究極理論ではそこに原理か表現かという問題が加わるw
そう、そこまで論じなくては究極理論の名に相応しくない、そう。早い話が群論基礎というべけれど、ワシに言わせたら群論的対称性は表現であって原理ではなく、韓=南部模型では三原色も表現であり理論言語ではなくなりますがな、そうですねん。そこ、標準模型から進展発展する物理を夢見ている方々がごっちゃにしているという話ですねん、そう。早い話が、もしSU(3)が原理だったら、宇宙はいきなり中性子や陽子から始められますがな、そうですやろ、そうやないか。と、まあー、ここまでは贅沢過ぎる話ですやろ、そう。
当理論が物理学であるためには作業仮説を明確にして、
そして、勝負せんといかんがな、そう!
量子インフレーション仮説に、MおよびVユニバース粒子説、さらには韓=南部模型の成立、今のところすべてが作業仮説ですがな、そうですねん。原理に昇格する以前にこのままで勝負できなければにっちもさっちも行きマヘンのや、そうですねんて。なぜなら原理に昇格するかド~かは実験検証してみなくちゃワカランですのや、それにはブレークスルーを果たす必要がありますがな、そう。つまり作業仮説のままでその段階で物理学的な意味があると、そう認められなければなりマヘンのや、そうですがな。
その上で原理か表現かという検討課題が生じますのやw
一般相対性理論はアインシュタイン個人が好むと好まざるとに関わらず、その数式は表現ですのや、そうですねんて。そら、一般相対性原理という群論上の物事だっておますけど、群論そのものが原理ではなくて表現であることが分かっておりますのや、そう。「相対性原理を拡張すれば重力理論に行き着く」コレが原理、そうやねんで、そう。で、確かにそのよーに定義すれば、原理に沿って宇宙を作成することが可能なヨ~にだって思えますな、そうですな。
それでも物理学上の原理と宗教的な意味合いとはチガウw