日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
終生の重荷
脳裏にこびりついて離れない断末魔の形相
千田英男(ちだ ひでお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1917年生まれ
1942年 731部隊入隊
教育部付き衛生兵教育
吉村班、植村班、教育部庶務を歴任
■この証言は戦争体験を記録する会(宮城県)編『雲はかえらず』所収「終生の重荷」(1974年)より転載したもの
拭うことの出来ない傷痕
所在なさにベッドの中で3転4転していたある日、教育部長の園田中佐が心配してひょっこり見舞いにやって来た。私は思いあぐねていたが、意を決して心の苦衷をありのまま訴えた。一喝されるかもと覚悟はしていたが、意外や意外、にこやかに笑みを浮かべた部長は、
「そうだな、お前にはこの仕事は向かないよな」
我と我が耳を疑う様なこの言葉に、私はまるで夢を見ているような思いであった。部長が帰った後、その後ろ姿に手を合わせたくなるような感謝と嬉しさが湧き上がってくる。日ならずして私は、古巣の教育部に戻り、庶務を担当することになった。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
1 討伐戦・警備戦での常用
中国での積極的進攻作戦が終了した1938年末段階で、動員兵力は陸軍で113万、海軍で16万、合計129万になり、中国に派遣された兵力は関東軍を含めると96万に達していた。この時までに日本軍が占領することができたのは、華北の一帯、長江の中下流域、広東省中心部だけだった。山西省は東の半分、河南省は東部の一部、長江は武漢までしか進攻できなかった。1939年以降の進攻作戦で、華北は黄河の東岸まで、長江は宜昌まで、江西省は南昌まで、南部は海南島、南寧・龍州地区、汕頭地区を占領した。しかし、それ以上は占領地を拡大することができなかった。日本軍が確保している都市と鉄道沿線が中心で、華北の日本軍支配地域の農村では、中国共産党系の八路軍の「解放区」が拡大して行き、華中でも1939年以降、同じく共産党系の新四軍の「解放区」が出来上がって行った。