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江戸時代から明治になり無くなった職業②

次のお題は「ぼてふり」。実は子供の頃にもいたような記憶があるのです。金魚売とか、豆腐屋とか。漢字で書くと棒手売りとか、棒手振り。すなわちざる・木桶・木箱・かごなどを前後に付けた天秤棒を、振り分けに担いで商品や、サービスを売り歩く商売でございます。昨今はキッチンカーや、軽四に積んで過疎地を回る出張販売という向きもありますが、江戸時代の大都市の街中はこれでほとんどの日常の消費が賄われていたといっても過言ではありません。

特にお江戸ではあらゆるものやサービスが、街中のどちらかといえば低所得層を中心に、この棒手振りにより賄われていたようです。元々江戸は幕府が徳川家の開府により計画的に造成された、首都でございます。幕臣に加え参勤交代や大名屋敷に常駐する、生産を全くしない武士の食料や消費物資を供給する必要がありました。加えて埋め立て地などの造成や、頻繁に起こる大火の復興作業にやってきた、人足たちがそのまま住み着くなど、町人50万人と武士、僧侶などで合計で当時では100万を超す世界一の人口の都市となります。

棒手振りにも実は免許めいたものがございます。一応幕府としては、棒手振り開業の許可を50歳以上の高齢者か、15歳以下の若年者及び身体の不自由なものに与えることを、社会的弱者対策として触書を出していますが、果たして守られていたかは疑問です。現代も残る屋台も一種の棒手振りに近いものと考えても良いかもしれません。

まず食品としては、魚やシジミ、浅利売りといった生鮮食品。菜っ葉や大根等の野菜。加工品では豆腐、油揚げ、干し魚、納豆に白玉団子や甘酒といった嗜好品。寿司にてんぷらや蕎麦は屋台風かも。中にはもモモンジ屋と呼ばれる獣の肉を売る商売(多分これは店売りが多かったと思いますが)
日用品ではほうき、花、風鈴、もぐさ、暦、桶や植木に蚊帳、草履等々。更に金魚に松虫や鈴虫に錦鯉といった愛玩用の生き物。

そして最後にサービス業も売り歩いていたというから驚きです。直し系では眼鏡、破れ鍋、下駄の歯に割れた陶器、羽織の組みひもの修繕にそろばんや、行灯(あんどん)と提灯に笠といった日用品の修理。面白いのがラウ屋。これは煙草を喫うキセルを蒸気で洗浄するという仕事です。これは戦前まで残っていたと、聞いたことがあります。医療系では座頭市でお馴染みのあんまに、夏にのみ定斎を売り歩く定斎屋。これは夏バテ防止の薬を薬ダンスに振り分けて売り歩く、薬屋です。効用を宣伝するために真夏でも笠もつけずに、薬箱のわっかをカタカタと鳴らしながら売り歩く。まあ現代の気温よりも江戸時代は平均気温で数度以上も低かったとはいえ、真夏限定のかなり厳しい商売です。この定斎屋を主人公にしたのが、山本一力氏の「深川黄表紙掛取り帳」というシリーズの小説で、ご興味のある向きはご一読下さいませ。

更に貸本屋もサービス業の一つでしょうね。江戸時代は書物は非常に高い。そして文化文政という町民文化最盛期(田沼意次の重商政策にもより)には、山東京伝、十返舎一九、曲亭馬琴等によるたくさんのベストセラーが出た時期です。これらの読み本を主体に、お得意さんに貸し出すのが商売です。

逆に売るわけではなく、買取も商売になったようです。今でも棒手振りではございませんが、需要のある鉄くずなどの金属類や、古着。古傘、竈の灰に、流れ落ちたろうそくの滓。勿論紙は現在でも再生の大きな対象です。ろうそくの滓などは集めてろうそくに再生しますが、竈(かまど)の灰(木灰)は畠の肥料として使われます。古傘については骨組みは再生品として使いますが、柿渋や油を塗って水を弾く紙の部分は魚の包み紙や、モモンジ屋で肉を包むのに使われたようです。昨今流行りのサスティナブルな資源回収というところです。こちらは明治になっても大分遅くまで、業種によりますが生き残っています。勿論工業化や商業の発達により、戦後しばらくするとほとんど無くなって参ります。

ただ、焼き芋はどうやら無かったかもしれません。現在の派出所や交番にあたる、番屋とか、橋守とか木戸の番人をしていたり、長屋の番人などの商売として成り立っていたらしく、振りの焼き芋屋は流していなかったと、どこかで読んだ気がします。現在では軽トラに窯をしつらえて売り歩いています。私、初めて東京に来た時に、大きな声で「焼き芋、石焼き芋、ホッカホカ」と大きな声で売り歩く、リヤカーの焼き芋屋を見て、びっくりした思い出があります。田舎(北海道)では普通に、ピーと鳴る音だけでしたので。

次は水売り。2種類ございます。砂糖水を売る水売り屋は「ひゃっこい、ひゃっこい」と呼びながら砂糖を溶かした水や、白玉入りの水(井戸から汲んだばかりの冷水)を夏限定で売り歩いたようです。もう一つが深川の飲料水売り。深川に代表される大川(隅田川)東岸は埋立地でございまして、いくら深く井戸を掘っても海水とは申しませんが、塩味の水しか出なかった。対して西岸は幕府が江戸時代初期に神田上水と、玉川上水という上水道を整備しており、それなりにふんだんに水を上水として使用できたそうです。

それで深川には飲料や料理用に真水を売る、水売りという商売が成立していたのでございます。この水はもともと上水道からのあまり水で、それを専用の水船に汲みおき、大川を渡って桟橋に付けて桶に入れて、売り歩くわけです。水船の大きさは大小ありますが、例えば50荷だと2250ℓ。1荷は約45ℓでこれを二つの桶に振り分けて担ぎ売る。普通の暮らしで親子4人程度が使用する飲料や煮炊きにほぼ2日分に必要な量ということです。70荷だとすれば、1日70軒の家に歩いて売り歩くという、過酷でしかも必要な商売ですね。値段は幕末の物価高騰期を除けば、1荷80~100文程度といわれています。月にすれば二日に1荷として15荷、価格では1500文。対して上水道の代金は少し大きな想定ですが、例えば三井の越後屋などは間口の大きさで決められていたようで、30間で月当たり銀で300匁、これは金貨では小判で5両でした。奉公人が300人とすれば、もしこれを水売りから購入した場合は2日で75荷7貫500文となり、月当たり小判では28両にもなるわけです。深川で商売をするというのは、これだけでも大変だったのでしょうね。
こちらの商売は明治になって都市化が進み上水道が発達して、無くなりました。

最後は両替商でございます。
江戸時代の貨幣は金・銀・銅の3種類で構成されていました。徳川幕府すなわち家康は慶長5年(1600年)関ケ原で勝利し全国統一の最初の一歩として、貨幣制度を整備します。具体的には翌1601年に金座(後藤家)と銀座を設立し、慶長小判、慶長丁銀の鋳造が命じられました。当時は銭はまだ輸入銭である永楽通宝が、国産の京銭よりも良質で流通されていました。そこで1609年にこの三貨の公定相場(御定相場)としては、金1両=銀50匁=永楽銭1000文(1貫文)=京銭4貫文とされました。

実際に永楽銭を駆逐する寛永通宝が彫像されたのは、寛永13年(1636年)の三代将軍家光の時代でございます。豊臣秀次により再生された、方広寺の大仏の銅を鋳つぶしてとの伝説も残っております。柳生十兵衛などが活躍した時代といえば、少し身近でしょうか?

これにより3貨が制度的に確立しますが、金が1両小判1枚に対して、大阪での取引の主流である銀の単位は匁と呼ばれる重量でありまして、一般の取引では市場経済による変動相場で取引されるのが実態でございました。この三種類の貨幣を円滑に流通させるために手数料を取って(切賃:きりちんと呼ばれた)両替するのが、両替商という生業です。

両替商のもう一つの役割が手形の発行と、貨幣の預かりすなわち貯金でございます。なんせ重い。現代でも紙幣がそこそこあるとめちゃくちゃ重いのですが、当時の貨幣は金属ですから、もっと重いわけです。この金貨を例えば大量の米の代金として大阪に現物で運ぶと、大変な重量となり当然強盗もいる訳ですから、ボディガードならぬ護衛もそれなりに必要です。そこで本両替などという大店は現金の代わりとなる手形を発行して、遠方の流通の利便性を高めました。これは商店同士の取引にも使用されました。また大店には現金ではいってくる貨幣の保管も大変で、これを預けておく金蔵としての役割も両替商の重要なものとなりました。現代と異なるのは預かるのは有料ということです。預かり代は例えば100両につき5分。年間で5両の預かり金となりますので、1万両では500両となります。これで盗賊に対する備えにもなり、手形で取引もできるとなれば、非常に便利な商売ということになります。

さて、この両替商ですが、大手の三井とか住友、鴻池などは維新後にほぼ銀行となって現在にも続いているのが、札差とは異なるところではございます。
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