まず(A⇒B)という持ちかけに対して(¬B⇒A)という対応をしたという事実の検討から始めましょうか・・。
前者を意訳すれば「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」とセールスマンが言ったということですが、それに対して後者は「私が買わないならばその製品は素晴らしいでしょう」と皮肉を述べたことになるはずですが、
ところがどうして駄目なのか?
手っ取り早く対応した客の言葉を対偶にしてみたらどうだろうか、すると(¬B⇒A)の対偶は(¬A⇒B)ですから「その製品が素晴らしくないならば私は買うでしょう」と言ったことになります、ものの見事に「その製品が良かろうと悪しかろうと買います」と言ったことですよね、だから皮肉のつもりで言った言葉が相手の十分条件に関する議論に終わっておればまったく無効だということが良く分かりますw)
その間の事情じみた物事を物理学者のウルフがいみじくも「お金とか食べ物とかいった物は必要な分だけあればそれで良い物」「それらに十文を求めるのは惨めさの根源」と述べていました・・。
おそらくウルフの本意は「何事によらず必要条件を求める考え方をすべきであって十分条件を求めるのは良くない」だったように存じました。ですから「製品のすばらしさ」を十分条件にして説いて回っているセールスを相手にした場合に、それを否定する文章にしたところで屁のツッパリにもならんわけですね。すなわちこの場合は必要条件の「製品を買う」という件に関して見解を述べなければ何にもならんわけです。「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」に対しては「その製品が素晴らしいならば私は買わない」で対処しなければいけません。そうした場合に途中計算は省略させていただきますけれども、論理計算は(A⇒B)∧(A⇒¬B)が¬Aと同値であることから「製品は大したことない」という意味だけが残るのです、十分条件の「この製品は素晴らしい」は両者に共通しているにもかかわらず!
いずれもアッと驚くような答えなのですけど、どうやら論理学はそうできているらしい、ひょっとしたら大脳言語も・・。
高尚な解決は以上のように必要条件と十分条件の重さの違いというようなことで解決するのですが、もう一つ人間心理の奥底に眠っている虚栄心の駆け引きの問題が出てくるとなお面白いですよ。「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」は客の虚栄心をくすぐった言い方です、それに対して「その製品が素晴らしいならば私は買いません」はくすぐられた虚栄心を打ち消す謙虚な言い方だと存じます。それはむしろ客の側からセールスマンの「そのような素晴らしい商品を自分は扱っている」という虚栄心を強化する言い方だと思うのです。虚栄心をくすぐられたセールスマンは哀れ「その製品は大したことない」という意味の論理計算をしてしまう羽目に陥るでしょう!
「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」に「私が買わないならば素晴らしい製品だ」では「素晴らしい製品なんて良過ぎる」という強い拒絶のために必要な謙虚さが抜けてしまっています、すなわち皮肉という形で言い返した本人が虚栄心そのものになっているから、だから論理計算からは「主婦はその製品を買う」という結論が出てしまう。人間心理の妙と論理学の結末というのは無関係ではありえないらしいということになって、どうりでどちらも文系の学問だと妙に納得したわけですよw)
教訓「買いたくなければ良過ぎると言え」ですねえ~・・、ええ!
前者を意訳すれば「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」とセールスマンが言ったということですが、それに対して後者は「私が買わないならばその製品は素晴らしいでしょう」と皮肉を述べたことになるはずですが、
ところがどうして駄目なのか?
手っ取り早く対応した客の言葉を対偶にしてみたらどうだろうか、すると(¬B⇒A)の対偶は(¬A⇒B)ですから「その製品が素晴らしくないならば私は買うでしょう」と言ったことになります、ものの見事に「その製品が良かろうと悪しかろうと買います」と言ったことですよね、だから皮肉のつもりで言った言葉が相手の十分条件に関する議論に終わっておればまったく無効だということが良く分かりますw)
その間の事情じみた物事を物理学者のウルフがいみじくも「お金とか食べ物とかいった物は必要な分だけあればそれで良い物」「それらに十文を求めるのは惨めさの根源」と述べていました・・。
おそらくウルフの本意は「何事によらず必要条件を求める考え方をすべきであって十分条件を求めるのは良くない」だったように存じました。ですから「製品のすばらしさ」を十分条件にして説いて回っているセールスを相手にした場合に、それを否定する文章にしたところで屁のツッパリにもならんわけですね。すなわちこの場合は必要条件の「製品を買う」という件に関して見解を述べなければ何にもならんわけです。「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」に対しては「その製品が素晴らしいならば私は買わない」で対処しなければいけません。そうした場合に途中計算は省略させていただきますけれども、論理計算は(A⇒B)∧(A⇒¬B)が¬Aと同値であることから「製品は大したことない」という意味だけが残るのです、十分条件の「この製品は素晴らしい」は両者に共通しているにもかかわらず!
いずれもアッと驚くような答えなのですけど、どうやら論理学はそうできているらしい、ひょっとしたら大脳言語も・・。
高尚な解決は以上のように必要条件と十分条件の重さの違いというようなことで解決するのですが、もう一つ人間心理の奥底に眠っている虚栄心の駆け引きの問題が出てくるとなお面白いですよ。「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」は客の虚栄心をくすぐった言い方です、それに対して「その製品が素晴らしいならば私は買いません」はくすぐられた虚栄心を打ち消す謙虚な言い方だと存じます。それはむしろ客の側からセールスマンの「そのような素晴らしい商品を自分は扱っている」という虚栄心を強化する言い方だと思うのです。虚栄心をくすぐられたセールスマンは哀れ「その製品は大したことない」という意味の論理計算をしてしまう羽目に陥るでしょう!
「この製品が素晴らしいならばあなたは買います」に「私が買わないならば素晴らしい製品だ」では「素晴らしい製品なんて良過ぎる」という強い拒絶のために必要な謙虚さが抜けてしまっています、すなわち皮肉という形で言い返した本人が虚栄心そのものになっているから、だから論理計算からは「主婦はその製品を買う」という結論が出てしまう。人間心理の妙と論理学の結末というのは無関係ではありえないらしいということになって、どうりでどちらも文系の学問だと妙に納得したわけですよw)
教訓「買いたくなければ良過ぎると言え」ですねえ~・・、ええ!