自分がいつも聴いている言葉が、理不尽な言葉で、私がバカで無能な人間なのに、面倒を見てくれてるオレ様に対する感謝が足りなくて、私のための言葉が悲しく聞こえたり辛くて泣いてしまう自分がもう何十年もいた。無能な私を少しでも世間の一般になるようにと注意してくれていたと思っていた。だからお友達に会うのも恥ずかしいような人間でなくなるまで我慢させたり、姑小姑の問題も私が悪いから義父も義母もあんなに必死に怒鳴りまでして、我が子のようにと都会っ子の私に田舎の風習を教え込もうと毎日毎日監視しながら注意してくれているのだと思い、感謝しなくては行けないと思っても感謝できない自分の心の狭さや人間性の酷さを痛感していた。だからいつもどんなことがあっても、朝の挨拶だけはきちんとしたし、病気だといえばすぐに様子を見に行って看病もしてきた。息子はしなくても、嫁の仕事だろ?オレは外でお前らの為に稼ぐ。お前はこの家を守ってオレが安心して働けるようにするのが仕事といわれ、義父母に頼まれた事は全てこなしてきたし、もちろん無償で…おかずとかお礼のつもりでいつもくれてたけどそんなことなくても、言われたこと頼まれたことはみんなきちんとこなしてきた。近所の人は義父母の知り合いばかりだから、外を歩いていても買い物していても、あれ?って感じで顔を見られたり、向こうが気が付かなくても見たことのある義父母の知り合いには、こちらから挨拶して声をかけてきた。「これやっておいて」と言われたら、自分のパートを休んででもオレ様も頼みを優先してきた。忘れ物したといえば会社の近くまで届けに行ってきたり、ご飯のおかずが気分じゃないといえば、すぐに作り直すし、途中から追加で足りないからと作り足すこともした。それが真夜中すぎだとしても言う通りに。私の考えで動くとろくな事にはならないと、行動の制限も仕方ないと思い、お風呂に入る時間まで『今入っていいか?』『今日はもう寝てもいいか?』と聞いてきた。気分が…なんて関係ない夜の時間。呼ばれたらただそこにいると言うだけで…暗闇にぼんやり見える天井をただじっと見ている。「すごく綺麗だ」とか「いい体だ」とかそんな言葉も喜ばれているのかどうかも興味もないし、特になんとも感じなかった。ただの声に一つにしか聞こえなくて、誉められる言葉はウソだと思うようになっていた。抱かれても特に幸せが感じられなくなったのは、もう18年以上前だと思う。それでもどうしても後継という言葉が追いかけてくる。こればかりは授かりものでどうにもならない。確率を上げる研究をするように促され、できるだけ少ない回数で男子を…と試みる事にした。すぐに赤ちゃんがやってきた。結婚している以上はオレ様にお願いしないと赤ちゃんができないのがなんだか悔しかった。けれどその子は私の中で動かなくなった。痛みも何もなかった。何も変わらない妊婦状態なのに私の赤ちゃんの心臓は動いていなかった。1週間確認したけど、やっぱり…と中絶の手術を受けた。目が覚めてそこにオレ様がいた。そのときの言葉は今も忘れない。優しそうに聞こえて悲しい言葉。「大丈夫?手術は無事に終わったって先生が言ってたよ。やっぱり無理あったんだな。赤ちゃん死んできっと生まれてきたくなかったんだよ。だから気にするな。お前の体がもう歳だから仕方ないよ」っていう自分は私より3歳年上…退院して家に帰れば義母からは「あ〜ぁね40過ぎたら子供なんて無理なんだからやめとけばいいんだよ」義父からは「しょっちゅしてればね、また子供なんかねできるんだからいいんだよ」という退院の言葉。理解不能なのは私がバカなんだと思っていた。その子は信頼している方に見てもらったら女の子だったらしい。望まれていないと察してしまったのか?あれだけ義父母と父親に男だろ?と言われ続けたら出てきにくいよな。次の名前もなぜか決められていた。長女お腹にいる時に考えていた男の名前らしい。理由は受精異常ということで成長が止まって今ったらしい。お医者さまのいうことを信じておく。それからまだ体が戻ってないのに、やはり後継者がちらほらと間に合わないとか、あの嫁じゃ無理とか話しているのを聞いた。だから若い嫁にしなって言ったのになんて…カチンとも来ない。ただ自分を責めるようになった。人殺しになった気がして眠れない日が続いた。私自身も男の子は欲しいなと思っていたので1回だけ試してみた。もしこの家に私をママと呼んでくれる男の子がいたらこのお腹にきてください!と願いながら……。長男は私に会いたいと思ってくれたのか?赤ちゃんがきた。妊婦になれば夜の時間は、あれこれ言われても断る。生まれてからも母乳がっていい断る。そのうちにオレ様がひと言「夜中に泣いたり昼間もすぐ泣くし全然休めない」と言い出した。オムツを変えてくれることすらほとんどなく、長女と次女と私で毎日お風呂に入れたりご飯をあげたり遊んだりってとにかく夢中で長男中心の生活をしていた。抱っこしていないと泣くのでおんぶだし、ミルクは飲まずの母乳一筋。それを理由に別の部屋で寝るようになった。しばらくは我慢していたんだと思うけど、また誘われることがあったけど、少しづつ逃げるように先に寝たり、長男と寝ると言うスタイルを取れるようになって逃げることもできるようになり、誘われても今日はやめておくと言えるだけの体調不良にもなった。そのうちに私が学校の役員になって目立つことや表に出ることを罵るようになった。外に出てできる人だと思われてると勘違いするなと。みんな都合よくお前に押し付けてるだけだぞ…やめろ。オレがやめろっていうんだからやめろ。お前みたいなバカじゃ皆様のご迷惑になるだろ?…確かにって思う私。ほとんど家族以外の人との接触をしていなかったのでなんだか新鮮だった。途中で役員を辞めるなんてかえって迷惑で会議のやり直しからなんて言い出せずにいたら…何かの話で障害者についてちょっと説明したら「詳しいな」という事になり、役員を続けて人脈と知識をつけてこいと言いだし、県知事くらいにはなれるんじゃないかと言い出す。理由は報酬…つまりお金。「いくらもらえるか知ってるか?」という感じで説明された。そしたらオレは運転手か秘書で給料もらうよと計画。絶対に嫌だ。そんなことをガハハと笑って話していたかと思うと、罵声に罵倒に物が飛んでくる我が家。三船美佳の離婚会見を見て、自分と同じすぎて初めて気がついた言葉モラルハラスメント。そのニュースを見ていて『似てない?』と尋ねたら「全然違う」と違いをトントンと説明された。3時間近く聞いているうちにほんとに違うような気がしてきてそんな言葉忘れてしまった。ある日、私の行動に腹を立てて飼い犬をブラシで殴ったことがあった。同時期に長男の性格でどうしてもできずに大衆の前でフリーズしてしまうという大失敗をした。自分がその父親であることが恥ずかしくて先に帰宅してしまい、家に帰る途端に大激怒に小さな長男を殴った。「なんだあのみっともない姿は!みんなに迷惑かけるなんて最低だ」と5歳の子が泣いて謝っているのに殴った上に蹴り飛ばして飛んだ。すぐに間に入った私に「お前が教育してこんな風になったんだ。全部お前のせいだ」と背中を思いきり蹴られて長男を抱きしめたまま、ソファの角にぶつかった。あとで肋骨が2本骨折2本ヒビと分かった。長男には何もなかったのでよかった。それでも怒りが治まらず何をはじめるのかと思ったら、当時仮面ライダーや戦隊にハマっていた私たちは玩具箱に変身ベルトや人形がそこにいて、戦いに駆り出されたり、時にはお風呂に友に、時には一緒にご飯食べたりと活躍していた。その玩具箱をデッキの向こうに向かってばら撒き始めた。「これはお前への罰だからよく見ておけ」と全部おもちゃをばら撒いて外に出ていくと「おい!ゴミ袋持ってこい」と。外に行くと手には大きなハンマーとトンカチを両手で振り上げていた。「お前のせいで(長男の名前)がこんな男に成り下がって大事なものを目の前で失うんだ。よく見ておけ!お前のせいだからな!お前に捨てろって言ってもまた拾って返すだろ?だからこうするんだよ。甘いんだよテメェは」そう言って次々と変身ベルトや合体ロボなど正義のヒーローたちもプリキュアもみんな粉々に何度も何度も叩いて壊して行った。その姿は猟奇的で単に怒りが押さえ切れないだけの八つ当たりにしか見えなかった。『やめて』と泣いて土下座しても「てめぇのはどうせ演技で気持ちがこもってない」と土下座の頭を上から押さえつけられ、これくらいしないとなって小声で囁かれておでこにジャリジャリおもちゃの破片が擦れて少しだけ血が滲んだ。破片は私を何度も直撃して小さなアザや切り傷になった。刺さっている破片もあとで刺抜きで自分で抜いた。全部終わると、「後片付けしておけ」と家に入って行き、私は気がついたら裸足で出てきていたみたいで、家の中からは「泥が入らないように拾えよ。できるだろ?それくらい…早くやれよ。腹減ってんだからな」理由の説明はできなかったけど、涙がとにかくポロポロ流れてきて拾いにくくした。オレ様は人殺しに見えた瞬間で、殺意さえ感じた瞬間だった。おもちゃを壊しながら言っていた子供たちの悪口や実家の悪口に私の至らないこと、自分の頑張りをどれだけ無駄にされているかという言葉は今も忘れない。ずっと忘れない。離婚…そんな言葉が浮かんだ。私は無一文だからここをでたら行くところがないとずっと言われってきたし、私のような人間と暮らしてくれるような慈悲深い人間がこの世に何にもいないと心から愛しているんだぞと言われ続け分からなくなっていた。そんなことがあっても日常から逃れられず、私はどんどん自分の価値がどん底以下になっていった。それを助けてくれ子供たちにご飯を買ってあげられる事に感謝こそしていた。6年前だったかな?初めて他人に自分のことを話してしまった。お酒の勢いと子供の頃からのお友達だったから嘘もつけずに、本当のことを話した。また耳にしたのがモラルハラスメント。忘れていた言葉。それから教えてもらった言葉が洗脳。本物の正義の味方は、ここからの脱出を薦めてくれた。計画を立てたのに、私が早く逃げたくてつい暴走してしまい失敗に終わった。1年くらいの悪あがきでもここからは逃げられなかった。しばらくは心のない生活をしていた。どこかに出かけるようなこともなく、ただオレ様王国の中で淡々と暮らす?生かされている。子供たちを連れて死のうと考えたこともあった。ここで死ぬのならこのまま逃げてしまえるのでは?と考えて留まる。「お前がいなければ俺たち家族の人生は幸せそのものなのにお前がみんなダメにする」と言われたのはどうしても生活費が足りなくて、通帳がマイナスになっているのを怒って私に言った言葉。それならって…1人夜中に家を出て、ポツリポツリの家の明かりをみていたら、なんか空が飛べる気がして全力疾走してジャンプしたけど4階の高さなのにアザとねんざで骨も折れていない。救急車で運ばれたけど3時間くらい治療して帰宅していいと1人で電車に乗って帰ってきた。こんな時に帰る場所も、全部話して相談できるお友達もいなかった。お友達となんてほとんど誰とも連絡を取っていなかった。でもまたチャンスをと…今度はきちんと勉強して計画を立てて…と思った。そんな時に私が階段から落ちて大怪我したりカオちゃんのがんを和足が発見して病院へ連れていったり、大人になってからこんなに信頼できる人はいないかな?って心友ができた。かおちゃんのおかげで前向きに離婚計画を立てる事にした。私が離婚したらかおちゃんも離婚して一緒に暮らす事にしようと計画していました。その時に決めた決別の日…Xデーを3年後に決めた。ちょうど結婚25周年の銀婚式にあたる日に離婚届を出せるようにしたいと考えました。実際の行動よりもまずは勉強から。【モラルハラスメント】に関する本を何冊も読んだ。加害者と被害者とどちらも理解できるように読みまくった本は18冊。それから【離婚】に関する本もいろんな見解の本、子連れ離婚、女に有利な離婚、離婚のお金、本当に離婚か?、子供への離婚の伝え方、離婚が人生を変える、離婚の手順、とにかく読みやすそうな分かりやすそうな本を読みまくった。こっちは26冊。書き込み式の本もあり、本当に離婚しかないのか?と考えるような本も読み、子供たちのためには両親揃っている方がいいんじゃないかという昭和チックな考えが過ぎることもあった。お金の件もよぎりまくる。まずは離婚後の生活設計をかおちゃんと立てていく。でもどんどんとかおちゃんのガンは悪化していく。転移していく。弱ってしまったかおちゃんはLINEも辛そうで逝ってしまった。ポッカリ穴が開くってこんな感じでオレ様の言葉に涙すら出ない。感情が動かない感じ。お正月にくれた‘ラブレターLINE‘がまともに話した最期でお空の上の綺麗なところへ逝ってしまった。私の体調もその頃からただただ悪化していく。難病だとか膠原病だとかいろんなことで調べたけれど原因不明の痛み…つまりは緩和ケアーしかない。いろんなお薬の効き目を試したり、新しい症状があれば思い当たる病気の検査、それでもわからないから怠け病サボり病とオレ様が名付けた。その頃母が倒れ、父が倒れ、介護をしない兄貴夫婦に変わりここで介護生活が始まった。大したことではないけど食事と洗濯くらい。オレ様王国で父も母も住まわせてくれた事にはオレ様には本当に感謝している。その時の言葉には尊敬すら感じました。だからといって変わるわけではない言葉と物に当たる怒り。離婚の本を読みあさって計画を立て始めた時に、ASLの疑いが出てきて半年かけて調べる事になった。結果は陰性で私はだんだん動けなくなり、最後には心臓も止まってしまう不治の病ではないとわかった。離婚は私1人ではないから、子供たちのことも考えて、この体の不緒をとにかく調べる事にした。もし、短命な病気なら離婚は諦めなければならない。大学生に障害のある高校生に問題児の小学生を残して行くわけにもいかず、ましてや両親をここにおいては死ねないから。もし私がいなくなるならって仮説が老衰ではなく病気の場合を調べた。1年かけて、内科・消化器内科・循環器内科・整形外科・脳神経外科・神経内科・眼科・歯科・血管外科・血管内科・皮膚科・精神科・癌センター・PET検査にいろんなところに出かけて行った。ネットで調べて有名だと知ればそこへ行って針でもお灸でも試したし…でもわからなかった。この体ではまともに働けない。それに50歳過ぎている。こんなことはあり得ない気がした。未病…謎の病気。ただ心が壊れている事だけははっきりとわかった。鬱の傾向があると…。それにあの事件のPTSDと強迫症と…要するにここにいたら精神崩壊の日が近いという先生。気の合う先生を探していくつかメンタルクリニックを探して相談。とりあえず怒鳴られたりした時に冷静に判断できるようにとお薬を処方、音にビクビクしながら寝るのではなく、よく眠れるようにしてと処方。よし!と決断したら今度は私にやってきたガンの疑い…どうなっているのか?いろんなことがあり過ぎて心が傷だらけになっているけれど、この時間は無駄じゃなかった。バカだと言われ続けて、無能と言われ続けて、自分を使うことを自然と辞めていたけど、私の頭がフル稼働し始めた。この7ヶ月、ここまでに詰め込んだ知識とかおちゃんと話した理想を形にするための方法が、どんどん溢れてくる感じ。だからもうブレることもない。この7ヶ月は全く気持ちにブレがない。それにしっかりと自分の現状を見れるようにもなって来た。やはり何年も前に思ったXデーは間違えではなかったんだな。6月は勝負だと思っている。毎週末に話をするという形を取るつもりでいる。少しづつだけど…きれいに終わってくれたら、嫌いな人とかそんな感情ではなく、父親であるということで真摯に対応して良い関係になれる様にしたいと思う。それすらできないようならば父親でなくていい。今まで私たちにしてきたのと同じ思いのまま、お金だけの関係で行こう。離婚協議書通りにきっちりの関係にするまで。犯罪の域へ、また110番へ電話するような事になるのならば、長男の願い【転校したくない】と次女の【通所先探しの問題】は諦めてもらって見知らぬ土地で暮らそうかな?って事になる。その場所も考えている。まずは6月を‼️
1,5月23日のことについて話す→今までの八つ当たりについても話す→考える時間が欲しいという
2,少し顔を合わせずに暮らしてみないか?と提案→週末は長女の家
3,秘策を‼️←プロポーズの逆攻め=離婚協議書の原案を簡易形式で渡す
4,簡易形式の原案をきちんと書き直すための話し合い
5,離婚届にサイン=離婚協議書を交わして公正証書にしてもらう
うまくいかないことも想定済み…だいたいわかってるけど…まずは落ち着いて来週末の帰宅を阻止したい。ここからは相手の雰囲気を見ながら調節していく。でも平日の連絡がだんだんと普通になってきているので、私自身の対応はブレなく、丁寧語で対応していく。想定内に暴れて絵くれる分には問題ない。全て録音とできたら隠しカメラも用意して残しておきたいと思う。自分の今まで25年が普通だと思って感謝こそして申し訳ないとすら思ってずっと生きてきた。「てめえみたいなやつでも死んだら葬式しなくても火葬したりそれなりには金がかかるわけ。余計な出費が最後までかさむだろ」それは申し訳ないと死亡保険の金額をあげたりするわけで…そんな惨めな生き方をわからせてやる。向こうにも言い分はあると思う。愛してるからとか、オレが嫌いだとわかってることをするからとか、どこが間違ってるとか、多分お大声で怒鳴りつけてくると思うけど…関係ない。ガンの疑いの時の意見にその謝罪の言葉。あれが私の地雷だった。爆発はもう止められない。
神様がもしいるなら私にパワーを分けてください。絶対に負けないように、私にみんなの1番得意な力を貸してください。私に笑顔を返してください。無鉄砲かもしてないし、無茶苦茶かも知れないけど、Xデーには笑い合って握手できるように。一度は私が「結婚したら楽しいかも」と思った人です。最期に裏切らないで欲しい。少し汚いやり方だけど、力じゃ勝てないし、私以外への危害は避けたいからこの方法が1番いいと思うの。私のことが神様から見えていたら、お力をお貸しください。私が倒れないように支えてくれるだけでもいいから。笑顔で生きてみたい。家じゃない他の景色も見てみたい。もっといろんなものを子供たちに見せてあげたい。わがままを許してくれるなら助けてください。お願いします。
色んな問題が沢山あると思います。
でもずっと我慢してきたのだから
自分の事だけ考えて進んで下さい。
Xデー必ず行けますよ。
私もパワー送ります!!
その後の不安より俺様から逃げられる
安心の方を私は願います。
絶対にムダにしないようにします。
ありがとうございます。
今は『なんとかなるさ』でいかないと。