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●731部隊 ●南京大虐殺 ●昭和天皇 ●教科書問題 ●陸軍登戸研究所 ●日航123便の怪 ●日本とドイツの違い ●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!! ●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? ●731部隊展 秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!! “過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる” 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と言えり、 ・戦争を主導した大元帥、昭和天皇を始め、陸軍参謀総長、閑院宮、海軍軍令部総長、伏見宮、南京大虐殺に関わった上海派遣軍司令官、朝霞宮、影で動いた三笠宮、731部隊と関係のあった竹田宮等々、天皇、皇族は誰一人東京裁判で裁かれなかった!! 金と地位がそうさせたのか? 裕仁の朝廷は1940年10月、戦争が敗北に終った場合に天皇制を守ることを目的とした後方計画を開始した。 第1段階は皇族を責任ある地位から退ける事であった。 第2段階は彼らが戦争準備の過程で何の役割も演じなかったかのように見せかける表向きの筋書きをつくることであった。 菊の垂幕の背後への引退は、10月3日に・・・・75歳の閑院宮が、陸軍参謀総長の職を辞した時に始まった。・・・(『天皇の陰謀』下 バーガミニ著P134 より) ・アジアで多くの人々が虐殺されたのに、天皇はじめ皇族方は誰も処刑されなかった? ・731部隊での人体実験と細菌戦の最高責任者は誰だ? ・沖縄戦で多くの日本人が犠牲になった。その沖縄をアメリカに渡したのは誰だ? ・恐怖政治により、思想犯は拷問にかけられ、投獄され、死んだ者も多かった。 ・1945年5月25日の東京の空襲では皇居の一部が燃えた。火事を防げなかった消防士は後に射殺体となって発見された!! ・(1942年)3月10日、マッカーサーがコレヒドールから脱出の大逃避行に出発する数時間前、英国外相イーデン卿は下院での演説において、全世界に向かい、日本が香港において忌まわしい残虐行為を広範に行ったことを明らかにした。・・・・3月13日に木戸内大臣は裕仁にイーデンの香港事件暴露の演説のことを報告した。裕仁はこのようなことの再発を防ぐ方策は何もとらなかった。裕仁の叔父達や軍関係の助言者達の立場は日本軍は残虐行為を犯すことによって自己の任務を一層忠実に遂行するようになるし、また敵に降伏してはならない、もし降伏すれば彼らが敵に対してした事を自分達に対してされるのだ、ということを彼らに信じさせるためにも必要であるというものであった。(『天皇の陰謀』下、バーガミニ著P335) 日本軍より虐殺と強姦も多発していた ●あの戦争を起こした裕仁の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。 裕仁の戦争責任を感じる者にとって、なんともやりきれない!! 「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!! 安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名? 欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会 やはり、安倍と天皇家はつながっていた!! 天皇と親戚の安倍晋三首相 積極的平和主義の名のもとで・・・日本で「武器ビジネス」に火がついた=中国メディア ●陛下の戦争 治安維持法等で「思想の自由」「良心の自由」は奪われ、ただただ国民は「天皇教」に帰依せざるを得なかった!! 陛下の戦争 ・大元帥裕仁の命令がなければ、一兵卒さえ、動かせなかった。 ・裕仁は生まれたときから、将来の天皇として期待され、また大元帥としても教育された。 ・天皇教は、天皇を世界の中心におき、八紘一宇をめざす。裕仁は大日本帝国をめざした。 『日本が世界征服をたくらんでいた』 ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」 原爆投下、ソ連参戦 東京裁判は2年間続き、1948年に終了。しかし何千ページにわたる証拠書類や証言の中に731部隊に関する一言の記述もありませんでした。 アメリカは待望のデータを手に入れ、石井とその部下達は罪を逃れたのです。 しかし、その事とは別に一つの重要な問題が残されました。 天皇は石井が行った人体実験とのかかわりを追及される事を逃れたばかりか、国民の戦争犯罪に対して法廷に立つ事もなかったのでした。連合国が天皇の必要性を重視したからです。 アメリカと日本が意図的に天皇の戦争責任の追及をやめたということは疑いの余地がありません。 裁かれなかった731部隊員と天皇 天皇は知っていた!! 天皇と731 アメリカ政府の責任 百田尚樹VS田嶋陽子 バトル勃発!東京大空襲・原爆投下は虐殺か? 竹田恒泰語録【原爆投下】オバマ大統領が広島で謝罪する要請があったのに断った日本 原爆投下間違ってなかった米国民5割...松本人志怒る 日本とアメリカの密約 私は、アメリカ(マッカーサー最高司令官)と日本(昭和天皇)との間に戦後、取り交わされた幾つかの密約があると思う。 アメリカは、日本と「日本は731部隊の全てのデータを渡す代わりに、天皇と731部隊員を戦犯免責にする。」 これが、1つ目の密約。 私は、この他に、「731部隊が主に中国で行った非人道的な細菌戦と人体実験、毒ガスの使用、中国等の都市の無差別爆撃を裁判に取り上げない代わりに、アメリカの無差別爆撃、2発の原爆投下の非人道性を日本政府は国際社会に訴えない」ことを密約としたのではないか?と想像する。昭和天皇とマッカーサーの会談で。 昭和天皇は、鬼塚氏によれば「天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。」 ・オバマ大統領が広島でアメリカの原爆投下を謝罪しようとした時、外務省が丁重に断ったと言う。 外務省と言えば、昭和天皇とマッカーサーの通訳をした寺崎英成氏も外務官僚だった。 外務省は、密約をきちんと伝えていたが、アメリカは、大統領が変わるものだから、そこの違いが出たのではないだろうか? 2009年オバマの広島訪問を妨害したのは外務省(=米務省)だったとは、広島市民よ怒れ! ●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!! 1975年10月31日の天皇の記者会見 昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】 中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。 天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・ (鬼塚氏のコメント) これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。 秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、 平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。 天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。 [天皇家の秘密]より 広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。 この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房) (鬼塚氏のコメント) 私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。 ・・・・・・・・ 天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。 (松浦総三の著書より) 裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。 そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。 歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。 というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。 ※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた? 畑元帥と高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!? ●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より) 畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!! この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。 8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。 山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。 有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。 この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。 ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。 「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。 私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・ ・・・・・・・・・・・ 学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。 陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。 ※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか? 高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。 「天皇が戦争中の役割、特に日本の軍隊に忠誠心や勲功より倫理性を重視する行動基準を持たせることができなかった事を理由に裁判にかけられ、法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性―アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念―は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行について天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分達に責任を負う必要などあるわけがないと考えた。 日本の国民は、戦争に対する罪の意識ときわめて真剣に向き合い始めていた。ところが、木戸と東条に天皇の責任を肩代わりさせるなど、責任を不公平に認定したマッカーサーとトルーマンのいち早い決定が、国民のこの取り組みをさえぎってしまった。・・・・」(ハーバード・ビックス著「昭和天皇」下p229~230 ●東京大空襲 東京大空襲 解説)1945年3月18日,死体など〈見苦しい物体〉の後片付けがされた現場を視察する昭和天皇の有名な写真である。お付きの者たちも含め,服装とくにピッカピカにみえる長靴に注目。 「天皇が視察にくるので,空襲で死亡した人たちの遺体をまとめて東陽公園に埋葬したという話を聞かされたある男性は,自分の妻子がそこにいっしょくたに放りこまれ,もう探しようもない事態となっていた顛末に,「憤懣やりきれぬ自分をおさえながら,それからは深川枝川町で,朝鮮人とともに生活するようになった」という。 というのは,洋服屋だった彼は空襲のため「もう洋服屋はできず,その財力もない」ので,朝鮮人たちと同じように「日雇いになって,あちこちで働き,不安定な労働生活が今もなおつづいているが,『わしを助けてくれたのは,政府じゃなかった,朝鮮の人たちだった』と,きっぱりいいきる」(早乙女,224頁)ような,その後における生活状態になっていたからだという。」(1945年3月10日東京下町大空襲の記憶-昭和天皇と敵将ルメイ-より) 政府は被災者に戦後も何の補償もしない!! 1945年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、いよいよ出来そうもなくなってきた。3月9日から10日にかけてアメリカの太平洋空軍は、B29、334機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に対して行った。首都の約4割が灰燼に帰し、推計8万から10万名が焼死した。火災はすさまじく、そのため河川は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風にあおられて墜落した爆撃機もあった。9日後の18日、昭和天皇は侍医と侍従を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三時中武官は、後に罹災者の様子を次のように回想していた。 「焼け跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、3、4台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりもした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人たちを真近にご覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」p118「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著) ●日本政府は731部隊で行われた人体実験、またそこで製造された細菌兵器によって中国で行われた細菌戦について公式に認め、謝罪しないのですか?安倍首相もよくご存知だと思いますが? 戦後70年談話で「謝罪の必要なし」、有識者会議の西室座長 フランスのメディア:日本側の懺悔は足りない 日本政府の731部隊に関する今までの見解(一部) 2012年社民党の服部良一議員が行なった質問に対する、当時民主党の野田佳彦総理が行った国会答弁である。 (提出された質問書と答弁書より) (質問1)アジア歴史資料センターが公開している昭和十七年九月二十二日付けの陸密第二七八五号で陸軍省副官川原直一が発した「不健康業務加算ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒」には「關東軍防疫給水部(大連出張所ヲ含ム)ニ於ケル左記ノ危險ナル細菌ノ研究檢索並ニ診断液又ハ豫防液ノ製造業務ハ大正十三年内閣告示第二號ノ第二號末項ニ該當スルモノトシテ本年九月十六日内閣恩給局長ノ指定アリタルニ付同部隊ニ在リテ直接該業務ニ從事スル公務員ニ對シテハ右指定ノ月以降恩給法第三十八條ノ不健康業務加算ヲ為シ得ル儀ト承知アリ度左記コレラ菌、ペスト菌、チフス菌、パラチフス菌、赤痢菌、流行性脳脊髄膜炎菌及其ノ他危險ナル病原細菌」との記述がある。 1、右の「危險ナル細菌ノ研究檢索並ニ診断液又ハ豫防液ノ製造業務」で、七三一部隊が行っていた業務とはどのようなものか。細菌の培養やワクチン製造を含むのか。また、右の「其ノ他危險ナル病原細菌」で、七三一部隊で取り扱っていた細菌とは何か。炭疽菌、鼻疸菌、結核菌を含むのか、以上明らかにされたい。 (答弁1-1)いわゆる七三一部隊が旧日本軍の関東軍防疫給水部のことであることは、防衛研究所戦史研究センター史料室が保管している旧日本軍の関連資料から明らかとなっている。 しかしながら、外務省、防衛省等の文書において、関東軍防疫給水部におけるお尋ねの「研究檢索」、「製造業務」及び「其ノ他危險ナル病原細菌」の具体的内容を示す資料は現時点まで確認されておらず、お尋ねにお答えすることは困難である。 ※日本政府は資料を確認しようする努力は全くせず、反対にずっと隠している!! (参考) 満州国で安倍の祖父・岸信介もアヘンで大儲けし、巨大な富を築いた!生体人体実験の731部隊の指揮も岸信介 天皇は知っていた!!(積極的に関与していたでは?) 「ミドリ十字」という会社 ウィキペディアより 内藤の起業した日本ブラッドバンクは、当初は輸血用血液の売買を主とするものの、各地に中小の血液銀行が乱立し、 競争が激化するに連れ人工血液製剤への移行を模索した。 ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字に一本化された。路線転換を迫られた内藤は、人工血液と血液製剤への移行を模索する一方、社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。 1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦、厚生省官僚だった松村明仁が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。(薬害エイズ事件)1986年1月に加熱製剤の日本における販売が開始され、十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の回収などの措置を講じなかったとして2000年にミドリ十字の3被告人に実刑判決 ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。 |
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