核・戦争のない世界!!

2025-01-31 09:39:21 | Weblog

青木美希 なぜ日本は原発をやめられないのか? 【著者に訊く!】 20231207


珠洲原発があったら大惨事であった!!原発をなくそう!!
珠洲 地盤の隆起 全長約4キロ高さ2メートル余の「崖」出来る
石川県珠洲市を襲った津波映像 能登半島地震
能登半島地震の写真や図説

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進まぬ耐震化、被害拡大要因か 能登半島地震 死因9割「家屋倒壊」全国で同様の懸念

未知の断層はまだまだあるのではないか??
同時に、原発事故が起きていたら??
国策原発推進反対!!
石川 志賀町で大地震引き起こした活断層とは異なる断層確認
「活断層」リスク評価 専門家 “調査手法など見直す必要ある”


原発活用の国策見直しを!!
ビキニ被災から70年!!
地球を破壊した戦争・核実験・原発
世界に拡がる放射能汚染!!
核兵器禁止条約批准せよ!!
反原発!!温暖化の一番の原因は2000回以上行われた核実験にあるのではないか?

あれだけの戦争をし、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマで4度の被ばくの体験した日本から、核廃絶・反原発・反戦をアピールしよう!!

ビキニ被災から70年!!核廃絶!!

原爆マグロ(水爆マグロ)
マーシャル諸島は太平洋中西部に浮かぶ、たくさんの珊瑚礁からなる国です。アメリカは 1946 年から 58 年までここを核実験場とし、67 回もの実験を行った。
1954年の3月から5月のキャッスル作戦では、多くのマグロが放射能に汚染され、それが問題になったので、3月から12月までは、魚の放射能検査を行ったが、その後は、行っていない。多くの日本人は、放射能汚染されたマグロを食べていたのでは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

築地市場跡地に核廃絶を訴え“マグロ塚”設置を要請 核実験に遭遇した「第五福竜丸」が持ち帰る 




             第5福竜丸無線長 久保山愛吉さん

辞世の句

原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい。

— 久保山 愛吉

※1954年のアメリカの水爆実験による日本の被災船は、延べ1000隻に上る。アメリカは、第五福竜丸の船員には見舞金を支払ったが、他の船員には、全く補償をしていない。
大石又七とマグロ塚(2024年2月25日)
ビキニ 隠された被害


2023「731・原爆・ビキニ・フクシマ」展

なぜ、日本はイタイイタイ病の原因を認めなかった?萩野医師の死後、世界を舞台に起きた陰謀

京都・島根ジフテリア予防接種事件

元731部隊軍医と強制不妊手術

 

 

原子力村解体!!安保村解体!!




























 

第3回「731・原爆・ビキニ・フクシマ」展アンケートから

19日(木)

3、日本だけでなく世界中に被ばく者がいるという事実は本当に驚きです。苦しんでいる方々がたくさんいる一方で、その事実を軽く語ってしまう化学者、医師などがいて、同じ人間として信じられない思いです。人間が作り出したもので、人間が苦しめられている社会の仕組みは、国が悪いことを認めず、ふたをしてしまうという悪がなくならないことに怒りと悲しさを感じます。

 戦争という特殊な状況が起こしたものなのか?人間には元々、残忍な心を持っているのか?

長きに亘って戦ってこられた方々に是非協力したいと思います。

 正しい道が開かれることを願っています。

(60代、市内、チラシ、世界の被ばく者)

 
 
 
 



日中永久不再戦のために!!


 


核なき世界を日本から作りだそう!世界の核兵器の現状と日本の役割


参観者の感想

18、9/30 広島の若い方達の反核運動の具体的話が励まされました。

  9/30 ビデオ―731部隊と現在の感染症(コロナ)との関係のビデオで、医師たちの悪業がよくわかりました。

10/1 PTSDの黒井さんの話=西東京の学童の子ども達に戦争の愚かさを話されてることに感動しました。

 

  展示は全体が分かりやすく、よく作られ多くの人に見てもらいたいです。

  国分寺の中学生の絵とメッセージを出来たら冊子にして頂きたい。

 (70代以上)

 
 
 
 
 
 

第7回三多摩平和交流会


 






第5章 平頂山事件の解決に向けた日中市民の取り組み


平頂山事件幸存者 楊玉芬さんの証言


(聞き手・泉澤章=平頂山事件弁護団弁護士、通訳・藤原知秋)


 


楊玉芬


私たち一家は家を出て、牛乳屋の近くにあった、「おかあさん」と呼んで親しんでいた人の家に行きました。しかし、そこにも日本兵が来て、一緒に家を出され、南の方へ行きました。私は、「おかあさん」の家を出るとき、そこは裕福だったので、リンゴや月餅をもらいました。私たち一家が南へ向かう道路は、あふれるほどの人でした。日本兵の姿は見ませんでした。私たちが追い立てられて集められた場所は、昔日本人が乳牛を飼っていた、崖下の広場でした。広場に入るとき、黒い布で覆われたものがありました。私は、これが写真機だと思いました。そこは広々としたところで、ばらばらに住民が集まってきていましたが,家族毎にひと固まりになって、密接していました。


 






 


 


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