gooブログはじめました!

出雲は神在月

今年は9月にも最近の年と異なり、残暑の厳しさもそれほどではなく、いよいよ新暦の10月に入りました。二十四節気の「寒露(かんろ)」も来週末辺り、鳴く虫の音も賑やかに秋の気配が深くなっています。

 

実際には旧暦の十月の呼び方ですが、神無月という風流な呼び名の月でございます。

通説には日本中の八百万の神々が、この月に出雲大社にお集まりになるために、神様が不在になることから呼ばれたということです。

他にも伊弉諾の命が亡くなった月であるという説や、無を「の」と読み神の月であるという説。

実際には翌月の新嘗祭のための新酒を醸造しだす月、すなわち醸成(かもなし)月(つき)というのが有力なようです。(出典「旧暦で読み解く日本の習わし」大谷光男監修)

 

通説に従いますと、出雲には八百万(やおよろず)の神様が集まりますので、ここだけは「神(かみ)在(あり)月(づき)」となるわけです。

で、出雲。出雲大社は当然出雲一の宮、国譲りの大国主神(大穴持(おおなむちの)命(みこと))が祭神で古代には杵築大社と呼ばれ、明治4年に現称の「出雲大社」改称とされました。

代々出雲国造家(古代出雲の支配者である出雲氏の直系)が宮司を務め、現代は84代千家尊祐氏でありまして、高円宮典子女王がお嫁ぎになった千家家のご当主であります。

 

千家というと、千利休に発するお茶の宗匠家を思い起こしますが、利休の本姓は田中であり、安房の豪族里見氏の一族から発生致しましたので、出雲の千家さんはもっと古い。

 

出雲国造家なのに、なぜ千家などとお茶の家柄のような苗字であるかですが、丁度南北朝時代に54代当主国造孝時にその子息3兄弟があり、当主が贔屓の末子六郎を継がせようとしましたが、当主の母の意向で病弱な長兄三郎を当主としました。しかしながら、やはり病弱で代官として五郎に職務を任せ、そのまま国造職を五郎に譲ることとしました。

それに六郎は猛烈に反発し軍勢を集め紛争状態に陥りました。当時の守護代の仲介により神事などを等分することで和解し、五郎は千家氏、六郎は北島氏と称して並立して明治に至ります。

 

明治になって千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教とそれぞれ宗教法人を主宰して別れ、出雲大社の宮司は千家氏が担うことになりました。

 

私事ではございますが、わたくしの行きつけの新橋のお店でたまにご一緒する、音楽教師がこの北島さんの一族で、非常に穏やかな紳士でございます。

 

もう7~8年ほど前に家族旅行で出雲大社をお参りし、この北島家の出雲教(大社本殿に向かって右)の神社にもお参りしましたが、御庭の中に瀧がある素晴らしい景観でありました。

 

さて、この神々の出雲出張ですが、どうも中世に出雲辺りから流布した伝説のようです。そしてこの時期に出雲にいらっしゃらない神様もいらっしゃる。有名どころでは鹿島の建御雷尊。こちらは不在時に地震を起こす大鯰を鎮めているために、いらっしゃらないとも。

大国主尊の子息で建御雷神に負けて国譲りを認め、諏訪に逃げたとされる建御名方命も行かないと、諏訪神社で伺ったことがあります。これは建御雷に負けた時に追い詰められ、この地からでないことを約束されたからとされます。

 

もう一つのグループは留守神と言われる神々です。理由は神々が留守にされる不安に対応するためで、恵比寿さん、金毘羅神、竈神、道祖神などです。どうも恵比寿さんは元々古事記に現れる蛭子と同一視され、足が弱いということも理由かもしれません。

 

草刈の大宮姫命さまは、当然お出かけになります。そのお出かけとお帰りを氏子さんたちは、直会をして、送り出しとお出迎えを毎年欠かさないようです。

 

では、国譲りの一方の主役である天照大御神などの天津神は?

基本的には出雲に集まるのは国譲りをしたほうの国つ神が主体ではないかともいわれています。神々が集まるのは人々の縁に関わる会議とされています。特に男女の縁。神様にとっては神をあがめる人々の増加が自身のパワーの源であり、子孫繁栄は重要な議題なのかもしれませんね。

 

國學院大學の博物館では、この時の出雲大社の神迎えの儀式をVTRで鑑賞することができます。暗闇の中を海岸に出迎える儀式は一見の価値がございました。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る