核・戦争のない世界!!

2024-08-17 07:10:36 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

   先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
          



 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

         


 原爆    


 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
精製ウィルスと腫瘍形成等
上記の如き前処置、即ちタール、ベンツビレーン猩紅熱等の塗布又は注入によって局所の細胞に死滅を招来する時には、血行内に存する病毒は容易にその所に定著することは考え易い事である。その際如何なる方法によって細胞の死を来さしめても、結果は全く同ーなりやと言うに、決してそうではないのである。上記の脯瘍の形成の場合に於いても、亦梅毒の転移等の場合に於ても同様であって、ある特殊の方法によって、操作することが、最もよいという事が知られているのである。何故であるであろうか。解決して見たい事実であって、単に細胞の死による局所の生理 的抵抗の減退という事のみによっては説明は出来ないのである。尚この種の方法によって、濾過性病毒の特性に関する関する研究も進めて見たい事項の1つであると同時に、所謂悪性腫瘍がある種の血行中にある病毒の作用によって、特定の部位に特に好んで発来するというが如き事実は、本病の性状、特に好発部位に関する硏究の何等かの暗示を与えるかに思われるのである。
 
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
大阪毎日新聞社は、事業拡大の好機と考え、新しい種類の愛国映画を製作し利潤を大幅に増大させようとした。この映画は、この先、国民に求められるべきことを示すものだった。プロデューサーの水野新幸はこの映画について、「共産主義と全体主義とが相闘うというような状態にあつたのであります。各所にテロ行為が行われたり、あるいはデカダンの生活が行われたりしておりまして、人心の帰趨(きすう)のおもむくところがわかつておりませんでした。そこでどうしても、これは新聞の論説とか、そういうようなものだけでなしにこゝに私どもがふだんに考えております映画の偉大なる力を利用して、この国民の思想混乱の状態なり国際情勢の認識なりをさせたいと思いまして」と述べている。その結果作られたのが「非常時日本」であり、喝采を浴びたこのドキュメンタリーは陸軍省後援のもとに8月に製作を終え、1933年末に日本国中で公開された。
 
 
 

 

 

 

 




























 









































































































































































































































































































































































































































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