基本的なプランは師匠シュウインガーだったのですがなw
よくある話では弟子たちがどんなに良いアイデアを出して支えたとしても、それは立場として助力者であって大して日の目を見ることも無い、そうですのや。クェーサー発見の時もソ~だったし、理論ではプランクが弟子のアイデアの上前をはねた、そうでしたのや、そう。プランクの時とチョット違うのは、アイデアを出したのが師匠の方だったってコト、そうですのや。
シュウインガーが電弱統一プランを提出した時、
「このような論文は嫌われるでしょーね」だとさ・・・。
シュウインガーと言えば朝永先生と共にくり込み理論によって一度はノーベル賞を得ていまして、すわ史上初の二度目のノーベル物理学賞か、というよーなプランだったですのや。せやけど、そのことが理由というワケでもない、なにやらえも言われぬ事情が漂っていたであろう話、そうですやろ。学会が場の統一理論に理解が無かったせい、そうだったかもワカラナイ、そう。
ともかくアメリカの学者は層が厚かったって話w
日本が二中間子論でグダグダしてた頃・・・。
思えば日本はアインシュタインと同じよーに弱い相互作用に理解が無かったのですわな、そう。日本人学者が力と聞けば「引力なのか斥力なのか?」とだけ思うであろうという話、そうでしたやろ、そう。つまり、弱い相互作用のように❝低確率で相手を変える❞という第三の力のことは分かっていなかったのですがな。
W粒子は日本からは谷川中間子と言っておったw
つづく、