劇映画「伊藤千代子の生涯」
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席
中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
第58号 重慶爆撃
【ゆっくり歴史解説】重慶爆撃「百一号作戦」【知られざる激戦110】
医療倫理・研究倫理の深化
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席
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『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
1971年11月に宮崎県で開かれ、翌年1月には全国で開かれた教育研究集会において、宮崎県岩戸小学校の教師が地元住民の健康不良に関する発表をしたことから土呂久事件が発覚した。土呂久は九州山地の奥地にあるために余り知られていなかったが、1920年から亜ヒ酸を原始的な方法で生産し続けていた。このヒ素の生産に伴う大気汚染、水質汚染、土壌汚染が、周辺住民らに健康障害をもたらしたのであった。事件当初の争点は、ヒ素による健康影響の範囲であり、宮崎県はヒ素による健康影響をできるだけ隠蔽しようと工作した。
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
(資料)
1988(昭和63)年8月21日(日) 朝日新聞
旧陸軍の細菌兵器開発
東京の防疫研究室が中枢
軍医学校の極秘報告書が見つかる
「731」は実戦部隊
作家の山中氏が入手
関東軍防疫給水部 創設者の石井四郎元軍医中将の名をとって「石井部隊」とも呼ばれる。旧満州のハルビン近郊にあり、多数の中国人、ソ連人らを細菌兵器研究などのために生体実験したといわれる。
朝日新聞
軍医学校報告書
細菌兵器の機密43年経て見えた
ペスト研究、攻撃用か
要人暗殺用にフグ毒
旧関東軍防疫給水部(満州731部隊)の細菌兵器研究は、これまで、部隊長だった石井四郎元軍医中将が、日本から遠く離れた地で行なった「暴走行為」といった受け止め方が多かった。しかし、今回見つかった『陸軍軍医学校防疫研究報告』によると、東京の軍医学校との密接な連携があったことが明らかになった。細菌兵器の研究は極度に機密性が高く、報告書でもあからさまな記述はないが、公に出来ない研究が行なわれていたことは随所にうかがわれる。こうした資料が戦後43年を経て見つかったことに、関係者は驚きを隠せない。
日本の中国東北侵略から92年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
(お手紙より 2020年)
第2次世界大戦がはじまり、 敗戦するまでの行程の「初めの一歩」にあたる1931年9月に起きた満州事変、その半年ほど前の日本の立ち場、中国の立場と抗日の様子、中国人の暮らしぶりを書き残した記録は、歴史の流れの一コマをくっきりさせています。
無名兵士として父は歴史の一かけらを担い、私はそのかけらを公表する役を引き受ようと考えました。
住みなれた家は強制疎開の綱でひき倒され
東の町に小屋借りをして一家四人、
穴に埋めた大豆を噛り、
鉄道草を粥に炊き、
水攻めの噂におびえる大人に混って
竹筒の救命具を家族の数だけ争ったり
空襲の夜に手をつないで逃げ出し
橋をかためる自警団に突き倒されたり
右往左往のくらしの日々、
狂いまわる戦争の力から
必死になって神経痛もちの父を助け、幼い弟妹を守ろうとした
少女のその手、そのからだ、
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ
撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった
大竹康二
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。
43年8月開拓団入植
1945年5月 122師団(牡丹江)入隊
1945年6月 731部隊教育部に配属
1945年8月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの
平房脱出
確か8月14日の夕方、ソ連の落下傘部隊が731部隊に降下するという情報で、とにかく急いで平房の引込線から脱出して、ほとんど一日中停まらないで、梅花口(ばいかこう)に着きました。16日未明、通化駅操車場で終戦を知りました。列車はどんどん南下して、“満州”と朝鮮の国境を越えました。江界あたりで威嚇射撃をしたのを覚えています。
本件の検定経過内容をご覧いただいて、また色々とお話をいただいた、歴史学者、専門研究者、あるいは教育者としてのご意見を承りたいと思います。
私は第1回、第2回と現地で調査いたしました。現地に立ちますと、731部隊というのが日本の現代史の中の一大汚点であるということを感ぜざるを得ません。日本の歴史がどういう人たちを犠牲にしてたどってきたのかということを思い、非常に胸が痛くなるわけです。これはどの日本人もそこに立てば、そういう感慨をもつものと思います。そして加害の責任ということを感じざるを得ないわけですね。加害の責任を日本人としてどうやって果たしたらいいのかということになりますと、やはり 731部隊について正しく次の世代に教えていく、そしてそういうことを二度と起こさないということを、やはりしっかり伝えていくということ以外にないと思うんですね。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
2 修水渡河作戦
大規模毒ガス戦の諸記録
この作戦で使用される現代的な兵器の使用指導と教育のために参謀本部から派遣された、遠藤三郎 参謀本部第1〔演習〕課長兼大本営参謀は次のように記している。
午後2時半出発、南山の〔第101〕師団戦闘司令所に到る。雨晴れざるも、敵陣地は望見し得べし。 而も東北風吹きて瓦斯使用には好適なり。午後4時半、予定の如く砲撃開始、但し雲低く飛行機の爆撃のみは実行せられず。先ず陣地後方の村落を射撃し、次いで河岸の掩蓋銃座破壊、百数十門の砲火殷々として修水河畔を圧す。8時稍前、赤筒に点火、白煙敵陣地を蔽ふ中に、第1線諸隊渡河開始。火箭の如き弾丸飛び行く様壮快なり。間もなく渡河成功の報あり。爾後の前進は明確ならず。雨又頻りにして、将兵の労苦察するに余りあり。
核時代39年(1984年)5月初版発行
強制労働
殺人長屋に押し込めて酷使
大西馨(おおにしかおる)
大尉
〈略歴〉
本籍 愛媛県
学歴 高等小学校卒業
出身階級 貧農
所属部隊名 第42野戦道路隊
年齢 47歳
「先頭車から出発!!」先頭車の4人は枠に手をかけ、不規則に曲がった軌道に気を配りながらおしていった、そこから急傾斜で台車は矢のように飛ぶ、長浜上等兵は、「おい、ここからは1人で舵を取って下るのだぞ、うまくブレーキをかけんと脱線して車を壊してしまうから気を付けろ、ええか、わかったか!!」
4人の捕虜は心配そうに見ていたが、≪なるほどこれは殺人道だ、ひどいことをさせやがる≫と憤りの眼で睨んでいたが、やがて1人の青年を選んで3人ははらはらしながら振り返り振り返り歩いていった。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
3,自衛隊における人体実験の疑念
“人道的兵器”は存在するか
バートランド・ラッセル卿らの提唱によって、科学技術の進歩がもたらす人類への危険性と平和問題について話し合われるパグウォッシュ会議、世界各国の科学者を集めて第1回会議をカナダのパグウォッシュで開いたのは1957年である。
1959年8月にカナダのノバ・スコシアで開かれた第5回会議では、8か国参加した26名の科学者によって、「微生物学及び化学の知識の平和利用」を推進するための声明が出されたが、細菌兵器として要求される病原体や毒物の性質について、次の5つの項目をあげた。
①少量で人間を殺傷し、廃人化する作用を持つこと。
②貯蔵や散布によって、病原性や毒性を失わないこと。
③衛生上の注意や、普通の予防接種の施行で、予防できないこと。
④病原体や病気が簡単に診断できないこと。
⑤紡機が普通の薬や抗生物質で治らないこと。
今の生物兵器の研究はこうした条件にかなうものを選び出すことにあるので、そうした作業は、自衛隊でも、技術研究開発本部第2部や衛生学校、または化学学校、自衛隊中央病院において直接、間接に行われていることはいうまでもなかった。それは、この種の作業に直接関係している隊員たちの考え方の傾向にも強く表れている。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
宮中グループのメンバーは、英米の大使館も含めて多方面から政治的情報を集め、処理し、天皇に伝えた。天皇は彼らの情報に加えて、政府と軍部から口頭または文書で直接報告される膨大な量の政治軍事情報を独占することができた。また彼は皇族の長として、弟の秩父宮の政治的活動についての報告を、秩父宮の執事から秘密に受け取った。多方向に広がる大きな網の中心にいる静かな蜘蛛のように、彼はその糸を政府の各組織と軍の機関に伸ばし、それらが提供する情報を吸収し、記憶した。
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。
―中国、40代・男性
9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。
―モンゴル、60代・男性
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
私は若い頃、『きけ わだつみのこえ』をよく読んでいました。読んでいく中で波長の合う戦没学生を数名見つけて、現在も時々、読み返しています。とりわけ、佐々木八郎さんの残した手記や日記は私の魂にピタッと伝わってきました。その佐々木さんも、当該鹿屋航空基地から出撃しています。学徒出陣の22歳、沖縄海上で戦死。宮沢賢治の『烏の北斗七星』に関連して書いた自分のエッセイを(第一高校の)クラス会にて発表するほど、戦争(戦いで敵を殺すこと)に対して根本的な疑問を持っていた佐々木さんの、出撃直前と思われる機上での笑顔の写真もあります。それは、生来の朗らかさと親友たちへの別れの笑顔が重なったものと思われます。