Y=「この命題は反証されない」
⇔
Y⇔¬Antiprovable(Y)
⇔
(¬Y∨¬Antiprovable(Y))∧(Antiprovable(Y)∨Y)______________ア)
⇔
(¬Y∨Y)∧(Antiprovable(Y)∨¬Antiprovable(Y))
⇔
T∨T
⇔
T
ア)の個所において、Antiprovable(Y)⇒¬Yなどから「Yの定義」⇒Tが導かれるので、Y∧「Yの定義」⇔Y⇒Yより、Y⇒Yとなるから「Yは無矛盾である」となります。
¬Y=「この命題は反証される」
⇔
¬Y⇔Antiprovable(¬Y)
⇔
(Y∨Antiprovable(¬Y))∧(¬Antiprovable(¬Y)∨¬Y)________________イ)
⇔
(Y∨¬Y)∧(¬Antiprovable(¬Y)∨Antiprovable(¬Y))
⇔
T∧T
⇔
T
イ)の個所において、ア)の個所と同様にすると「¬Yの定義」⇒Fが導かれるので、¬Y∧「¬Yの定義」⇔¬Y⇒Fより、¬Y⇒Fとなるから「¬Yは矛盾する」となるのです。
以上より、自己言及を避けた定義だって可能だと考えれば、Y「矛盾しない数学命題」と¬Y「矛盾する数学命題」に数学体系を二分させることが(やはり)可能であるか、と存じます。本日、一回目の投稿では¬YからY∧¬Yが証明されることからすぐに「数学の矛盾性」だと早とちりをしてしまったので“そこまで”だったが、ちょっと欲が出てまいりました。
問題は「Yは自分自身ではYも¬Yも証明できない」という一点です。
ここは、もしかして京都大学の小針によるかと思わしき思想によって解決すべき問題なのではないか、と存じまして、ま、故人の論文などついぞ知らぬ程度の知識しか持ち合わせておりませぬが、数学の本質が矛盾性にこそ存在するという主張、もしくは主張とまでいかずとも、作業仮説ぐらいの意味はあるかな、ただ、作業仮説というのは物理学の言語であって数学のそれではありませぬ。
いや、前置きが長くなりすぎたか・・・。
すなわち論理証明はA⇒Aで無矛盾性であるが、数学の場合には証明途中で同様のことが出現したら“むしろ悪循環”でしかありません。文字面でいうならば「A⇒BでB⇒CだからA⇒C」という形で“証明”が進みますので無矛盾性の手形など落とせるわけがないのではなかったか、という仮説が成立すると思います。「4の倍数ならば2の倍数」にしても「4の倍数ならば2の倍数」ゆえに「2の倍数ならば2の倍数」と、ここで無矛盾性が成立してきますけれども、これは数学の証明じゃありません。前後で命題の形が変わっていますから命題Yの一員ではございません。
確かに、命題Yは無矛盾性であり、命題¬Yは矛盾性であって、純然たる“それ(ら)”であって、まったく他の意味は持たせられませぬ!
「数学において、無矛盾性は証明を要する問題などではなくて、最初から存在するルールであり、必要とあらば《無矛盾性公理》として書き足しておけば宜しい」
なんだ!
解釈は深まったが、結局のところ同じ結論となりました・・・。
⇔
Y⇔¬Antiprovable(Y)
⇔
(¬Y∨¬Antiprovable(Y))∧(Antiprovable(Y)∨Y)______________ア)
⇔
(¬Y∨Y)∧(Antiprovable(Y)∨¬Antiprovable(Y))
⇔
T∨T
⇔
T
ア)の個所において、Antiprovable(Y)⇒¬Yなどから「Yの定義」⇒Tが導かれるので、Y∧「Yの定義」⇔Y⇒Yより、Y⇒Yとなるから「Yは無矛盾である」となります。
¬Y=「この命題は反証される」
⇔
¬Y⇔Antiprovable(¬Y)
⇔
(Y∨Antiprovable(¬Y))∧(¬Antiprovable(¬Y)∨¬Y)________________イ)
⇔
(Y∨¬Y)∧(¬Antiprovable(¬Y)∨Antiprovable(¬Y))
⇔
T∧T
⇔
T
イ)の個所において、ア)の個所と同様にすると「¬Yの定義」⇒Fが導かれるので、¬Y∧「¬Yの定義」⇔¬Y⇒Fより、¬Y⇒Fとなるから「¬Yは矛盾する」となるのです。
以上より、自己言及を避けた定義だって可能だと考えれば、Y「矛盾しない数学命題」と¬Y「矛盾する数学命題」に数学体系を二分させることが(やはり)可能であるか、と存じます。本日、一回目の投稿では¬YからY∧¬Yが証明されることからすぐに「数学の矛盾性」だと早とちりをしてしまったので“そこまで”だったが、ちょっと欲が出てまいりました。
問題は「Yは自分自身ではYも¬Yも証明できない」という一点です。
ここは、もしかして京都大学の小針によるかと思わしき思想によって解決すべき問題なのではないか、と存じまして、ま、故人の論文などついぞ知らぬ程度の知識しか持ち合わせておりませぬが、数学の本質が矛盾性にこそ存在するという主張、もしくは主張とまでいかずとも、作業仮説ぐらいの意味はあるかな、ただ、作業仮説というのは物理学の言語であって数学のそれではありませぬ。
いや、前置きが長くなりすぎたか・・・。
すなわち論理証明はA⇒Aで無矛盾性であるが、数学の場合には証明途中で同様のことが出現したら“むしろ悪循環”でしかありません。文字面でいうならば「A⇒BでB⇒CだからA⇒C」という形で“証明”が進みますので無矛盾性の手形など落とせるわけがないのではなかったか、という仮説が成立すると思います。「4の倍数ならば2の倍数」にしても「4の倍数ならば2の倍数」ゆえに「2の倍数ならば2の倍数」と、ここで無矛盾性が成立してきますけれども、これは数学の証明じゃありません。前後で命題の形が変わっていますから命題Yの一員ではございません。
確かに、命題Yは無矛盾性であり、命題¬Yは矛盾性であって、純然たる“それ(ら)”であって、まったく他の意味は持たせられませぬ!
「数学において、無矛盾性は証明を要する問題などではなくて、最初から存在するルールであり、必要とあらば《無矛盾性公理》として書き足しておけば宜しい」
なんだ!
解釈は深まったが、結局のところ同じ結論となりました・・・。