 

 

    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 
 
●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 日米の対処方針 

 

2)米軍の極東戦略構想 

  ロ 極東方面においては、東北アジア地域の確保、就中、朝鮮方面の作戦を重視する。こ
           れがため、当面、
つとめて迅速且つ局地的に朝鮮方面の武力戦の解決をはかり、極東
           の平和および安全を確保する。

 

 ハ 朝鮮方面においては、太平洋軍の戦力を総合発揮して、韓国軍と協同して迅速且つ局
           地的に当面の共産
陣営の侵略を排除するに努める。この際日本の積極的協力を期待す
         る。

 

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

第4代衛生学校長

 

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

 

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

 

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

 

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

 

『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 
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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:34:02 | Weblog

●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

3,自衛隊における人体実験の疑念 

“人道的兵器”は存在するか

バートランド・ラッセル卿らの提唱によって、科学技術の進歩がもたらす人類への危険性と平和問題について話し合われるパグウォッシュ会議、世界各国の科学者を集めて第1回会議をカナダのパグウォッシュで開いたのは1957年である。

 1959年8月にカナダのノバ・スコシアで開かれた第5回会議では、8か国参加した26名の科学者によって、「微生物学及び化学の知識の平和利用」を推進するための声明が出されたが、細菌兵器として要求される病原体や毒物の性質について、次の5つの項目をあげた。

 

①少量で人間を殺傷し、廃人化する作用を持つこと。

②貯蔵や散布によって、病原性や毒性を失わないこと。

③衛生上の注意や、普通の予防接種の施行で、予防できないこと。

④病原体や病気が簡単に診断できないこと。

⑤紡機が普通の薬や抗生物質で治らないこと。

今の生物兵器の研究はこうした条件にかなうものを選び出すことにあるので、そうした作業は、自衛隊でも、技術研究開発本部第2部や衛生学校、または化学学校、自衛隊中央病院において直接、間接に行われていることはいうまでもなかった。それは、この種の作業に直接関係している隊員たちの考え方の傾向にも強く表れている。

第5代衛生学校長

 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  
    第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

第5章   新しい皇室、新しい国家主義

 宮中グループのメンバーは、英米の大使館も含めて多方面から政治的情報を集め、処理し、天皇に伝えた。天皇は彼らの情報に加えて、政府と軍部から口頭または文書で直接報告される膨大な量の政治軍事情報を独占することができた。また彼は皇族の長として、弟の秩父宮の政治的活動についての報告を、秩父宮の執事から秘密に受け取った。多方向に広がる大きな網の中心にいる静かな蜘蛛のように、彼はその糸を政府の各組織と軍の機関に伸ばし、それらが提供する情報を吸収し、記憶した。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

 

世界は、9条をえらび始めた。

憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。

―中国、40代・男性

9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。

―モンゴル、60代・男性

 『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について

~ご理解していただきたいことを文章にしました~

2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)

私は若い頃、『きけ わだつみのこえ』をよく読んでいました。読んでいく中で波長の合う戦没学生を数名見つけて、現在も時々、読み返しています。とりわけ、佐々木八郎さんの残した手記や日記は私の魂にピタッと伝わってきました。その佐々木さんも、当該鹿屋航空基地から出撃しています。学徒出陣の22歳、沖縄海上で戦死。宮沢賢治の『烏の北斗七星』に関連して書いた自分のエッセイを(第一高校の)クラス会にて発表するほど、戦争(戦いで敵を殺すこと)に対して根本的な疑問を持っていた佐々木さんの、出撃直前と思われる機上での笑顔の写真もあります。それは、生来の朗らかさと親友たちへの別れの笑顔が重なったものと思われます。

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細菌戦の系譜!!

2023-06-28 12:32:42 | Weblog

731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

 

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
 
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
 
※私が考える、今の異常気象の要因は

 

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

 

 

 

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。

 
●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

地球を破壊する核爆発・核実験

 

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要

核兵器禁止条約は、将来的な核兵器の全廃へ向けた、核兵器を包括的に法的禁止とする初めての国際条約である。対象は核兵器で、原子力発電やX線撮影装置などの平和目的での原子力の保有は禁じていない。前文において被爆者の苦痛に対する憂慮と共に、国際人道法と国際人権法の原則が、核兵器廃絶に関して再確認された。この条約の特徴は、核兵器または核爆発装置を所有、保有、管理していた締約国が申告を要する点にある。なお非締結国への法的拘束力は無い。

当条約は1996年4月に起草され、2017年7月に国連総会で賛成多数にて採択され、2020年10月に発効に必要な50ヵ国の批准に達したため、2021年1月に発効した。

なお当条約の国連総会への採択を含め、条約の推進には2007年に核戦争防止国際医師会議から独立して結成された核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の貢献が大きいとされ、同団体は2017年10月6日にノーベル平和賞を受賞した。

 


水素爆弾の恐怖・ビキ

 

 

ニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】

 

 

核実験の人体実験


●核融合もすべきではない!!

 

 

 
 
 
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

 

       

      


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

 
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
 
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した
 

 
 


 

 

 

福島第1原発事故



           











 

 


 
 
 
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

 
 

 

 
 
 

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