拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】

2020年04月06日 | 來々軒

※「來々軒「の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。

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 「わが国最初のラーメン(専門)店は、浅草六区、すし屋横丁にあった來々軒(以下「來々軒」という)で、創業は1910(明治43)年のことである」。

 そんな話を聞いたことがあろう。來々軒=日本初のラーメン(専門)店という話は最早定説となっているが、これは例えば、NHKの大河ドラマで放映中の「麒麟が来る」の主人公・明智光秀が「織田信長を本能寺で討った」などと同じようなもので、「教科書に書かれているから間違いない」と闇雲に信じて、その出典を自分では調べようとはしないものである。
 
 私は還暦を迎えた直後、がんを患い、手術と抗がん剤治療の後、自宅療養を余儀なくされた。つまり時間ができたのである。いい機会であるから、この来々軒=日本初のラーメン(専門)店であるか否かを、いままで出版された本などで検証してみることにしたのだ。
 
 まず、結論を書いておく。來々軒は、「日本初のラーメン(専門店)」ではない。まして「日本で初めてラーメンを出した」という店でも決してない。付け加えるなら創業は1910年ではなく、1911(明治44)年、というのが私の考えである。
 今で言うなら來々軒は“町中華”だろう。しかし偉大な町中華店であった、と思う。その根拠はいくつかあるが、三冊の本をここで挙げたい。一冊は1987年に発行された小菅桂子氏の著書「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」[1](以下「ラーメン物語」)。それと、1933(昭和8)年に書かれた「淺草経済学」[2]と、1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」[3]である。その本の内容を含めて、私が結論を考えるまでに至ったかを記していく。

【ラーメン専門店のはずなのに 
写真に残る「広東・支那料理」の文字】
 私は來々軒=日本初のラーメン店という説には、以前からぼんやりと疑念を抱いていた。それは、來々軒より以前に創業していた中華(中国)料理店が多く存在していたという事実と、ネット上に出回っている1923(大正12)年頃撮影されたという來々軒の写真[4]を見たからだ。

 明治43年以前に創業された中華(中国)料理店は後述するとして、來々軒の写真について触れる。その写真はネット上にも公開されているから確認することは容易だ。そこには木造2階建ての『店の前で撮った家族(写真)』(キャプション)とともに、看板や一部品書きが写り込んでいる。ボクの手元にあるものでは「近代日本食文化年表」[5]の巻頭にある写真がもっとも鮮明であるのだが、その写真のキャプションには撮影年次が記されていない。
 その写真に写った看板には『支那御料理』『支那蕎麦』『廣東●●理來々軒』『●東御料理』『廣東●●支那蕎麦來々軒』などと描かれ、品書きには『シウマイ』「マンチウ」『支那蕎麦六銭』『ワンタン六銭』とある(●は判読不能)。また、「ラーメン物語」掲載写真では『廣東御料理來々軒』『滋養的支那料理 そば わんたん 七銭』と判読できる。つまり、写真を見る限り、來々軒は支那蕎麦を提供しているが、同時に支那料理店、広東料理店であることが分かる。なぜ「ラーメン(専門)店」が広東や支那料理を謳っているのだろう? 当時なら「支那蕎麦専門」とでも書けばいいのではないか。 
 私は本稿を書くにあたって、相当数の書籍を取り寄せたり図書館で行って古い本を読んだりしたのだが、その答えらしきはすぐに見つかった。最初に取り寄せた数十冊の本の中にそれはあったのだ。冒頭に書いた「三冊の本」のうちの一冊である。
 
 1987年に発行された小菅桂子氏の著書「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」。

 この本の内容は、この後書かれた様々なラーメンの歴史などに関する書籍で多々引用あるいは参考文献とされていくのだが、アメリカの歴史学者であるジョージ・ソルト氏は自らの著書「ラーメンの語られざる歴史」の中で[6]この本をこう紹介している。『日本でのラーメン誕生についての主な起源説三つと、それらを提示した作家や組織を紹介していこう。ひとつ目のもっとも想像力豊かな話が最初に登場したのは、料理研究家・食物史研究家の小菅桂子による、1987年に出版されたラーメン史の先駆的研究だった』。この本抜きでは來々軒を語れない、と思う本である。なお、「ラーメンの語られざる歴史」で言う『主な起源説』の残り二つは後述する。

 さて、その本には何が書かれていたのか。また「淺草経済学」「銀座秘録」にはどう記されていたのだろうか。

【來々軒の誕生から終焉まで 創業は1910年か1911年か】
 本題に入る前に來々軒の歴史を簡単に記しておこう[7]
◆1857(安政4)年もしくは1858(安政5)年 創業者・尾崎貫一、下総舞鶴藩の武士の家に生まれる。明治の初め頃、横浜に転居。横浜税関に勤務する。
◆1892(明治25)年 十一月、貫一の長男、新一、誕生。のち、東京府立第三中学校、早稲田大学商科に進学。
◆1910(明治43)、もしくは1911(明治44)年 貫一、浅草新畑町三番地に来々軒を開業する。電話は浅草一九八八番であった(大正10年には「下谷四五七七番」)
◆1915(大正6) 貫一の孫、後の來々軒三代目店主・尾崎一郎、誕生。
◆1921(大正10)年 來々軒は繁盛し、この年には12人の中国人コックが働く。
◆1922(大正11)年 三月、貫一死去、享年65。長男・新一が経営を引き継ぐ。
◆1927(昭和2)年  三月、新一死去、享年36。妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
◆1935(昭和10)年  20歳の一郎が家業継承。堀田久助は独立、上野來々軒を創業する。
◆1943(昭和18)年 一郎、出征のため、浅草の店を閉店する。
◆1954(昭和29)年 一郎、東京駅近く、八重洲四丁目に来々軒を新たに出店する。
◆1965(昭和40)年 八重洲の店がビル化されることに伴い。内神田二丁目に移転。
◆1976(昭和51)年 廃業

 冒頭に書いた「わが国最初のラーメン店は、浅草六区にあった來々軒で、創業は1910(明治43)年のことである」という一文には三つの事象が含まれている。それは、
一、來々軒の創業は1910年である。
二、來々軒は日本初のラーメン(専門)店である。
三、來々軒は中華(中国)料理店ではなく、創業当時からラーメン(専門)店であった。

 一、の創業年次に関しては、上記に揚げた書籍はもとより、本稿執筆時から私は相当な書籍等を見てきたが、どこにも1910年という根拠が記されていないのだ。また、ネット上でも調べてみた限り出典等を示した記述は見つけられなかった。
 おそらく來々軒=1910年創業と初めて書いた本であろう「ラーメン物語」でもそれについては触れず、ただ『明治43年、浅草新畑町三番地すし屋横丁の一角に開店した來々軒』などと書かれているだけである。浅草区史なども含めて調べたのだが、明治43年創業という事実を示す書籍等には出会えなかった。しかし、ようやく1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」の中に創業時期を示した記述を見つけた。
 それによると銀座にあった”上海亭”の様子を細かく書く中で『最も淺草の來々軒の如きは、明治四十四年(注・1911年)の開業であるから、極く安直な支那料理屋はないではないが、しかし、本格的な支那料理の大衆化は・・・』とある。一方、明治43年12月発行の「淺草繁盛記」[8]は、当時の浅草の様子を事細かく記した本で、中には地区別の飲食店、あるいは名物とする料理を多数紹介しているが、來々軒の名は記されていなかった。ただ、1910年にしても1911年にしても、本稿の執筆目的にそう大きく影響するものではないので、この稿では1910年創業として書いていくが、これについては後述することにしたい。

(「銀座秘録」に書かれた『來々軒創業年』)
 
【來々軒=日本初のラーメン(専門)店、とされた理由】
 後で触れるが、明治の終わり頃までの間、多くの中華・中国料理店は高級だったようだ。庶民店大衆的な店として來々軒を区別するのは、値段だったり、屋号や内装・外観で作られる雰囲気だったりのはずである。さらに提供品においても、中華料理店のように一品料理を何種類も置き、あるいは高級中国料理店のようにコース料理中心としたものではなく、あくまで汁そば、ラーメンを中心とした料理を提供する店だったからではないか。だからこそ、來々軒は「中華料理店」ではなく「ラーメン(専門)店」として日本初、とされたのだろう。

 中国料理店・中華料理店とラーメン専門店を区別する際、現代では料理の内容という観点からすればスープの存在が大きいといえる。ラーメン店ではそれこそラーメンしかスープを用いないからそれ専用に仕込めばいい。しかし中華(中国)料理店では汁そば以外にもさまざまな料理に用いる。
「東京ラーメン系譜学」[9]は、『同じラーメンという食べ物でも発展の歴史が違い、出されるラーメンも全く違う食べ物と言ってもいいくらい性質を異にした』と述べている。ただそれは、その本の指摘のように、100年以上にわたって発展した歴史がある現在だからこそ区別できるのであって、明治大正の頃にはその歴史もない。來々軒は「スープ」云々ではなく、日本人の嗜好に合った、庶民的大衆的な値段と店内内装などの雰囲気の中、汁そばを提供品のコアにしたから従来あった中華料理店と区別され、日本初の「ラーメン(専門)店」とされている・・・ということで良いのではないか。

 では、「ラーメン(専門)店」「中華料理店」「町中華」との違いはどこにあるか。無論、それぞれに定義があるなど聞いたことはない。しかし、例えば濃厚豚骨魚スープで、つけ麺・ラーメンが全国的にも評判の店があるとする。私たちはその店を中華料理店とも町中華ともいわない。けれど、その店には餃子やチャーシュー丼がある。横浜中華街の大通りに周囲を威圧するような外観を持ち、コース料理が数万円もするような高級中国料理店があったとしよう。そこを誰もラーメン店、町中華とは呼ばない。しかし、チャーシューメンやエビそばなどの汁そばは数十種類もある。私鉄の小さな駅前で、初老のオヤジが鉄鍋を振り、チャーハンやら酢豚定食やら中華丼、あるいはラーメンをつくる店を、町中華と人は呼ぶ。人によっては中華屋、ラーメン屋という。町中華、中華・中国料理店、ラーメン専門店・・・そこに明確な定義があるわけではないが、あやふやだけれど、確かな一線があるように思える。

 私はあまり意識することなく使っていたのだが、「中華料理店」と「中国料理店」も、あやふやではない、けれど、ある一線は引けるようである。西安市出身の中国人・徐航明氏が書いた「中華料理進化論」[10]では、おおむね次のような分類を示している。
◆中華料理店・・・庶民の店、値段は安い、ラーメンやチャーハンなどを提供、シェフは日本人、個人経営で小規模、テーブルは四角く繁華街や街角にある。
◆中国料理店・・・高級で値段は高い、フカヒレな北京ダックなども提供、シェフは中国人が多く会社経営で規模は大きい、テーブルは丸く高級ホテルなどに入っている。

 最近、「町中華」という表現が目立つようになった。雑誌で特集を組んだり、MOOK本が出版されたりと、随分と注目を集めている。「町中華」とはどんな店なのだろうか。「町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう」[11]と、「町中華 探検隊がゆく!」[12]によると、おおむね次のような店のことである。なお、この二冊は著者が同じである(町中華探検隊)。
◆町中華・・・創業時期は主に昭和、安い料金で食べられる中華食堂、本場の中国料理でもなく単品料理主体やラーメンなどに特化した専門とも違う、オムライスやカレーライスなどを提供する店もある、殆どが個人経営、姻戚や弟子・同郷出身者への暖簾分けも多い、店主の人柄や味の傾向がはっきりでる。

 ラーメン専門店というのは、文字通りラーメンに特化した店であろう。ちなみに検索エンジンを用いて「ラーメン専門店」で検索、ランダムにその店の公式サイトでメニューを見ると、ほぼ全店で餃子を、幾つかの店でチャーハンやチャーシュー丼などの丼物を提供していた。唐揚げや韮レバ炒めなど一品ものを出している店も数店あったが、提供品数はいずれも2~3点以内であった。

【三代目が語る 來々軒は『シナの一品料理屋』】
 実は「ラーメン物語」では來々軒のことを、ラーメン専門店といった表現を一切使っていない。中国の一品料理店あるいは中華料理屋、なのである。そしてこの本には三代目店主・尾崎一郎氏の話が掲載されている。文脈から、著者がインタビューしたものと思われる。一郎氏はこう語っているのだ。
 
『来々軒は日本人が経営したはじめてのシナの一品料理屋だったと思いますよ。私の祖父がなぜ来々軒と名付けたのかは知りませんが、この来々軒という名前はうちが元祖です。看板はシナそばと焼売でした。』

 來々軒三代目店主・尾崎一郎氏が語る來々軒。それは『日本人が経営したはじめてのシナの一品料理屋』であった。これほど確かな話はあるまい。著者の小菅桂子氏は、この話を聞いたからこそ、著書の中で下町の中国の一品料理店あるいは中華料理屋という表現を用いているのではないだろうか。

 さらにこんな記述もあるのだ。「あとがきにかえて」の中、尾崎一郎氏の話。
 
 『昭和ヒトケタの頃です。当時は八時から浅草ではどこの映画館でも夜間割引というものがありましてね。ひと遊びしたお客様がうちの店で腹ごしらえして割引に入ろう、それにはゆっくりたべてる時間がない、面倒だから上に乗せてよ・・・そうしたお客様のニーズにこたえて天津丼と中華丼ができたわけですが(中略)、カニ玉も八宝菜も十二銭の頃です。五十銭あったら遊んでラーメンたべて、割引へ入れた時分の話です。天津丼と中華丼はお客さまのヒントで、來々軒が名付け親です』。

 1989年発行の「ベスト オブ ラーメン」[13]では昭和初期の來々軒の品書きの写真の一部を掲載している。そこにはこんな品があるのだ(単位は銭)。
◆肉もやしそば 三五
◆やきそば 三〇
◆ちやしゆめん 三〇
◆らうめん 一五
 
 つまり、來々軒は焼売だけでなく、カニ玉、八宝菜の一品料理、さらには天津丼、中華丼のご飯物、そして焼きそばまでも提供していたのである。果たして、これで「ラーメン専門店」と言えるのであろうか。また、「古川ロッパ昭和日記 戦中篇」[14]でも、來々軒で“五目そば”を食べ『うわー不味くなった』と書かれている。不味くなった、とはこの書が書かれたのがまさに太平洋戦争中で、食糧事情が極めて悪い時期だったからだろう。

 ちなみに、「東京今昔 街角散歩」[15]によれば、日本で最初に映画館ができたのはやはり浅草六区で『明治36年(注・10月2日)に日本初の常設映画館(活動写真館)、「電気館」がオープンした(現電気館ビル)。大正期には「活弁」が現れ』て、『六区ブロードウェイ商店街 映画専門の「電気館」の「電気」は当時、ハイカラなものに付けられた言葉。凌雲閣と並んで有名な、常設興業館、日本パノラマ館の跡地には、現在、複合商業施設「浅草ROX」が立っている」。この後も、当時あった見世物小屋が続々と活動写真館に鞍替え、「浅草六区活動写真街」が形成されていくことになる[16]

【來々軒の天津丼、中華丼】
 前項で書いた「天津丼・中華丼 來々軒発祥説」を詳しく見てみる。

 Wikipediaの來々軒の項目を見る『中華丼や天津飯の発祥店とも称されることがある[4][5]』という記載がある。[4][5]は脚注で、その引用元であったり出典であったりするのだが、念のため調べてみると面白いことが分かった。
 
 まず天津丼である。Wikiの引用は2009年発行の「中国の食文化研究 天津編」[17] 。読んでみると、その中、“天津飯のルーツを探る”でこう書かれている。
 『元祖をさらにたどると東京、大阪の二説[18]が浮かび上がってくる。東京説について私は天津飯の由来たる話をつなぎ合わせて、やっと目指すお店にたどり着いた。その店、来々軒(昭和三十三年に弟子入り)で修業して独立された宮葉進氏が千葉市稲毛区天台で進来軒を開店されていると聞き(中略)ご主人にお話をお聞かせ願った。明治末期の浅草に、豚骨と鶏ガラでスープを取り、醤油味のラーメンを始めた「来々軒」という中華料理店があったという。その三代目の主人が、戦地から復員して東京駅の八重洲口に来々軒を出店し、このとき銀座の中国料理店「萬寿苑」からコックを回してもらった(中略)“なにか早く食べるものを作って”という客の要望に応えて店にはない特別のメニューを作った。(中略)蟹玉(芙蓉蟹肉)を丼のご飯の上にのせ、酢豚の餡を応用した甘酸っぱい醤油味の餡をかけて「天津丼」と呼んだのである』。

 尾崎一郎氏が語る戦前説と、この戦後説が出てきたわけだ。これは考えるに、どちらかが思い違いをしていたということではなく、どちらも正しいのではないか。これはあくまで私の推測であるが、『料理の経験などなかった』(「トーキョーノスタルジックラーメン」[19]より)宮葉氏が、八重洲で再開したばかりの來々軒に勤め始めたころのこと、急(せ)いた感じの客から早く、と要望があり、萬寿苑から来ていたコックが、以前から尾崎一郎氏から聞いていた「かに玉を飯の上に乗せる」品を作った。もしくは一郎氏から指示があってそれを作った。メニューにはないものだから、宮葉氏がそれは何という名の料理かと聞くと、コックは天津丼と答えた。勤め始めたばかりの宮葉氏は初めて聞く品名で、それが天津丼の始まりと考えた・・・どうだろうか?

 次に中華丼である。Wikiの引用元は1991年発行の「日本史総合辞典」[20] である。一千ページを超える大型本で、なかなか該当する記述が見つからず往生したが、“近代の食生活”の中、“和洋折衷料理”のところに記述があった。『(前略)因みに「中華丼」と「天津丼」は明治43年(1910)から昭和16年(1941)まで浅草にあった「来来軒」の作。これまた客の注文から生まれたメニューである』。
 これだけでは断定できないが、中華丼・天津丼という考案と命名は來々軒ということのようである。ただし、1925(大正14)年発行の「食行脚 東京の巻」[21]の中、“支那料理 海嘩軒(かいようけん。日本橋本石町)” の紹介の中に、『麺類では・・・天津麵・・・』を提供していたとあるので、來々軒以前にかに玉を飯の上に乗せて食べられていたという可能性もあるかも知れない。
 
 來々軒の看板には廣東という文字が見える、と書いたが、「ラーメン物語」によれば、來々軒の初代店主・尾崎貫一氏は、開業にあたって当時に南京町から広東料理の料理人を招いた、とある。尾崎貫一氏が書き残した日記風ノートには、大正10年には中国人調理人は12人に上った、ともある。『コック十二人である。しかも來々軒の料理人は開店以来、南京町出身の広東料理のプロである。くどいようだが場所は浅草、それも町場の中華料理屋である。そこに十ニ人…』。小菅氏はそういう状況からして『来々軒がいかに本場の味を大事にし、いかに繁昌したか伝わってくるようだ。』と記した。
 此処で注目すべきは広東の本場の味を大切にした、“町場の中華店”という記述があることだ。ラーメンを中心にした店に広東の料理人12人は置かないだろう。ラーメン(支那そば)は確かに看板メニューではあったが、同時に三代目店主・尾崎一郎氏が話されていたように來々軒は、支那の一品料理屋だったのだ。看板に廣東、支那料理の文字が大書きされていたのには、それなりの理由があったということである。

 そしてもう一つの疑問が浮かぶ。來々軒のスープは、尾崎一郎氏によれば醤油味だった。いくつかの書籍によれば、それまでの塩味だった汁そばを來々軒が改良、醤油味にしたとされている。來々軒が創業し支那そばを提供するまで、支那そばは本当に全てが「塩味」だったのだろうか。これから紹介するが、明治末期には横浜では既に屋台で支那そばを提供していたとされている。中国の料理人が作った本場の味が評判だったというなら、支那そば(汁そば)もまたそれに合わせるべきではないか。なぜゆえ、支那そばだけを日本人向けに、つまり醤油味に改良したのだろうか。もしかすると、もう横浜では、醤油味の支那そばを提供している店・屋台があったのではないか。残念ながらそのあたりを記述している書籍には出会えなかった。もう100年以上も前のこと、当時の横浜にどれだけ支那そばを提供している店・屋台があったのかは分からないが、全部の店のスープの記録などあろうはずもなく、この疑問は解決されることはないだろう。

 なお、來々軒の中国人コックの件であるが、たとえば「ラーメンがなくなる日」[22]などでは開業時に南京町から12人の中国人調理人を招いた、といった記述がみられるが、「ラーメンの物語」の記述が尾崎貫一氏自身の日記風ノートに基づくものであるから、あくまで『大正十年には12人の中国人コックがいた』と考えるべきであろう。

 さて、ここからは、ラーメンが各地でどう創業されたのか、來々軒が残した功績はどんなものだったのか、大正昭和初期・20世紀末・21世紀にどう表現されたのか、などを見ていくとする。

[1] 「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」 小菅桂子・著、駸々堂出版。1987年9月刊。ただしこの書籍はこの本は1987年9月刊の単行本と、1998年11月刊の改訂版・文庫版がある。本稿では単行本を指す。
[2] 「淺草経済学」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[3] 「銀座秘録」石角春之助・著、東華書荘。1937年1月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[4] 來々軒の大正12年ごろの写真 來々軒を背景にした家族写真。この写真はネット上にも相当出回っているが、書籍として刊行された中にも「大正12年ごろ」とされるものが多い。しかし、幾つかの本やネット上にある写真のキャプションには「大正2年ごろ」とされるものとある。
[5] 「近代日本食文化年表」 小菅桂子・著、雄山閣。1997年8月刊。
[6] ジョージ・ソルト(GEORGE SOLT)の著書 「ラーメンの語られざる歴史 世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた」 野下祥子・訳、国書刊行会。2015年9月刊
[7] 「ラーメン物語」などから作成。
[8] 「浅草繁盛記」 松山伝十郎・編、實力社。1910(明治43)年12月刊。
[9] 「東京ラーメン系譜学」刈部山本・著、辰巳出版。2019年11月刊。
[10] 「中華料理進化論」 徐航明・著、イースト・プレス。2018年9月刊。
[11] 「町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう」 町中華探検隊・著、立東舎。2016年8月刊。
[12] 「町中華探検隊がゆく!」 町中華探検隊・著、交通新聞社。2019年2月刊。
[13] 「ベスト オブ ラーメン」 麺‘S CLUB編、文春文庫ビジュアル版。1989年10月刊。
[14] 「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年‐昭和20年」 古川ロッパ・著、晶文社、2007年3月刊。
[15] 「東京今昔 街角散歩」中「浅草② 六区・かっぱ橋道具街」から。井口悦男・監修、ジェイティビィパブリッシング。2012年10月刊。
[16] 浅草六区活動写真街 江戸東京博物館常設展5階 「T4 市民文化と娯楽 六区活動写真街」より。https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/p-exhibition/5f
[17] 「中国の食文化研究 天津編」 横田文良・著、ジャパンクッキングセンター(辻学園デジタル出版事業部)。2009年3月刊行。
[18] 東京と大阪の二説 大阪説とは、大阪の「大正軒」という中華料理店で、山東省出身の店主が戦後の混乱期に芙蓉蟹蓋飯を考案したというもの。
[19] 「東京ノスタルジックラーメン」山路力哉・著。幹書房、2008年6月刊。宮葉進氏へのインタヴュー記事の中から。
[20] 「日本史総合辞典」 林陸朗、村上直、高橋正彦、鳥海靖・編、東京書籍。1991年11月刊。
[21] 「食行脚. 東京の巻」 奥田優曇華・著、協文館。1925年7月刊。
[22] 「ラーメンがなくなる日」岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。



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