細菌戦の系譜!!

2021-10-27 10:15:11 | Weblog
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 

 

 

 
 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?

 

実験医学雑誌第17巻雑報

 

17巻8号(1933年)

〇学友会へ寄付金

金100円也  齋藤龍三君

金100円也  村井發君

 

昭和8年7月職員異動調

月日   異動事項                 官職  氏名

7.1 昭和8年7月1日付願研究生継続の件許可す     臼杵仁

7.1 朝鮮へ出張を命ず            技手  佐藤久蔵

7.1 血清検定委員会嘱託を解く            松本章太

7.4 神奈川県下へ出張を命ず         技手  小栗一好

〃  同                  技手   田中正稔

7.10 任伝染病研究所事務官

   敍高等官7等             書記  檜山兼次郎

7.18 伝染病研究業務を嘱託す            大久保開

7.21 千葉県下へ出張を命ず         嘱託   安川隆

7.22 岡山県下へ出張を命ず」         教授 三田村篤志郎

〃  同                  技師 山田信一郎

7.22 岡山県下へ出張を命ず          嘱託 一宮勝三郎

7.24 伝染病研究所業務を嘱託し

   手当1ケ月金50円給与                 池田武夫

7.28 昭和8年7月27日付願研究生退学の件許可す     中山二郎

 

 

 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

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細菌戦の系譜!!

2021-10-27 10:13:58 | Weblog

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

4、日本民法に基づく損害賠償請求について(争点4)

(4)ところで原告らは第2次的に次のように主張している。即ち、国は軍部を指揮監督する権限を有し、とりわけ731部隊という危険な施設を有していたことによる責任があるから、国によると当該監督権限の不行使は管理作用に属するものであり、国の当該管理作用(権限不行使)によって本件の被害の発生を阻止し得なかったのであるから、被告は民法717条又は715条により損害賠償責任を負う、といういうのである。

 しかしながら、原告らの主張する本件細菌戦は、旧日本軍がその存在目的そのものである戦闘行為として行なったものであるといういうのであるから、その行為は公権力の行使(国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的行為)そのものであり、当時民法の適用対象となっていた非権力的作用に分類されるということができない。

 また、その点を措くとしても、この点の原告らの主張は、軍隊を土地の工作物(民法717条)や小学校の校庭に設置された遊具と同視するものであって、採用することができない。 

 

 

 

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

二月二十六日
分遣隊にて通報 馬賊事件在り この間の恨晴とかいう密偵の報告 警察署を襲撃するとか。弐拾五日の午後十二時五十分腰の周りを温めて また辛いモーターカーに乗る ジャズに引かれておどる様な動ようを身に覚えつつ冷たい夜半を一路煙台さして走った。
煙台に弐拾六日朝零時一寸過ぎについた時は最早遼陽に帰るような列車なし 煙を残して無心に貨物は通過してしまう こんなことなら証明書でも持って列車を停車してもらえばよかったのに 朝の午前は八時十分の第十六列車迄待たねばならないかと思うと悲しくなる。約八時間夜明けを此の待合室に―
 
一寸感じて運行表を見た。第十三列車(急行奉天長春行き)は煙台に止まるではないか。どうせ休むなら車中の方がーとんでもない心を起して午前五時半の急行で奉天まで行ってしまった。どうせタダだもん 少しは心配したが奉天も約一か月ぶりだ
駅で三拾分待って煙台駅で待った第十六に乗り換え 約一時間半揺られつつ遼陽に帰った。この頃の夜間勤務は本当にやりきれない 毎日のように夜中だもの
 
 
 
 
 
軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・


 

 

例えば、我々は、被爆後の人間世界の報告として最良の作品の1つである『原爆の図』を記憶している。しかし、同じく丸木位里氏、赤松俊子氏が、1950年夏に刊行した『ピカドン』という小さな絵本の事を記憶している人々が、果たしてどれだけいるだろうか?オレンジ色の紙表紙に、1人の老婦人の肖像が描き出された、この絵本は素晴らしく衝撃的な内容を孕んでいる。僕はここに収められた64葉の絵とそれに付された短い確実な文章の全てが復刊されることを望みながら、そのおおよその内容を紹介する。尚、このヒロシマ・ノートの扉、目次、各章の初めに挿入したカットは、全て『ピカドン』によるものである。

 
 
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2021-10-27 10:10:25 | Weblog

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

南京でもやっていた人体実験

血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・

松本博

1644部隊

経歴

1926年生まれ

1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属

この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。

“マルタ”の抵抗

こういう残忍な行為に対して、“ロツ”に入れられていた“マルタ”はただ黙っていたわけではありませんでした。私の記憶では1、2回ほど、“マルタ”が抵抗したことがありました。同室の他の“ロツ”の“マルタ”と示し合わせて、“ロツ”の床を一斉に足でドンドン叩いたのです。叫び声を上げながら。ところが私は中国語を知りませんから、彼らが何と叫んでいるのかわからない。仕方ない。ただ「静かにしろ!」と言って制止するのが精一杯でした。“マルタ”が“ロツ”越しに話すこともありましたが、私は止めさせる気持ちにはなれませんでした。とにかく私は若かったもあると思いますが、何故彼らがこんな目にあわなければならないのか納得できなかったのです。その気持ちを持ったまま監視の仕事をするのは内心嫌でしたが、と言って命令に逆らうことはできなかった。

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

Ⅰ東北

2 華北

3 山東

長田友吉自筆供述書(1954年11月1日)

 油汗が頭、首、胸を伝って流れた。鈴木軍医大尉は、飯岡衛生軍曹に中国人の身体を押さえつけさせて虫垂を切除すると、それを手に下げて我々の前に示し、解説を行った。この時中国人の苦痛はより耐え難いものとなり、鈴木軍医大尉は

「もういいだろう、苦しかったな、殺してやるぞ」と言いつつ、先の尖った刃物を中国人の頸部に突き刺し殺害した。その後鈴木軍医大尉と井績軍医少尉、飯岡衛生軍曹は、肝臓、脾臓、膵臓、腎臓などの腹部臓器を切除して、これらの臓器を逐一切開して我々に説明した。腸を取り出すとき、鈴木軍医大尉は2人の新兵に腸の両端を持つよう命じ、

「腸の全長は約9 m あるが、この捕虜は解剖に使用するため食べ物を与えなかったから、中は空だ」と語った。

 生体解剖で残酷にも1人の中国人を殺害してしまうと、鈴木軍医大尉と井績軍医少尉、飯岡衛生軍曹と我々350名の新兵は、もう1人の中国人を縛り付けた解剖台を囲んだ。

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍

 

アメリカ軍の対日毒ガス戦計画

 

 日本軍は、国際法を無視して毒ガス戦を強行し続けてきたことによって他国民に大きな被害をもたらしたのと同時に、自国民にも大きな災厄を招き寄せていたのである。これは国家が国際法を無視した場合にどのような結果を招くかを示す事例であるといえるが、かつて毒ガス兵器の使用を「大陸指」で許可した参謀総長と、それを起案した参謀本部作戦課の幕僚たちは、自らの判断が後に何をもたらすのかについての想像力に欠けていたと言わざるを得ない。アジア太平洋戦争の開始によって中国が連合国側の一員となっても、そして、ルーズベルト大統領による2度の警告が発せられても、中国での毒ガスの使用を止めようとしなかったことがそのことをよく示している。

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

 

以下は、当時の中国軍側の日本軍毒ガス使用に関する調査資料である。

陸軍第58師団第347連隊及び師団司令部学徒兵隊

蓮花山、廟前山作戦毒ガス調査表

 

放出時間          (1939年)4月23日午前8時

放出地点           茅竹嶺、蓮花山、廟前山

天気・風向・風速       曇り、東風、毎秒2m

放出方法           砲弾射撃及び毒ガス缶の放出

毒ガスの種類         被毒(原文ママ)

放出後の現象         銀灰色緑色、酸、辛のにおい、刺激臭

拡散範囲           全線陣地2㎞

わが軍の対処法        濡れタオルで口鼻をふさぎ、高地に立ち風の吹いて来る方向に向かって呼吸、または湿土に  

               伏せて呼吸

被毒者の症状         吐き気、めまい、心臓の痛み

毒ガス放出回数        空爆による砲弾30余発及び煙幕の併用による毒ガス缶の一斉放出(数量は未確認)

わが軍の被害者数       第347連隊第2・3大隊の被毒者将校兵士計140余名、学徒兵隊被毒者将校兵士31名

救護方法          (原文空白)

付記             毒ガス量が比較的少なかったため、被毒者は20分後には回復

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用

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日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

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細菌戦の系譜!!

2021-10-27 10:08:09 | Weblog

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

日本鬼子(リーベンクイズ)

処刑

抵抗する捕虜を始末する

川田孝

伍長

〈略歴)

本籍地  東京都足立区

出身階級 労働者

尋常高等小学校卒業

職業   綿花卸商店員

所属部隊名 第59師団53旅団独歩43大隊機関銃中隊

被捕年月日場所 1945年8月22日朝鮮興南市

年齢   37歳

 

 石段と真向かいの5房、6房から無言でこぶしを高く掲げて、涙に濡れた憎悪に光るいくつもの眼が1つになって後を追った。額に瘤のある顔が振り向きざま「毛沢東万歳」と、生き生きとした声で絶叫した。

「コラッ」前畑と田島が本能的に彼の口を塞いだ。

「毛沢東万歳」首を振って再び房内に向かって叫んだ。万歳、万歳、万歳・・・・既に死を覚悟した男。房内の中国人たちは、日本軍の残虐な侵略から祖国を土地をお家を守る決意を込めた万歳の連呼をもって応えた。

 間もなく、トラックのエンジンの音が門からだんだんと遠のいていった。

「どうだ!何がマオゾウトンワンソイだっ!騒げ、騒げ。いくら騒いだって日本軍に勝てるか、神国日本、天皇陛下万歳だ」

私はをわめきながら、格子をバシバシ狂ったように叩きまわった。それは日本が無条件降伏1年9ヶ月前のことであった。 

 

 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


 

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
 
 
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

 

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp

 

日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第3章 秘密保全の機構と体制

2 軍事警察とスパイ機関

警務隊と調査隊  

警務隊の権限は、自衛隊法第96条に定められ、陸海空自衛隊員および自衛隊学生の犯罪だけでなく、「職務に従事中の隊員に対する犯罪その他隊員の職務に関し隊員以外の者の犯した犯罪」(たとえば贈賄、秘密漏洩教唆)についてまで、司法警察職員としての職務を行なう権限をもつ。自衛隊の使用する艦船、営舎その他の施設内での犯罪(現行犯にかぎらない)、自衛隊が所有しまたは使用する施設または物にたいする犯罪についても同様である。したがって秘密暴露を 「企て、教唆し、又はそのほう助をした者」(第118条2項違反―懲役1年以下)や、「自衛隊の所有し、又は使用する武器、弾薬、航空機その他防衛の用に供する物を損壊し、又は傷害した者」(第121条違反―懲役5年以下)は一般人も対象になる。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

 

「化学学校記事」

『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

1、生物・化学兵器を告発する

国連の告発

ウ・タント報告書

だが、英国案は、「化学兵器の一部は暴動鎮圧など合法的、平和的な目的に使われているので、全てを禁止するのは非常に困難」であるとして、生物兵器を主に取り上げるにとどまり、化学兵器については「制限措置強化のため善意を持って交渉する」としているように、そこには日本政府が催涙ガスを「毒ガスではない」とする見方と基本的には通じるものがあり、この種の条約のもつ基本的脆弱性が早くも見えている。

日本は、ジュネーブ議定書がまとまる段階までは、毒ガス細菌戦への準備が無かったので、使用だけでなく、製造・保有も含めた全面禁止を主張していたが、当時は既に日本の仮想敵国であった米国が批准しないということや、外交問題を表向きの理由として、この議定書に調印しなかった。その後、国際連盟を脱退して批准の機会を失ったと見られているが、後に述べる実態が示すように、第2次世界大戦時には、積極的に生物・化学兵器の開発を行い、現在は、陸上自衛隊が総化学部隊であるための方向に向かっていることに見られる如く、日本は当初からジュネーブ議定書の批准など全く考えていなかったのである。我々は、現在の生物・化学兵器の禁止を希求する国際世論の中で、改めて考えてみる必要がある。

 

※日本は、ジュネーブ議定書に調印したが、批准は見送った。日本の批准は1970年

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細菌戦の系譜!!

2021-10-27 10:05:26 | Weblog

●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす」は、政府がアメリカの中国封じ込め政策を支持し、戦没者の顕彰を推進していたこの時期には、日本人の集団的記憶に留められる余地がなかった。

 さらに多くの国民は、天皇を中心とする古いナショナリズムの帰属感に、なお執着の念をもっていた。天皇と弟の高松宮は、占領終結後の最初のナショナリズムの波のなかに生まれた復古主義組織に強い関心を寄せている。元侍従武官の平田昇という人物が時おり皇居を訪ね、彼が副会長を務める旧軍人の団体日本郷友連盟や、占領初期に誕生し、1953年の再編以後保守色を強めてきた日本遺族会などの動向を伝えた。

 1958年の8月15日には、この2団体は神社本庁や右翼団体とともに、靖国神社に近い九段会館で追悼式を挙行した。この式の目的は、「大東亜戦争で殉国した英霊の顕彰と慰霊」であった。「英霊」とは、戦争で大きな功績を挙げた傑出した個人を意味し、かつては「聖戦」の観念と結びついていた。そしてまた、天皇制国家の積極的な容認と、憲法が規定する戦後的価値観の否認とを合意していた。この8月15日の民間の慰霊祭では、天皇と皇后から生花が届き、〔「終戦の詔書」の朗読という形で〕天皇のメッセージが披露された。しかし天皇皇后は、式典の名称がイデオロギー色の弱い全国戦没者追悼式となる1963年までは、みずからは出席しなかった。 

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

● 核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核実験の種別

 
核実験の種別:1.大気圏内、2.地下、3.大気圏外、4.水中
核実験は、実施された場所と高度により4つの種別に分類される。
4.水中核実験 水面下で行われる核実験であり、実施には船舶やはしけ(これらは実験時の爆発で破壊されてしまう)が用いられる。この実験の目的は、水中核爆発の艦船への効果(クロスロード作戦等)と、艦船用兵器(爆雷や魚雷)への核兵器の転用可能性を検証することである。しかし海面近くの核爆発では、放射性の水及び蒸気を大量に拡散させ、近くの艦船や建物を汚染してしまう。

 
 

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について


なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

 

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した

 

 
 
 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!

 
 

 

 
 
 

 

 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2021-10-26 09:21:15 | Weblog

            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)

川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
2021 9 25加藤講演第1回目
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)

●2021 9 17 浅井基文講演

 

 

『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」

 
 
 
加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!

日航機墜落事故の原因を究明せよ!!

 

 

2020年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
10月27日(火)
・この展示があることを赤旗日曜版で知りました。定年迄は社会の問題についてもやもやしたことには気付いていましたが、時間に余裕のある今になってももっと関心を持たなければと思っており、「赤旗」は私の良い「羅針盤」となっております。今後ともよろしくお願い致します。
(男性・70代・市内)

 

 
 
 


 
 
 

 




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細菌戦の系譜!!

2021-10-26 09:20:11 | Weblog

 



原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

         昭和への挽歌   野崎忠郎
 

                 

 

 

 

 



 
自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)

 
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6

「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7

「731部隊について」(お話:五井信治さん)

 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
 
●日本はなぜ“ワクチン後進国“になったのか
医療情報室レポート
№199号より
福岡市医師会医療情報室より
○萎縮した予防接種行政のはじまり
 ワクチンの負の側面ばかりが強調され国民の不安が増す中、1994年に予防接種法が改正され、接種要件が「義務」から「勧奨」接種へと緩和され、接種形態も「集団」から「個別」接種へと移り変わった。またこのような状況を受け、それまで世界に先駆けて水痘や日本脳炎ワクチンなどの開発に取り組んできた製薬業界も消極的となり、国内での新ワクチンの生産は殆ど行われなくなった。この萎縮政策の風潮はその後も引きずられ、結果として、大量のワクチン未接種者が生まれ、昨今の麻しん集団発生や2013年の風しん流行に繋がったとみられている。
 
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細菌戦の系譜!!

2021-10-26 09:19:08 | Weblog
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 

 

 
 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?

 

実験医学雑誌第17巻雑報

17巻7号(1933年)

学友会へ寄付

金100円也         宇賀武俊君

金39円83銭也        中山二郎君

 

昭和8年6月中職員異動調

5.30 任東京帝国大学助手       技手 高橋忠雄

6.30 陞敍高等官1等          教授 高木逸磨

〃  東京府下へ出張を命ず       技手 小栗一好

〃  同                技手 田中正稔

6.6 愛知県下へ出張を命ず        教授 宮川米次

6.15 依願伝染病研究所業務嘱託を解く      笠井久雄

6.17 陞敍4位           教授 高木逸磨

6.17 栃木県下へ出張を命ず      教授 田宮猛雄

6.19 埼玉県下へ出張を命ず      技師 阿部俊男

6.20 北海道へ出張を命ず       技師 阿部俊男

6.20 神奈川県下へ出張を命ず     技手 小栗一好

6.24 神奈川県下へ出張を命ず     技手 田中正稔

6.30 任伝染病研究所技手          山岸精実

6.30 伝染病研究所公衆衛生学

   講習業務嘱託を解く         山岸精実

 

 

 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

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細菌戦の系譜!!

2021-10-26 09:17:58 | Weblog

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

4、日本民法に基づく損害賠償請求について(争点4)

(3) このように、戦前においては、公権力の行使による私人の損害については、国の損害賠償責任を認める法律上の根拠がなく、そのことは公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的政策に基づくものであったから、公権力行使が違法であっても被告はこれによる損害の賠償責任を負わないものと解するのが相当である。原告らの主張する本件細菌戦も、国家賠償法制定前の被告の権力的行為であるから、当時の法令に従って、これによる民法709条、710条、711条に基づく損害賠償責任は否定せざるを得ないものと言うべきである。

 

 

 

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

二月二十五日
晴 風あり 午後十時分遣隊出発。
初めてのモーターカー巡察だ 零下十二度の冷たさをついて走るモーターカー この冷たさは何も書きようがない ちょうど内地の冬に裸で走るようだ 二拾丁にゆかないうちに悲鳴を上げる 靴の中の足が針で刺されるように痛む 然しこれも一つの勤務だ 下らない冷たいことばかり考えている訳にはいかない 何故ならばそうして心を他に奪われていたならば其の時ードンー。もしだ馬賊に打たれでもしたら如何にする?軍人として取るべからざるあわて方をするだろうよ
 
六百米の大子河の鉄橋に乗った時の腰のあたり寒さはまた格別だった 女ならばすぐ腰の病気でもすぐにおこすに違いない。
三里半を二拾分の速さは決してマラソンの比でないから 守備隊の兵隊もでたらめだね。本当に夜の勤務ばかりでつらいでしょうね。軍隊出の人張台子の駅員がいふ。之からまた張台子で一息入れてから煙台まで行かねばならない 本当にやりきれない。鼻水も凍ったと見えて出てこない。弐拾五日と弐拾六日は続けざまだ
 
 
 
 
 
軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・


 

 

この1965年夏に向かって、様々な側面から、20年前の悲惨を発掘し再認識する努力が行われている。そしてその、最も基本的な根幹をなすものが、原爆をめぐる全ての資料、被爆者たちの手記の収集、整理であろう。一旦ジャーナリズムの場に発表されたものですら、我々はそれらを、数知れない印刷物の氾濫の内に、往々にして見失ったままである。しかも、これらの書物は、まさに繰り返し不能の条件のもとに書かれた、実にかけがえのない稀なる書物なのであるが。

 
 
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2021-10-26 09:16:50 | Weblog

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

南京でもやっていた人体実験

血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・

松本博

1644部隊

経歴

1926年生まれ

1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属

この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。

 

 

全採血

 全身から血を抜き取られた“マルタ”の顔から袋を外すと、その顔は青黒く臘(ろう)のような感じでした。私はその度、「なんでこんなことをしなければならないのか・・・・」と暗い気持ちになりました。

“マルタ”は目を閉じていた・・・・。思い出したくない・・・・・。

 私はその“マルタ”の死体を焼却炉に運ばなければなりませんでした。焼却炉というのは処置室に繋がった部屋にあり、そこに電気炉が据え付けてありました。その中に死体を投げ込むのです。焼くのは担当の者がいましたが、運び込むところまではやらなければなりませんでした。人間を焼くと油が出るのですが、焼却室の外の廊下まで、その油が流れ出ていました。

 こうした全採血は、多い時で1日2回、通常は1か月に2、3回のペースだったと思います。そういうことが終戦まで続いたのです。 

 
 
 
 

 

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

3 山東

長田友吉自筆供述書(1954年11月1日)

 そのため教育主任の鈴木軍医大尉は、即刻、飯岡衛生軍曹の2人の中国人の口を何かで塞ぐよう命じた。350名の新兵が中国人の括りつけられた一方の解剖台を取り囲んで立つと、鈴木軍医大尉は言った。

「これから解剖実験を始める。授業で習った人体構造をよく思い出して、しっかり観察するように。この2名の捕虜は学術実験に使用されるのであるから、皆野辺送りの気持ちを忘れるな。まず虫垂を切除から始める。ふつうは麻酔を行うか、今日は殺してしまうので麻酔薬を注射しない。」

言いながら鋭いメスを取って、「ブスッ」という音を立てて中国人の右下腹部を切った。鈴木軍医大尉は井績、飯岡衛生軍曹の手を借りて、20分かけて虫垂を探した。麻酔をかけていないため、中国人は極度の苦痛で絞り出すようなうめき声をあげ、必死にもがいて麻縄さえ断ち切らんばかりだった。 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍

 

アメリカ軍の対日毒ガス戦計画

 

 このような原始的な防護法では、ほとんど効果がなかったであろう。また、小池龍二元陸軍習志野学校長は、「大東亜戦争となると、統帥部からは、もし連合軍が化学戦に出たならば、我が方もこれに対応する旨内示せられていた。しかし、砲も、弾薬も、戦車も、飛行機も、全て連合軍に比し著しく劣勢である中で、瓦斯だけが例外であるはずがない。瓦斯においても他兵科と同様に、特攻的な、あるいは肉弾的な攻撃方法しか残されていない内情であった」と回想している(陸軍習志野学校史編纂委員会編『陸軍習志野学校』)。軍隊でさえこのような状況にあったのだから、一般市民は完全に無防護であった。第3章で見たように、日本の家屋や都市部はガス攻撃を攻撃に弱いので、毒ガス攻撃を受けたらひとたまりもなかったであろう。 

 
 
 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

 

江西南昌作戦(1939.3.17~29)

 日本軍の当戦役における毒ガス使用の問題について、ここに1つのエピソードを挿入しなければならない。それは、1984年10月31日、朝日新聞に掲載された。元将校のA氏提供による写真に端を発する。写真には「南昌作戦中、修水河を渡る際の毒ガス使用状況」と注記されていた。まもまく、それは修水河ではなく新墻河であったことが判明した。だが、驚いたことにその誤りのために日本の世論に大きな波紋を呼び、一部の旧軍人らはこともあろうに「日本軍はかつて毒ガス兵器を使ったことなどない」と断言し、挙句の果ては「あか筒」即ちジフェニールシアンアルシンは有毒物質ではないという者まで出る始末だった。日本軍が南昌作戦で使った毒ガスに関する資料が、その写真1枚だけだとでもいうのだろうか。

 

 

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 

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