これからは、きれいでないものの描写もありますので、悪しからずm(_ _)m
5日の朝に目覚めて、「やばい!」と思いました。
上顎にねっとりしたものが一面に貼りついているのです。
これは出さないと、呼吸困難になる!と思いました。
幸い力を入れると、痰が出てきました。
透明でした。
20台と30台の頃、ひどい気管支炎をやりました。
その時は、咳の回数も半端ではなく、咳をする度に黄色いような
緑色のような痰がいっぱい出ていました。
ティッシュひと箱なんか、すぐになくなりました。
そこからだんだん身体が熱くなり、頭がぼ~っとしてきて、
38.6度までいきました。
その間、夫は保健所やあちこちに電話をしてくれていたのですが、
前と同じで通じず。
ならば、と救いの手をやっぱりK医院にお願いしました。
夕方の診察になるということで、連絡を待つことに。
連れて行ってくれるのは、息子(濃厚接触者ですが)。
ワクチン接種の時にもらっていた、カロナールを飲みました。
すると1時間半後に、37.6度に下がりました。
喉に痛みが出てきていましたが、なんとか頑張れば飲み込めました。
食欲もなく、寝ているしかない状態でした。
お茶や、OS-1を交互に飲んでいました。
「7時半に来てください」と電話がきたのが、6時頃でした。
「駐車場に着いたら、携帯で電話をください」
「看護師が行って、問診票を書いてもらい、あとのことを言います」
「あの階段を2階まで上がって、右の白いドアを押して入ってください」
ここで行きすぎてしまった💦
もう一回降りて、それらしきドアを押すと、廊下があり、左手が明るい。
恐る恐る進んでいき、覗いてみると、奥の方に防護服を着た医師が
座っておられて、こちらへと手招きをされた。
「マスクをずらして、鼻だけ出してください」
「5秒ほど、我慢して」
長い綿棒で、鼻の奥をぐりぐりと・・・
「向こうの椅子で待ってください」と、入口近くの椅子を指さされた。
医師は、検査をされていた。
2分もたたないうちに、「陽性です」と言われて、手招きをされる。
検査の結果を見せてくださった。
くっきりと二本の線が見えていた。
「解熱薬と咳止めを出しますので、向こうで待ってください」
と、また椅子のところへ。
看護師さんは、そばにいなくて、医師は胸元の小さなマイクに向かって
話していた。「●●さん、+」「なんとかと、なんとかの薬を」
10分ほど待ったかな?
防護服を着た看護師さんが、薬と明細表とお釣りを用意して現れた。
夫と同じ、咳止めと解熱剤。
1730円だったっけ?
漸く家に帰り、倒れ込むように寝ました。
きょうの潮流(6日付け)
「あの子は、77年前の私です。生きとりました」。原爆が落とされた直後の広島を記録したフィルム。そこに兄に背
負われ、頭から左ほおにかけて包帯を巻いた3歳の子が映っていました。
▼今年80歳になる竹本秀雄さんです。あの日、爆心地から1キロの自宅で被爆。家の下敷きになっていたところを兄に
助けられ病院での治療の行き帰りに撮られたものとみられます。一命はとりとめたものの左ほおの傷は骨がみえるほど深
く、傷痕はケロイドに。
▼姉の一人は全身に大やけどを負い亡くなりました。被爆した家族はその後も苦しくつらい生活が続き、いまわしい過去
は封印してきました。「あまりにも起きたことが大きすぎて…」
▼先月10日、東広島で開かれた原爆展。竹本さんは初めて公の場で自身の被爆体験を明かしました。涙でつまりながら
の77年越しの告白。「やっと呪縛が解け、肩の荷がおりた感じです」
▼これまで口を閉ざしてきた被爆の人生。開かせたのは、核兵器をなくそうと運動する身近な友人たちの励ましと、ロシ
アによるウクライナ侵略でした。「やっぱり戦争はいけない。泣くのは市民です。あのときの恐怖がよみがえるいま、こ
れからも証言を続けていこうと心に決めています」
▼核なき世界の道を切り開いてきた被爆者たちの訴え。それを伝え語り継いでいくことは、ますます重要に。竹本さん
は、未来を生きる子どもたちに語りかけます。「やさしい人になってください」。それが戦争をなくす礎になることを願
って。
(しんぶん赤旗より)