かつて我々が学んだ論理学はA⇒Bは「主語ならば述語」型だったものです・・。
そこから三段論法を展開するわけです。ですから最初の命題は“自明で真であるもの”を選ぶことになります。たとえば私は女じゃないですから「私は男です」とかですよ、そこから次に「男は人間です」となって、さらに「私は人間です」とやって三段論法が終了したならば「私の人間性が証明された」ことになるのです。ここから命題論理学における命題の定義として(A⇒B)⇔(¬A∨B)を活用したとしたら「私は人間です」は「私じゃないかまたは人間です」と同義だという事になるので多少の違和感がございますけれども奇妙ではないと存じます。
そうしたら原子命題に関わらず「主語ならば述語」は命題として扱っても良いじゃないか・・。
おまけにゲーデルに使うんだったら数学を解析するんだから=だって⇒に出来た方が良いに決まってる。イコールってのは同値じゃないですよ、なにしろ「2×3は6」だ、しかし「6は2×3」って訳じゃないのですからね。そうしたら「2×3⇒6」は「2×3じゃないかまたは6」だと言っているに等しいということになるんです。奇妙だという人だって多いのでしょうけど私には自然に聞こえます。もちろんゲーデルが不完全性定理に用いたのは述語論理であって命題論理とは少しばかり性質が異なります。
それでもゲーデル命題に命題論理の規則を用いたら次のような興味深い結論に我々を導いてくれるのですよ・・。
Gが「Gは証明不可能」ならば¬Gは「Gは証明可能」
⇔
(G⇒「Gは証明不可能」)⇒(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
¬(G⇒「Gは証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧¬「Gは証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧¬「G⇒証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧(G∧証明可能))∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧証明可能)∨(¬G⇒「Gは証明可能」)
⇔
(G∧証明可能)∨(G∨「Gは証明可能」)
⇔
「Gであり証明可能」またはGまたは「Gは証明可能」
ここで留め置いたら傑作なことになるんであってゲーデル命題の定義が意味するところは、「Gであり証明可能」かまたは「GであるかまたはGは証明可能であるか」な~んてことになって《Gに関する証明不可能性》なんか消し飛んでしまうのであ~る!
⇔
「Gであり証明可能」または「Gまたは¬Gまたは証明可能」
⇔
T
なんだけどさ、自然数体系にはGが出現するというのがゲーデルによる証明の本筋なんだから、そのGに関して証明不可能性は考えなくて良いとしたら少なくとも《第二不完全性定理》はナンセンスだったと結論して良いんじゃないの?
そこから三段論法を展開するわけです。ですから最初の命題は“自明で真であるもの”を選ぶことになります。たとえば私は女じゃないですから「私は男です」とかですよ、そこから次に「男は人間です」となって、さらに「私は人間です」とやって三段論法が終了したならば「私の人間性が証明された」ことになるのです。ここから命題論理学における命題の定義として(A⇒B)⇔(¬A∨B)を活用したとしたら「私は人間です」は「私じゃないかまたは人間です」と同義だという事になるので多少の違和感がございますけれども奇妙ではないと存じます。
そうしたら原子命題に関わらず「主語ならば述語」は命題として扱っても良いじゃないか・・。
おまけにゲーデルに使うんだったら数学を解析するんだから=だって⇒に出来た方が良いに決まってる。イコールってのは同値じゃないですよ、なにしろ「2×3は6」だ、しかし「6は2×3」って訳じゃないのですからね。そうしたら「2×3⇒6」は「2×3じゃないかまたは6」だと言っているに等しいということになるんです。奇妙だという人だって多いのでしょうけど私には自然に聞こえます。もちろんゲーデルが不完全性定理に用いたのは述語論理であって命題論理とは少しばかり性質が異なります。
それでもゲーデル命題に命題論理の規則を用いたら次のような興味深い結論に我々を導いてくれるのですよ・・。
Gが「Gは証明不可能」ならば¬Gは「Gは証明可能」
⇔
(G⇒「Gは証明不可能」)⇒(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
¬(G⇒「Gは証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧¬「Gは証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧¬「G⇒証明不可能」)∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧(G∧証明可能))∨(¬Gは「Gは証明可能」)
⇔
(G∧証明可能)∨(¬G⇒「Gは証明可能」)
⇔
(G∧証明可能)∨(G∨「Gは証明可能」)
⇔
「Gであり証明可能」またはGまたは「Gは証明可能」
ここで留め置いたら傑作なことになるんであってゲーデル命題の定義が意味するところは、「Gであり証明可能」かまたは「GであるかまたはGは証明可能であるか」な~んてことになって《Gに関する証明不可能性》なんか消し飛んでしまうのであ~る!
⇔
「Gであり証明可能」または「Gまたは¬Gまたは証明可能」
⇔
T
なんだけどさ、自然数体系にはGが出現するというのがゲーデルによる証明の本筋なんだから、そのGに関して証明不可能性は考えなくて良いとしたら少なくとも《第二不完全性定理》はナンセンスだったと結論して良いんじゃないの?
上記はトートロジーだから、当然Tですが。
¬G⇔「Gは証明可能」
⇒
¬G⇒「Gは証明可能」
⇔
¬G⇒(G⇒証明可能)
⇔
T
¬G⇔(Gの証明が存在する)
⇒
¬G⇔(G⇒証明可能)
⇒
¬G⇒(G⇒証明可能)
⇔
T