国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-22 07:53:08 | Weblog

●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。



(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。



(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。



(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。





この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。


※原爆が非人間的というが、それならば重慶大爆撃、南京大虐殺、三光作戦、731部隊の生体解剖・細菌戦、慰安婦問題等はどうなんだ?当時の日本国民にはそれらの情報は隠蔽され(今でもそうだが)全く知らされていなかった!!
以下の映像に映っている顕微鏡を覗き込む裕仁の姿に、731のことにも相当詳しかったのではないかとの疑念が生じる!!
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。
原爆の子
最初の原爆はドイツが作ったと言う説もある!!
スパイ ”ベラスコ” が見た広島原爆の正体 (高橋五郎)


日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。

広島・長崎の被爆者はアメリカや天皇家・財閥から賠償金をもらったら!!
(高橋五郎氏の親族は、第五福竜丸に乗っていて、被曝したらしい)
「天皇のスパイ」 高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年8月



731部隊!!

部隊展開催の予定
11月25日(火)~27日(木)世田谷展



夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


東京中野展感想
中野展感想 

●松井先生の講演会のアンケート
1、(1)松井先生の話を聞いて
講演を久しぶりにお聞きして、新しい内部被曝問題に関する鋭い報告を受けとめられた。
(よう素124のこと、トリチウムの危険性を初めて知った。)
(2)講演会の運営についてのご意見
Netを利用して拡散すべきではないか。



●『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

寧波(にんぽー)作戦―日本の医療団も協力


細菌攻撃は空からだけでなく少数グループによる河川の細菌汚染などが行なわれた。
「杭州の第22師団(土橋勇逸中将)の作戦と呼応して行なわれたんです。杭州市付近にゲリラが入り込んでいるのでその掃討作戦が行なわれていた。だから細菌攻撃をしたあとの被害状況は22師団の見聞したものだと思う。“紫色の死体を見た”というのはペスト菌による死者です」
この作戦は、寧波、台州、福州などの東シナ海に面した港湾から行なわれる、いわゆる援蒋(えんしょう)ルートの封鎖作戦の一環として行なわれた模様だ。寧波南方の石浦に産出する蛍石(航空機工業の原料)の獲得も同時に狙った浙東作戦(F1号作戦・昭和15年4月16日~5月25日)とも何らかの形で関連していたと考えられる作戦であった。


続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-21 14:52:25 | Weblog

秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア


●気になるニュース
なぜ、靖国神社や天皇制が残っているのか私にはわからない!!
戦後も、元軍人やA級戦犯容疑の政治家が数多く日本の政治の中枢にい続け、現在もその流れが力を持っている。
国民にそしてアジア諸国等対戦相手に多大な犠牲を負わせたあの戦争。日本もアメリカも正義の戦争をしたのではなかった。日本はアジア諸国を侵略し、略奪を重ねた。アメリカは、日本をまねて、無差別空襲を実施し、最後は2発の原爆投下!!
そして、天皇とアメリカは取引をし、天皇と皇族たちは誰1人裁かれることなく、アメリカは戦争ビジネスでもうけ、731部隊員を裁くことなく、そのデータを買収した。一方B・C級戦犯は証拠も不十分で、弁護も受けることなく、命令者の罪を被されたまま処刑された!!
韓国、靖国参拝を批判 「慨嘆禁じ得ない」

・天皇制を考える
ノーベル物理学賞受賞者・益川敏英博士にインタビュー

日本政府、中国に遺棄した化学兵器の調査・発掘を拡大―日本メディア

秘密保護法:廃止求める緊急アピール 児童作家ら7団体

戦中のゾルゲ事件のような犠牲者がたくさん出るのか?



・中曽根康弘氏の存命中に慰安所設置のことと、日航ジャンボ123号機墜落事故について聞きたい!!
・読者の方から貴重なコメントをいただきました!!
たくさんの国家犯罪を示す貴重な資料の提供ありがとうございます。ねじ曲げられつつある歴史的事実が隠蔽されることなく公開されるため、できることは何かを考えていかなければと思ってるとこです。私の父は、関東軍で慰安婦斡旋の任務だったことを生前話してくれました。国家の政策であったはずです。

中曽根元首相と海軍慰安所(1/2)


慰安婦問題に熱心な自民党議員!この史料も検討したら!!
新発見の日本軍文書:慰安婦が日本政府の行為だった

「戦争受け入れる下地づくり」

慰安婦問題に言及=日本に「遅滞なき解決」求める―国連総会で韓国



・日航123便の怪!!多くの疑問を早く解いて下さい!!
群馬県選出の議員はこの事件の真相を明らかにせよ!!金で有権者を釣るな!!
あゝ安倍「女難」内閣…小渕経産相 辞任“秒読み”
小渕大臣「週明けにも調査結果」 野党は追及

日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
生存者も、夜間に何機ものヘリコプターが上空を飛びまわっており、墜落直後は「かなりの生存者」が救助を待っていたと証言しています。当時の装備でも隊員が夜間に降下することは十分可能だったはずで、じゃあ「人命救助そっちのけで何をしていた?」となります。
この辺りは情報が錯綜しており数多くの陰謀論が出てくるのですが、そこは控えます。
しかし考えれば考えるほど「腑に落ちないところ」が出てくるので、改めて記録を丹念に読み返してみようと思います。また書く機会があると思います。
遅ればせながらですが、犠牲となられた520名の方々のご冥福をお祈りいたします。

『日航機墜落30回目の夏生存者が今明かす32分間の闘い』



中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない!!地元なのにおかしい!! しかも首相の頃の事故!!
中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」JAL123便は自衛隊が撃墜した


この人に、この月例会の後何があったのか?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

日本航空123便墜落テロから28年目特集3 (123便テロ総まとめ。 ちなみに佐宗邦皇<さそう くにお>さんが、「アメリカ軍によって撃墜された」と2009年8月8日の月例会で語った翌日に死亡。おそらく暗殺)

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】






●安倍政権の「景気浮揚」の美名の下、また水面下で戦争ビジネスが加速しているのでは?
枯葉剤の製造には日本も関係があるのでは?

婦民新聞8月10日、20日合併号(2014年)
(参考)
ベトナム戦争では、枯葉剤も使用された。枯葉剤の研究も731部隊で行われていたと聞く。
「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったということを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるということを聞いた。何ともやりきれない想いにとらわれてしまった。
戦争は2度と起こしてはいけないと、心の中で念じつつ、筆を置くことしかできない今の自分を残念に思うことしきりである。」
「真相:石井細菌戦部隊 郡司洋子編」徳間書房より

枯葉剤の原料は三井化学が製造していた?
そしてもう1つ。「・・・この三井化学(戦時中、毒ガス工場のあった大久野島に毒ガスの原料となる化学物質を提供、供給していた)は戦後も生き残り、毒ガスの原料となる薬品をニュージーランドなどを経由し、アメリカにこの製品を売り、これが米軍の枯葉剤になったのです。ベトナム戦争で使われた枯葉剤の70%は日本製だと言われています。」(3月の「毒ガス連続学習会」より)
ベトナム戦争の枯葉剤で思い出すのは、ベトちゃんドクちゃんである。
ベトちゃんドクちゃんは、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで産まれた双子の兄弟を指す、日本で一般に呼び習わされた愛称である。兄はグエン・ベト(Nguyễn Việt, 漢字: 阮越、1981年2月25日 - 2007年10月6日)、弟はグエン・ドク(Nguyễn Đức, 漢字: 阮、1981年2月25日 - )。ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の被害者の可能性があると報道された。ベトが急性脳症となったことを契機として手術で分離した。
この分離手術は日本で行なわれたが、皮肉にもその枯葉剤の基礎研究みたいなものが731部隊で行なわれていて、それをアメリカが引きついで研究し、枯葉剤を製造し、ベトナム戦争で使った。
また、枯葉剤を搭載した爆撃機は沖縄から飛び立ったのかもしれない。
ベトナム戦争にも、戦後の日米同盟の中で、日本は間接的ではあるが、大きくかかわってしまった!!



●脱原発
御嶽山噴火=続く火山活動


小出裕章先生:原子力規制委員会が川内原発が安全と墨付きを出したそのことが非科学的だと思います。







●皇室の秘密
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?より
日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.
しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ:
ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。
「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。
私は裕仁を子供の頃から存じている。
彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。
しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
著者より読者へ



天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。より
天皇家の紋章 | Renaissancejapan
これだけではありません。実は天皇家にはもう一つの紋章があります。それは獅子と一角獣とを組み合わせた図柄のものです。下にある左側の写真がそれです。

これは明治時代に来日したスコットランド人、ノーマン・マクレオド氏の本から抜き取った写真だそうですが、旧皇居である京都御所の清涼殿にある天皇の座の前には、獅子と一角獣の像があったようです。(平凡社 世界百科事典)
しかし、問題は右の図柄です。これは一体何の紋章だと思いますか。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、実はかの金融ユダヤの帝王・ロスチャイルド家の紋章です。なんとも天皇家の紋章と似てはいませんか。
言うまでもないことですが、このロスチャイルド一族は昔から悪魔崇拝儀式を中心的に行ってきた一族です。念のため、以下に証拠となる動画のリンクを貼っておきます。
〈動画〉ロスチャイルド家の仮面舞踏会 オカルト崇拝?イルミナティ MKウルトラ スカル&ボーンズ>



天皇家の守り人組織は暴力団!
天皇家の秘密―再掲
美智子さんや天皇家の人々の真実
皇室の秘密  美智子妃殿下の性格
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
2012/6/26 皇室裏アルバム:水俣チッソ財閥令嬢 雅子様の本当の病名
2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)

「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」より
(昭和天皇がたいへんなゴルフ好きであったというのは、いまではあまり知られていない。初めてクラブを握ったのは、皇太子時代の大正6年だそうだから、日本のゴルファーとしてはかなり早く、非常にモダンな方だったことが分かる。すすめたのは、西園寺公望の女婿の西園寺八郎と、横浜正金銀行重役の森村市左衛門で、彼らは大正3年に駒沢に創設された東京ゴルフ倶楽部の会員だった。ゴルフクラブも彼らがニューヨークに注文し、スラゼンジャー製のを3組献上したらしい。『昭和天皇のゴルフを想う』海老沢泰久2004・7・24東洋経済)
第二代慶應義塾塾長や横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉の息子は戦後、1949年(昭和24年)皇太子明仁(現天皇)の教育掛となった小泉信三である。小泉は『共産主義批判の常識』などを著し戦後講和問題でもソ連とは与せず単独講和論を主張した。
天皇家が日清戦争で味をしめたのは有名な話である。この侵略強盗戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。何故かこのうちの二千万円が皇室の財宝となった。
次の大戦のさなか参謀本部の将軍達から逐一詳細な戦況報告を受け一喜一憂しながら戦争にのめり込んで行く天皇の姿は、さながらイラク侵略の戦況に眠られぬ朝を迎える石油資本の株主たちと重なる。
うつくしいやまとのくにの「文化的概念としての天皇」(=by三島由紀夫)の神々しい正体である。



●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?


こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎


・侍従・侍従長などには定年がないのか?皇室にはいろいろな疑惑がわく!!
入江相政

昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

渡辺監督が語る最新作『天皇伝説』の過激な内容とは!?

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

(参考)
【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731 

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。


『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)

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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-21 14:51:23 | Weblog

●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。



(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。



(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。




(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。



この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。


※原爆が非人間的というが、それならば重慶大爆撃、南京大虐殺、三光作戦、731部隊の生体解剖・細菌戦、慰安婦問題等はどうなんだ?当時の日本国民にはそれらの情報は隠蔽され(今でもそうだが)全く知らされていなかった!!
以下の映像に映っている顕微鏡を覗き込む裕仁の姿に、731のことにも相当詳しかったのではないかとの疑念が生じる!!
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。

原爆の子
最初の原爆はドイツが作ったと言う説もある!!
スパイ ”ベラスコ” が見た広島原爆の正体 (高橋五郎)


日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。


広島・長崎の被爆者はアメリカや天皇家・財閥から賠償金をもらったら!!
(高橋五郎氏の親族の人は、第五福竜丸に乗っていて、被曝したらしい)
「天皇のスパイ」 高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年8月




731部隊!!

部隊展開催の予定
11月25日(火)~27日(木)世田谷展



聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


東京中野展感想
中野展感想 

8月2日分

11、40代 男

・731部隊展の展示内容を見て
久しぶりに731部隊展を拝見しました。「戦後」は未だに終わっていない。今この展示を見て、ここからアジアとの関係を考えなければいけないと思いました。



●『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

寧波(にんぽー)作戦―日本の医療団も協力


―郡司陽子さんは防菌衣を着て細菌を撒布した村落に行く様子が書かれてありますが。
「防菌衣を着て行くというのはペスト菌を撒いたからですよ。腸チフスや何かであればそんなに怖がることはないもの。私は銭塘江を越えて粛山までは行ったことがある。地上の班ならぎりぎり限度行っても紹興(しょうこう)のあたりまでかな」
731部隊杭州派遣隊の本来の目的である細菌爆弾による攻撃は10月頃から本格化した。主要な攻撃目標は寧波市と周辺の村落である。
飛行機は小型旧式機(貨車で運搬したもの)とDC4型と戦闘機3機ほど用いたと石橋氏は記憶している。もっとも盛んな時期には1日に3回ほど、細菌爆弾を落とすことがあった。



続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

コメント
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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-20 08:37:35 | Weblog
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア


●気になるニュース
なぜ、靖国神社や天皇制が残っているのか私にはわからない!!
戦後も、元軍人やA級戦犯容疑の政治家が数多く日本の政治の中枢にい続け、現在もその流れが力を持っている。
国民にそしてアジア諸国等対戦相手に多大な犠牲を負わせたあの戦争。日本もアメリカも正義の戦争をしたのではなかった。日本はアジア諸国を侵略し、略奪を重ねた。アメリカは、日本をまねて、無差別空襲を実施し、最後は2発の原爆投下!!
そして、天皇とアメリカは取引をし、天皇と皇族たちは誰1人裁かれることなく、アメリカは戦争ビジネスでもうけ、731部隊員を裁くことなく、そのデータを買収した。一方B・C級戦犯は証拠も不十分で、弁護も受けることなく、命令者の罪を被されたまま処刑された!!
韓国、靖国参拝を批判 「慨嘆禁じ得ない」

首相、小渕氏と20日にも面会 辞表提出受け後任人選本格化

小渕優子大臣の辞任に見る、数合わせの女性登用による弊害 岡田ひろみ


戦中のゾルゲ事件のような犠牲者がたくさん出るのか?



・中曽根康弘氏の存命中に慰安所設置のことと、日航ジャンボ123号機墜落事故について聞きたい!!
・読者の方から貴重なコメントをいただきました!!
たくさんの国家犯罪を示す貴重な資料の提供ありがとうございます。ねじ曲げられつつある歴史的事実が隠蔽されることなく公開されるため、できることは何かを考えていかなければと思ってるとこです。私の父は、関東軍で慰安婦斡旋の任務だったことを生前話してくれました。国家の政策であったはずです。

中曽根元首相と海軍慰安所(1/2)


慰安婦問題に熱心な自民党議員!この史料も検討したら!!
新発見の日本軍文書:慰安婦が日本政府の行為だった

「戦争受け入れる下地づくり」



・日航123便の怪!!多くの疑問を早く解いて下さい!!
群馬県選出の議員はこの事件の真相を明らかにせよ!!金で有権者を釣るな!!
あゝ安倍「女難」内閣…小渕経産相 辞任“秒読み”
小渕大臣「週明けにも調査結果」 野党は追及

日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
さて事故機が墜落したのが8月12日の18時54分ですが、その墜落機体が「発見」されたのは何と翌13日の4時30分、救助隊が事故現場に到着して救助活動が開始されたのが8時半とされています。
もしそうだとすれば墜落機体の「発見」まで9時間半、救助活動の開始まで13時間半もかかっています。いくら事故現場が険しい山中だったとしても信じられない鷹揚さで、少なくとも「生存者の発見・救出が最優先ではなかった」と考えざるを得ません。
しかし実際には墜落からわずか20分後の19時15分に、米空軍の輸送機が山中で大きな火災を発見したと航空自衛隊に通報しており、20時42分には航空自衛隊・百里基地から飛び立ったヘリコプターが現場上空に到着していました。

『日航機墜落30回目の夏生存者が今明かす32分間の闘い』



中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない!!地元なのにおかしい!! しかも首相の頃の事故!!
中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」JAL123便は自衛隊が撃墜した


この人に、この月例会の後何があったのか?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

日本航空123便墜落テロから28年目特集3 (123便テロ総まとめ。 ちなみに佐宗邦皇<さそう くにお>さんが、「アメリカ軍によって撃墜された」と2009年8月8日の月例会で語った翌日に死亡。おそらく暗殺)

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】







●安倍政権の「景気浮揚」の美名の下、また戦争ビジネスが加速しているのでは?
枯葉剤の製造には日本も関係があるのでは?

婦民新聞8月10日、20日合併号(2014年)
(参考)
ベトナム戦争では、枯葉剤も使用された。枯葉剤の研究も731部隊で行われていたと聞く。
「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったということを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるということを聞いた。何ともやりきれない想いにとらわれてしまった。
戦争は2度と起こしてはいけないと、心の中で念じつつ、筆を置くことしかできない今の自分を残念に思うことしきりである。」
「真相:石井細菌戦部隊 郡司洋子編」徳間書房より

枯葉剤の原料は三井化学が製造していた?
そしてもう1つ。「・・・この三井化学(戦時中、毒ガス工場のあった大久野島に毒ガスの原料となる化学物質を提供、供給していた)は戦後も生き残り、毒ガスの原料となる薬品をニュージーランドなどを経由し、アメリカにこの製品を売り、これが米軍の枯葉剤になったのです。ベトナム戦争で使われた枯葉剤の70%は日本製だと言われています。」(3月の「毒ガス連続学習会」より)
ベトナム戦争の枯葉剤で思い出すのは、ベトちゃんドクちゃんである。
ベトちゃんドクちゃんは、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで産まれた双子の兄弟を指す、日本で一般に呼び習わされた愛称である。兄はグエン・ベト(Nguyễn Việt, 漢字: 阮越、1981年2月25日 - 2007年10月6日)、弟はグエン・ドク(Nguyễn Đức, 漢字: 阮、1981年2月25日 - )。ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の被害者の可能性があると報道された。ベトが急性脳症となったことを契機として手術で分離した。
この分離手術は日本で行なわれたが、皮肉にもその枯葉剤の基礎研究みたいなものが731部隊で行なわれていて、それをアメリカが引きついで研究し、枯葉剤を製造し、ベトナム戦争で使った。
また、枯葉剤を搭載した爆撃機は沖縄から飛び立ったのかもしれない。
ベトナム戦争にも、戦後の日米同盟の中で、日本は間接的ではあるが、大きくかかわってしまった!!




●皇室の秘密

暴力団を追放したかったら、天皇一族を追放するしかない!天皇家が存在する限り、「天皇の守り人」としての暴力団は永遠になくならない。

そして、その暴力団追放運動が行われたのは、皮肉にも、天皇杯の会場だった!つまり、天皇一家は暴力団を、「天皇の守り人」として使っておきながら、「暴力団追放運動」などを表向きしている偽善者なのだ。この様に2枚舌をうまく使いこなす事ができるのが、爬虫類人レプタリアン達の得意技だ。彼等は口を開けば嘘ばっかりなのだ。
 
天皇家の守り人組織は暴力団!

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。より
先ず天皇家のシンボルマークについて。これについては、以前にもお話させていただきましたが、ここでも簡単にお話をさせていただきます。

天皇家には古くから上の図のような「菊の御紋」が使われています。しかし、これは「菊」ではありません。この図を見ると、花弁が16枚ありますが、16枚の花弁をもった菊などこの世には存在していません。これは明らかに「太陽崇拝」のシンボルマークです。「太陽崇拝」とはつまり「悪魔崇拝」のことです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
フリーメーソンのマークは1万年以上も前から存在した。「ホルスの目」に隠された悪魔の真相。
上のリンクにもある通り、「太陽崇拝」がもっとも盛んに行われたのは古代エジプト王朝のときのことです。その後、悪魔崇拝者たちはユダヤ教徒の中に紛れ込み、イスラエルを中心として様々な場所で「悪魔崇拝」を行ってきました。それらの地域でもこの「菊の御紋」がいくつも見付かっています。


天皇家の秘密―再掲
美智子さんや天皇家の人々の真実
皇室の秘密  美智子妃殿下の性格
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
2012/6/26 皇室裏アルバム:水俣チッソ財閥令嬢 雅子様の本当の病名
2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)
1887年に横浜正金銀行条例が制定され、特殊銀行として外国為替銀行となった。その後日露戦争に際しては外債募集に努め、日露戦争後は満州における中心的な金融機関となって、支店網を拡げ外国との貿易・金融の面で巨額の利益を上げた。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
『米従軍記者が見た昭和天皇』ポール・マニングHIROHITO : the ar years(Manning, Paul)マルジュ社 2005



●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?



こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎


・侍従・侍従長などには定年がないのか?皇室にはいろいろな疑惑がわく!!
入江相政

昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

渡辺監督が語る最新作『天皇伝説』の過激な内容とは!?

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

(参考)
【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731 

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。


『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)
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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-20 08:36:05 | Weblog

●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。


(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。



(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。




(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。



この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。


※原爆が非人間的というが、それならば重慶大爆撃、南京大虐殺、三光作戦、731部隊の生体解剖・細菌戦、慰安婦問題等はどうなんだ?当時の日本国民にはそれらの情報は隠蔽され(今でもそうだが)全く知らされていなかった!!
以下の映像に映っている顕微鏡を覗き込む裕仁の姿に、731のことにも相当詳しかったのではないかとの疑念が生じる!!
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。

原爆の子
最初の原爆はドイツが作ったと言う説もある!!
スパイ ”ベラスコ” が見た広島原爆の正体 (高橋五郎)


日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。


広島・長崎の被爆者はアメリカや天皇家・財閥から賠償金をもらったら!!
(高橋五郎氏の親族の人は、第五福竜丸に乗っていて、被曝したらしい)
「天皇のスパイ」 高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年8月




731部隊!!

部隊展開催の予定
11月25日(火)~27日(木)世田谷展



夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


東京中野展感想
中野展感想 

8月2日分

10、30代 男

・731部隊展の展示内容を見て
内容がハードでした。

・731部隊展の運営についてのご意見
わかりやすかったです。




●『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

寧波(にんぽー)作戦―日本の医療団も協力


西郡(にしごおり)彦嗣(ひこつぐ)中佐に随伴して行なった従卒的立場の石橋氏は作戦面での詳細はタッチしていなかったと思われる。しかし、徳間書店刊、郡司陽子著『証言731石井部隊』を見ても、ペスト汚染の集落に、白ずくめの防菌衣の一団が接近し細菌の汚染度を調べ、軍医指揮のもとに一帯の川や井戸水を採取し、記録した。ついで2,30人の女性や子供を含む集落の人々を捕えて帰り、軍医が細菌の影響を検査し、集落の状況を聴取した後、全員山奥で自分で溝を掘らされ首を斬られたという。
―それは銃殺ではなかったんですか?
私がそう問うと石橋氏は答えた。
「いや、本当に日本刀で首を斬り落としたんだ。私らが見た中国側偵察員のは・・・・」
―自分で穴を掘らされてですか?
「そこまでは見ていなかったが、穴はもう掘ってあった。首を斬られたのは2人でしたね」
―その人たちの様子はどうでした。
「諦めきっている様子だったですね」




続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-19 08:23:35 | Weblog

秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア


●気になるニュース
なぜ、靖国神社や天皇制が残っているのか私にはわからない!!
戦後も、元軍人やA級戦犯容疑の政治家が数多く日本の政治の中枢にい続け、現在もその流れが力を持っている。
国民にそしてアジア諸国等対戦相手に多大な犠牲を負わせたあの戦争。日本もアメリカも正義の戦争をしたのではなかった。日本はアジア諸国を侵略し、略奪を重ねた。アメリカは、日本をまねて、無差別空襲を実施し、最後は2発の原爆投下!!
そして、天皇とアメリカは取引をし、天皇と皇族たちは一切裁かれることなく、アメリカは戦争ビジネスでもうけ、731部隊員を裁くことなく、そのデータを買収した。一方B・C級戦犯は証拠も不十分で、弁護も受けることなく、命令者の罪を被されたまま処刑された!!
3閣僚の靖国参拝に抗議=日本大使館に、2日連続―中国外務省

政治とカネ、看板に傷 小渕氏、身内も辞任論

安倍首相 小渕大臣とあす会談へ



戦中のゾルゲ事件のような犠牲者がたくさん出るのか?



・中曽根康弘氏の存命中に慰安所設置のことと、日航ジャンボ123号機墜落事故について聞きたい!!
中曽根元首相と海軍慰安所(1/2)


「戦争受け入れる下地づくり」

慰安婦問題に言及=日本に「遅滞なき解決」求める―国連総会で韓国

こんな事に国民の税金を使わず、慰安所を設置したという中曽根自身から直接昔の話を聞き出したらいいのでは!!
軍の関与、慰安婦の強制制、待遇など多くのことを聞き出せるのでは?
そして、日本政府が隠している情報にも、自民党はしっかり国民の前に出して、説明しろ!!
慰安婦問題で小池百合子氏「対外広報を優先に」


・日航123便の怪!!多くの疑問を早く解いて下さい!!
群馬県選出の議員はこの事件の真相を明らかにせよ!!金で有権者を釣るな!!
あゝ安倍「女難」内閣…小渕経産相 辞任“秒読み”
小渕大臣「週明けにも調査結果」 野党は追及

日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
つまり垂直尾翼は、機内の圧力ではなく、機外からの何かしらの作用によって吹き飛んだことになります。一般的には「何かがぶつかった」とか「何かに攻撃された」といいます。
この運輸省事故調査委員会は、2000年8月に一部の(たぶん重要な)調査資料を廃棄していたことが明らかになりますが、同じ頃に事故機のコクピット・ボイスレコーダーがマスコミに流出し、一斉にテレビ放映されました。
記憶にある方も多いと思いますが、これは事故調査員会が「情報開示」したものではありません。「隠し損なった」ものですが、改竄あるいは重要な部分が抜き取られている可能性もあります。
このボイスレコーダーを新たに最新技術で分析し、特に(圧力隔壁が機体後部に穴をあけて垂直尾翼を吹き飛ばしたとされる)爆発音の謎に迫る特別番組が、本日(8月12日)18時30分~20時54分にフジテレビでオンエアされます。
すんなりとオンエアされるようなので「衝撃の事実」は出てこないと思いますが、真剣にみるつもりです。

『日航機墜落30回目の夏生存者が今明かす32分間の闘い』



中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない!!地元なのにおかしい!! しかも首相の頃の事故!!
中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」JAL123便は自衛隊が撃墜した


この人に、この月例会の後何があったのか?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

日本航空123便墜落テロから28年目特集3 (123便テロ総まとめ。 ちなみに佐宗邦皇<さそう くにお>さんが、「アメリカ軍によって撃墜された」と2009年8月8日の月例会で語った翌日に死亡。おそらく暗殺)

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】



●原爆投下時の真実
なぜ、被爆者を少なくしようという思考が働かなかったのか?
・原爆投下を当時の長崎県知事も知っていたのでは?なぜ、避難指示を出さなかったのか?
※当時の知事は内務官僚で、県民を取り締まるという感じだったのか?閣下と呼ばれていた!!
以下、永野若松(当時の長崎県知事のウキペディアより)

同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。翌日8月9日、長崎市内立山町・諏訪公園内の防空壕に置かれた県防空本部に幹部を招集、「新型爆弾」被災時の対策を協議した。長崎に投下された原爆に被災したのはこの最中であったが、爆心地から金比羅山を隔てて約2.7km離れており、かつ防空壕内であったため、一時的に停電が起こったほかに直接の被害はなかった。


永野若松県知事がいた防空壕

・高野源進広島県知事(1945年当時)の墓とその書簡




●安倍政権の「景気浮揚」の美名の下、また戦争ビジネスが加速しているのでは?
枯葉剤の製造には日本も関係があるのでは?

婦民新聞8月10日、20日合併号(2014年)
(参考)
ベトナム戦争では、枯葉剤も使用された。枯葉剤の研究も731部隊で行われていたと聞く。
「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったということを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるということを聞いた。何ともやりきれない想いにとらわれてしまった。
戦争は2度と起こしてはいけないと、心の中で念じつつ、筆を置くことしかできない今の自分を残念に思うことしきりである。」
「真相:石井細菌戦部隊 郡司洋子編」徳間書房より

枯葉剤の原料は三井化学が製造していた?
そしてもう1つ。「・・・この三井化学(戦時中、毒ガス工場のあった大久野島に毒ガスの原料となる化学物質を提供、供給していた)は戦後も生き残り、毒ガスの原料となる薬品をニュージーランドなどを経由し、アメリカにこの製品を売り、これが米軍の枯葉剤になったのです。ベトナム戦争で使われた枯葉剤の70%は日本製だと言われています。」(3月の「毒ガス連続学習会」より)
ベトナム戦争の枯葉剤で思い出すのは、ベトちゃんドクちゃんである。
ベトちゃんドクちゃんは、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで産まれた双子の兄弟を指す、日本で一般に呼び習わされた愛称である。兄はグエン・ベト(Nguyễn Việt, 漢字: 阮越、1981年2月25日 - 2007年10月6日)、弟はグエン・ドク(Nguyễn Đức, 漢字: 阮、1981年2月25日 - )。ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の被害者の可能性があると報道された。ベトが急性脳症となったことを契機として手術で分離した。
この分離手術は日本で行なわれたが、皮肉にもその枯葉剤の基礎研究みたいなものが731部隊で行なわれていて、それをアメリカが引きついで研究し、枯葉剤を製造し、ベトナム戦争で使った。
また、枯葉剤を搭載した爆撃機は沖縄から飛び立ったのかもしれない。
ベトナム戦争にも、戦後の日米同盟の中で、日本は間接的ではあるが、大きくかかわってしまった!!






●皇室の秘密
しかし、天皇家には、ヒロヒトがヒットラーに頼んで作ってもらったヒロヒト・アカウントがスイス銀行にある。そこには、日本の7割近い富が隠してあるという。その金額は30兆円にもなるという。気の遠くなる金額だ。その富は、もちろん、第二次世界大戦中にアジア各国から強盗殺人してきたものだ。その上に、バチカン銀行にも20兆円くらい隠しているらしい。そう、天皇家は世界を支配するエリザベス女王以上に金持ちと言っても過言ではない。その他、ほとんどの日本企業は、天皇財閥に属する。つまり、日本の経済の元締めは天皇一家だという事だ。


天皇家の守り人組織は暴力団!

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。より
○欧州のロシア産ガス、大半がウクライナを経由。ユダヤ金融資本がプーチンを攻撃するためこのパイプを断絶した。
そして、そのユダヤの思惑に手を貸したのが、この「小和田恒」という人物であり、この功績が買われて、自分の娘を皇太子妃とすることを金融ユダヤから許可された可能性が大です。
おい、ちょっと待て。皇太子との結婚をどうして金融ユダヤが許可することができるのだ、と思う人がいるかも知れません。
では、一つ一つ金融ユダヤと天皇家とのつながりを見ていきましょう。



天皇家の秘密―再掲
美智子さんや天皇家の人々の真実
皇室の秘密  美智子妃殿下の性格
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
2012/6/26 皇室裏アルバム:水俣チッソ財閥令嬢 雅子様の本当の病名
2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)
大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
国体とは実はこのゼニであった。
戦場で散って行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖財閥」を頂点とするゼニの塊だったのである。
1969年の5月13日、超満員となった東大教養学部900番教室で、三島由紀夫は天皇を「ブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。」などと寝言を言って全共闘にコテンパにやっつけられた。
終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。



●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?


こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎



日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731 

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。

『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)

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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-19 08:22:50 | Weblog

●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。



(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。



(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。





(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。




この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。



●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。
原爆の子
最初の原爆はドイツが作ったと言う説もある!!
スパイ ”ベラスコ” が見た広島原爆の正体 (高橋五郎)


日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。

広島・長崎の被爆者はアメリカや天皇家・財閥から賠償金をもらったら!!
(高橋五郎氏の親族の人は、第五福竜丸に乗っていて、被曝したらしい)
「天皇のスパイ」 高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年8月






731部隊!!

部隊展開催の予定
11月25日(火)~27日(木)世田谷展



夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


東京中野展感想
中野展感想 

8月2日分

9、70代以上 男
・731部隊展の展示内容を見て
簡潔に要領よくまとめられている。
若い年代に(特に50代以下の人々)に理解してもらうことが大事である。ミニ勉強会などをやってみてはどうか。

・731部隊展の運営についてのご意見
当時の国の形(明治憲法下)であることから、全ての組織の運営は731部隊のようなものではなかったか。

・その他なんでも
人間の悲しさ、怖さを感じ、人間の欲望をどう抑えていくのかを追求していくことが最大の課題ではないか。



●『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

寧波(にんぽー)作戦―日本の医療団も協力


もちろん細菌戦の行動そのものは極秘であるから日誌などに記録するはずはない。むしろこの日誌では、できる限りのんびりしたムードの面を強調し描いているのだ。
同じ9月3日の1場面。「外出のたびに杭州に出て革具屋を冷やかして靴やカバンを値切ってみたりした。正金銀行で為替を交換できなくなってしまった。総軍の許可証を必要とするようになってしまった。杭州銀座へ田部井博士と一緒に麻雀を買いに行った日も暑い日であった」。この「田部井博士」はのちに京都大学細菌学の教授となった田部井和である。
田部井についてはハバロフスク裁判(ソ連軍に捕えられた731部隊隊員に対して1949年12月25日から30日まで、細菌兵器の準備と使用の容疑で12名に対する裁判が行われた)で、証人古都良雄が次のように証言している。
「1943年頃、私は、第1部長田部井の命により、第731部隊内監獄に収容せる人間のチフス感染実験に初めて参加しました。私は1リットルの甘水をつくり、これにチフス菌をもって汚染した後、1リットルの水を加え、この水を約50名の中国人に強制的に飲ませた後、予防注射の有無、その回数と量によって、それぞれの場合この病原菌がどんな効力を示すかを観察しました。その大部分はチフスにかかり、とにかく12名か13名死にました。果物の汚染実験が行なわれたのは、1943年か44年で、使用されたのはスイカとマクワ瓜です。その1部に細菌を注射し、他は汚染しないでおきました。その後は、細菌の濃さの検査と、その内部での細菌繁殖の検査結果を分析していました。細菌量の多いものを中国人と満州人5、6名に食べさせました。この結果、全員チフスにかかりました」

続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

コメント
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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-18 08:49:41 | Weblog

秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア


●気になるニュース
日本内閣、『特定秘密保護法』の運用基準を決定

韓国が米国で慰安婦像設置を加速、米国ネット「日本でやれ」「韓国にも慰安婦制度はあった、矛盾している」

中国外交部、「日本で靖国神社をめぐる消極的な動き、断固として反対する」―中国メディア


・中曽根康弘氏の存命中に慰安所設置のことと、日航ジャンボ123号機墜落事故について聞きたい!!
中曽根元首相と海軍慰安所(1/2)


「戦争受け入れる下地づくり」

慰安婦問題に言及=日本に「遅滞なき解決」求める―国連総会で韓国

こんな事に国民の税金を使わず、慰安所を設置したという中曽根自身から直接昔の話を聞き出したらいいのでは!!
軍の関与、慰安婦の強制制、待遇など多くのことを聞き出せるのでは?
そして、日本政府が隠している情報にも、自民党はしっかり国民の前に出して、説明しろ!!
慰安婦問題で小池百合子氏「対外広報を優先に」

慰安婦問題、脅迫に対し声明 日本ペンクラブ

・日航123便の怪!!多くの疑問を早く解いて下さい!!
日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
まず運輸省航空事故調査委員会は、機体後部にある圧力隔壁が金属疲労による亀裂で強度が低下し、機内の圧力に耐え切れなくなって損壊したため機内の空気が機体後部に急激に流れ、その衝撃で垂直尾翼を損壊させたと結論づけています。さらに事故機が1987年に「しりもち事故」を起こした際に、ボーイング社の圧力隔壁の修理が不十分だったとも付け加えています。
つまり事故機の機内がまるで高圧ボンベのように機体後部を破壊し(つまり穴をあけて)垂直尾翼を吹き飛ばしたことになります。いくら圧力隔壁に亀裂が入っていたとしても「大変に不自然」です。
だいたいその時点で事故機は24000フィート(7200メートル)まで上昇しており、機体後部に穴があけば機内は急激な減圧と酸素不足に見舞われます。しかし生存者(スチュワーデス)の証言では機内で普通に呼吸ができたそうです。


中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない!!地元なのにおかしい!! しかも首相の頃の事故!!
中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」JAL123便は自衛隊が撃墜した


この人に、このビデオの後何があったのか?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

佐宗邦皇(さそうくにお)代表は、このビデオの直後に倒れ、翌日帰らぬ人となった。
脳出血ということになっている。会場で出されたペットボトル「おーい!お茶500ml」を一口飲んだ佐宗代表、そのわずか30秒~1分程で突然倒れた。すかさずそのペットボトルを回収すべく駆け寄った何者かの間で、緊迫した状況があったようである。





●原爆投下時の真実
なぜ、被爆者を少なくしようという思考が働かなかったのか?
・原爆投下を当時の長崎県知事も知っていたのでは?なぜ、避難指示を出さなかったのか?
※当時の知事は内務官僚で、県民を取り締まるという感じだったのか?閣下と呼ばれていた!!
以下、永野若松(当時の長崎県知事のウキペディアより)

同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。翌日8月9日、長崎市内立山町・諏訪公園内の防空壕に置かれた県防空本部に幹部を招集、「新型爆弾」被災時の対策を協議した。長崎に投下された原爆に被災したのはこの最中であったが、爆心地から金比羅山を隔てて約2.7km離れており、かつ防空壕内であったため、一時的に停電が起こったほかに直接の被害はなかった。


永野若松県知事がいた防空壕

・高野源進広島県知事(1945年当時)の墓とその書簡




●枯葉剤の製造には日本も関係があるのでは?

婦民新聞8月10日、20日合併号(2014年)
(参考)
ベトナム戦争では、枯葉剤も使用された。枯葉剤の研究も731部隊で行われていたと聞く。
「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったということを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるということを聞いた。何ともやりきれない想いにとらわれてしまった。
戦争は2度と起こしてはいけないと、心の中で念じつつ、筆を置くことしかできない今の自分を残念に思うことしきりである。」
「真相:石井細菌戦部隊 郡司洋子編」徳間書房より

枯葉剤の原料は三井化学が製造していた?
そしてもう1つ。「・・・この三井化学(戦時中、毒ガス工場のあった大久野島に毒ガスの原料となる化学物質を提供、供給していた)は戦後も生き残り、毒ガスの原料となる薬品をニュージーランドなどを経由し、アメリカにこの製品を売り、これが米軍の枯葉剤になったのです。ベトナム戦争で使われた枯葉剤の70%は日本製だと言われています。」(3月の「毒ガス連続学習会」より)
ベトナム戦争の枯葉剤で思い出すのは、ベトちゃんドクちゃんである。
ベトちゃんドクちゃんは、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで産まれた双子の兄弟を指す、日本で一般に呼び習わされた愛称である。兄はグエン・ベト(Nguyễn Việt, 漢字: 阮越、1981年2月25日 - 2007年10月6日)、弟はグエン・ドク(Nguyễn Đức, 漢字: 阮、1981年2月25日 - )。ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の被害者の可能性があると報道された。ベトが急性脳症となったことを契機として手術で分離した。
この分離手術は日本で行なわれたが、皮肉にもその枯葉剤の基礎研究みたいなものが731部隊で行なわれていて、それをアメリカが引きついで研究し、枯葉剤を製造し、ベトナム戦争で使った。
また、枯葉剤を搭載した爆撃機は沖縄から飛び立ったのかもしれない。
ベトナム戦争にも、戦後の日米同盟の中で、日本は間接的ではあるが、大きくかかわってしまった!!




●皇室の秘密
最近、ニュースで、オバマ大統領の命令により、日本の暴力団の米国での財産および銀行口座などをすべて差し押さえしたという情報が流れた。この日本の暴力団の米国での財産や現金は天皇の財産と言っていい。つまり、オバマ大統領は暴力団という名前の天皇の財産を差し押さえしたのだ。これにより、天皇が暴力団の名前で米国に隠していた財産や現金が、米国政府に取られてしまった事になる。この額はかなりに上るという。噂によると、20兆円にも上る第二次世界大戦中にアジア中から略奪してきた金品が、米国政府に取られてしまったという。この打撃は天皇家にとって激痛を伴うボディー・ブローだったのだ。


天皇家の守り人組織は暴力団!

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。より
小和田恆 – Wikipedia(記事の内容を削除されたときのため、一応、魚拓をとっておきました。)
最も決定的なのは、この「小和田恒」が国際司法裁判所の判事になった際、セルビアからのコソボの独立を正式に認めたということです。このコソボの独立は、明らかに金融ユダヤの裏工作でした。
この当時、ロシアはブルガリア・セルビア間に欧州向けの天然ガス・パイプラインを敷こうと計画していました。しかし金融ユダヤは、欧州で石油を売って大儲けしていたので、ロシアの天然ガスがヨーロッパの市場に入ることを阻止したかったはずです。
そこで彼らは、コソボとセルビアで戦争を起こしてロシアの天然ガス計画を妨害することにしました。そして、見事にコソボを独立させて、ロシアの天然ガス・パイプラインが敷設できないようにしてしまいました。まさに現在のウクライナ危機と全く同じことが過去にも起きていたわけです。金融ユダヤはいつも同じ手口ばかり使います。全くもって単細胞としか言いようがありません。



天皇家の秘密―再掲
美智子さんや天皇家の人々の真実
皇室の秘密  美智子妃殿下の性格
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
2012/6/26 皇室裏アルバム:水俣チッソ財閥令嬢 雅子様の本当の病名
2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)
□天皇家の銀行関係の主な持株
日本銀行(20万8000株)
横浜正金銀行(20万9318株)
日本興業銀行(4万5450株)
台湾銀行(3万264株)
東洋拓殖会社(5万株)
帝国銀行(2万9110株)

□その他の諸会社株の主なもの
王子製紙会社(6万608株)
関東電業会社(3万4749株)
南満州鉄道会社(8万43175株)
台湾製糖会社(3万9600株)

□皇室所有の土地の主なもの
森林(318万3287エーカー)
宮城および御所(2256エーカー)
農地(9万7637エーカー)
建物敷地(559エーカー)
その他(3万502エーカー)

アジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。
そして国民や農民の資産が 皇室に集まる仕組みが出来上がった。
それと同時に軍人勅語教育勅語等が準備されていくのである。 
「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」
 


●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?

こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎


昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

渡辺監督が語る最新作『天皇伝説』の過激な内容とは!?

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

(参考)
【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731 

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。


『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)

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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-18 08:48:43 | Weblog

●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。



(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。



(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。



(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。





この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。


※原爆が非人間的というが、それならば重慶大爆撃、南京大虐殺、三光作戦、731部隊の生体解剖・細菌戦、慰安婦問題等はどうなんだ?当時の日本国民にはそれらの情報は隠蔽され(今でもそうだが)全く知らされていなかった!!
以下の映像に映っている顕微鏡を覗き込む裕仁の姿に、731のことにも相当詳しかったのではないかとの疑念が生じる!!
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。
原爆の子

日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。








731部隊!!

部隊展開催の予定
11月25日(火)~27日(木)世田谷展



夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


東京中野展感想
中野展感想 

8月2日分


8、 60代 女

・731部隊展の展示内容を見て
35年程前、森村誠一の本を読みました。日本は中国で存分ひどいことをしてきたのだと分かりました。いったん戦争になれば人間は狂って生きます。今憲法9条を壊す動きがありますが、負けられません。今日の展示を見てこの犠牲になった人たちの償いは憲法9条を守ることだと思います。

・731部隊展の運営についてのご意見
よくわかりやすく展示されている。模型やDVDもあり、良いと思う。



●『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

寧波(にんぽー)作戦―日本の医療団も協力


K・S氏は、あとで石橋氏に「葦の陰から便衣隊が赤い房のついているモーゼル銃を持って走って行くのまでよく見えたよ」と話した。
“憲兵室の隊員は腕に銃創を負って九死に一生を得て逃げて来た。我々もすぐ手榴弾を渡されて、銃を持って現場に駆けつけたけど、もうあとの祭りだった”と石橋氏は言う。
逆に中国側の密偵を捕らえることもある。石橋氏が見たとき、捕らえられた中国側の偵察員は2人であった。
“隊の建造物の塀の外で彼らは処刑された。拷問され敵情を吐かされたあとで、日本刀で首を斬り落とされた。彼らが自分で掘ったのかどうか、彼らの前には穴が掘ってあったけで・・・・”
日誌にはそうした情景は出てこない。しかし戦場のそのような緊迫を伝える場面を拾ってみると、「8月13日、中国の抗日記念日なり。徐福林の率いる杭県抗日中隊、筧橋西方2キロメートルに来る。山本(吉郎)参謀以下全員武装し配備に着く。山口技師班は92式歩兵砲を飛行場の一角に移す」、「8月15日、夜半寝耳に一大音響入り来る。憲兵、特務機関D22(22師団のこと)よりの通牒により、銭塘江の鉄橋爆破されたるものと判明する」、「9月3日、西郡中佐一行と共に銭塘江南岸敵三区の陣地偵察に行く。粛山へ出るべく陸軍舟艇隊に依頼してトラックと人員を輸送する」、「前線は2千、3千メートル先にある」、「三谷大尉と一緒に杭州銀座に行ってゴミゴミした支那人街を歩いた。2階の窓から手榴弾を投げられた話を聞いていたのでモーゼル拳銃に実弾を装填(そうてん)して歩く」。


続きは「ノブのノート」

あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?

 
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国家犯罪!731から福島まで!!

2014-10-17 13:01:59 | Weblog
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
日常/ #3ドキュメント2013.12.6 

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「命の教育」などできるのか、疑問だ。過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続け、「日本を取り戻す」、「美しい国」とか、天皇制の強化を唱えている。大人がきちんと過去と向き合っていない!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア


●気になるニュース
日本内閣、『特定秘密保護法』の運用基準を決定

秘密保護法:廃止求める緊急アピール 児童作家ら7団体

戦中のゾルゲ事件のような犠牲者がたくさん出るのか?



・中曽根康弘氏の存命中に慰安所設置のことと、日航ジャンボ123号機墜落事故について聞きたい!!
中曽根元首相と海軍慰安所(1/2)


「戦争受け入れる下地づくり」

慰安婦問題に言及=日本に「遅滞なき解決」求める―国連総会で韓国

こんな事に国民の税金を使わず、中曽根自身から直接昔の話を聞き出したらいいのでは!!
慰安婦問題で小池百合子氏「対外広報を優先に」

慰安婦問題、脅迫に対し声明 日本ペンクラブ

・日航123便の怪!!
群馬県選出の議員はこの事件の真相を明らかにせよ!!金で有権者を釣るな!!
小渕経産相「私的に使ったものは出てない」
小渕氏の不透明収支、安倍政権に痛手 「女性の活躍」揺らぐ看板

日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
乗員乗客520名が犠牲になられた日本航空123便の墜落事故から、本日(8月12日)でちょうど29年が経過しました。
1985年8月12日の18時12分に羽田空港を飛び立った日本航空・伊丹空港行きジャンボジェット機は、18時24分に相模湾上空で突然に垂直尾翼が吹き飛び、その衝撃ですべての油圧系統が破損して操縦不可能となりました。機長らの必死の努力も実らず123便は18時54分に群馬県の御巣鷹山に激突し、生存者はわずか4名でした。
改めて考えても「絶対におかしい」と思うところがいくつかあります。


中曽根は地元なのに事故現場視察や慰霊に行ってない!!地元なのにおかしい!! しかも首相の頃の事故!!
中曽根康弘「JAL123便は私が撃墜命令した」JAL123便は自衛隊が撃墜した

名護が移設断念要求 市議会意見書

安倍首相、靖国神社参拝見送り 真榊奉納

原発反対!!
福島 1号機の核燃料取り出し遅れる可能性も

電力を喰うリニアは必要ですか?
リニア中央新幹線 建設工事の計画認可

何であの侵略戦争を反省しない?
国会議員約110人が靖国神社に参拝

外交部報道官、日本総務大臣などの靖国神社に参拝する意向について意見表明

なんでこんな人がNHKの経営委員なんだ!!NHKは狂ってる!!
社民党、百田氏にNHK経営委辞任を要求 土井氏を「売国奴」とつぶやく

会合の冒頭、中込委員長は「(検証の結果)場合によっては、新聞社を解体して出直せということになるかもしれない」とあいさつ。
それよりも先に、NHK・天皇制解体をやった方がいいのでは?
朝日第三者委が初会合…慰安婦報道の影響検証

NHKは政府広報じゃない


●原爆投下時の真実
なぜ、被爆者を少なくしようという思考が働かなかったのか?
・原爆投下を当時の長崎県知事も知っていたのでは?なぜ、避難指示を出さなかったのか?
※当時の知事は内務官僚で、県民を取り締まるという感じだったのか?閣下と呼ばれていた!!
以下、永野若松(当時の長崎県知事のウキペディアより)

同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。翌日8月9日、長崎市内立山町・諏訪公園内の防空壕に置かれた県防空本部に幹部を招集、「新型爆弾」被災時の対策を協議した。長崎に投下された原爆に被災したのはこの最中であったが、爆心地から金比羅山を隔てて約2.7km離れており、かつ防空壕内であったため、一時的に停電が起こったほかに直接の被害はなかった。


永野若松県知事がいた防空壕

・高野源進広島県知事(1945年当時)の墓とその書簡


「尖閣棚上げ」日中間で暗黙の了解あった=読売新聞も「領土論争の“存在”双方が認める」と報道―研究者の会代表

高市総務相の靖国参拝の方針を激しく批判、公明党が示した中国寄りの姿勢―米メディア




●皇室の秘密
明治維新以来、「てんのうはん」の守り人として、ヤクザ組織を大事に育ててきた。 鬼塚英昭氏の新著『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(成甲書房)

つまり、天皇家と暴力団とは、切っても切れない間柄なのだ。その証拠に、天皇の悪口を書けば、必ず、天皇家の守り人のヤクザ組織が脅しにくる。まあ、私自身は米国在住なので、ワザワザ日本からヤクザは家にやって来ないが。しかし、日本で天皇の悪口をブログに書いたら、少なくとも創価学会やヤクザに集団ストーカーされるらしい。

天皇家とヤクザの共通点?それは、彼らはすべて爬虫類人レプタリアンであり、人間ではない事だ。日本での爬虫類人社会は、西洋と同様にピラミッド式だ。頂点に天皇そして皇族、貴族。底辺にあなたも含む人間家畜。天皇はどうやって、この人間家畜を支配するのか?それは、日本政府、警察、そして重要なのが暴力団だ!爬虫類人達は暴力と脅しで、あなたの様な人間家畜を支配する。そのために警察そして暴力団があるのだ。山口組やら稲川会やら、すべての暴力団は天皇の守り人だ!


天皇家の守り人組織は暴力団!

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。より
天皇について批判的な記事を書くことは、この日本ではタブーとされています。何かそれだけで罰が下るかのような風潮があります。
あるいは、天皇家のことを悪く書くと、それだけで「左翼」だと決めつけられたりもします。しかし、天皇を崇めれば「右翼」、批判すれば「左翼」というのは一体誰が決めたことなのでしょう。それが自然の摂理だとでもいうのでしょうか。別に天皇を崇めなくても、私はこの日本のことが好きですし、日本のことを誇りに思っています。ですから、私は自分のことを右にも左にも偏っているとは思っていません。
その上で敢えて言わせていただきますが、天皇家はどこからどう考えてみても悪魔崇拝者たちと深いつながりがあります。
昨日も書きましたが、天皇家に嫁いでいった「雅子」様は紛れもない創価学会メンバーです。これは非常に大きな問題です。しかも、彼女の家族はただの創価学会ではありません。創価学会の中枢に存在する組織内組織、金融ユダヤの傀儡であると考えられます。それは「雅子」様の父親の「小和田恒」という人物が、金融ユダヤの傀儡としか思えないことが最大の理由です。



天皇家の秘密―再掲
美智子さんや天皇家の人々の真実
皇室の秘密  美智子妃殿下の性格
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
2012/6/26 皇室裏アルバム:水俣チッソ財閥令嬢 雅子様の本当の病名
2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)
皇室財産の急増
「・・・明治十四年の皇室料地わずか六三四町歩は、九年後の明治二十三年には三六五万四千町歩に達していた。これはじつに六千倍で、その年の民有林野総面積八三八万五千町歩の半分に近い。
さらに、土地以外の株券と貨幣による皇室財産は、十五年の一七一万余円が、十七年十二月には日本銀行株式三五〇万円をくみいれ、さらに明治二十年に日本郵船の株式二六〇万円を収めて、同年末には小計七八八万五千余円の巨額にのぼっていた。
いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりである。・・・」
日本の歴史21」より
(当時は、米一升が六、七銭。大まかに計算すれば1円は 現在の1万円程度。) 
「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」
 


●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?


昭和天皇の姿 浮き彫りに

日本は自国の歴史を書く事が出来るか
「昭和天皇実録」が公開された。全61巻1万2千ページに及ぶ昭和天皇の記録である。実録を見た専門家の話によると、これまでの歴史観を覆すような新事実はないが、終戦直前まで戦勝を祈願していた事が明らかにされる一方、戦後に天皇が側近に戦争について語った「拝聴録」が行方不明とされ、詳しい内容が盛り込まれていないなどの問題があるようだ。
宮内庁は侍従日記などを「私的文書」として扱い、公開に消極的な姿勢を見せているが、実録を作成する基になった資料をできる限り公開しなければ、日本人は自分の頭で自らの国の姿を理解する事が出来なくなると思う。




こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎


・侍従・侍従長などには定年がないのか?皇室にはいろいろな疑惑がわく!!
入江相政

昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

渡辺監督が語る最新作『天皇伝説』の過激な内容とは!?

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

(参考)
【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731 

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。


『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)
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