明治維新から数えて今年はおよそ150年目となります。無論平安から鎌倉、更に室町時代から戦国時代を経て近世の経済統一から江戸時代と、それぞれで経済環境は大きく変化していますが、今回は江戸から明治の大転換期で大きく変わった、経済・流通についてひとくさり。勿論武士という職業も無くなったわけですが、本来は職業軍人を指す言葉でもございますので、階級としての武士階級は無くなっても、軍人はいまだに残っています。
今回はどちらかといえば、商業や職人に関わる職業で、消えてしまったものを、集めてみました。
まずは「札差」という商売。
太閤検地から江戸幕府による平和と統一により、全国の土地のコメの取れ高の統制と度量衡の統一。更に貨幣の統一がなされ全国規模で経済が統制されます。江戸という新たな都(首都機能という意味で)の開発や、各大名領の新田開発と河川の水利工事という土木工事が盛んにおこなわれ、鉄製品の増産も寄与して食糧生産の増大により人口も増え、金銀銅を主体とした、大量の輸出という貿易はあるものの、大体国内でクローズしていたミクロ経済ではありますので、江戸時代は通期で人口は3500万人程度で安定してまいります。
通貨として金・銀・銅銭が統一通貨として経済が全国規模で回りますが、軍人でありサラリーマンである武士階級の給与は米として、いわば米本位制ともいうべき、体制が整えられておよそ280年の安定(むろん自然災害や、疫病に左右されますが)した時代です。
江戸時代と言いましても、初期、中期、幕末と世相も経済状況や政策も変動がございますので、細かく言い出すとキリがございませんが。
江戸時代の大名、旗本、扶持米取りである御家人、大名・旗本の家来(陪臣)、基本一代限りの御雇いである与力・同心などと武士も様々でございまして、大名や旗本(俸禄米取)の収入は米の取れ高である石で、領地として示されます。大名と旗本は将軍の直臣であり、石で示されるコメの生産高に応じた、土地を将軍家から預けられて、その生産高から税として一定の割合を徴収して、行政費とするわけです。
江戸初期には四公六民などと申しまして、4割が徴収されました。幕府の直轄領は最後までこの歩合を守られていたようですが、各大名家は次第に財政難から5割以上の徴収となり、しまいには上米(あげまい)などと称して、家臣への扶持を借りるという形で、削っていったりとアコギなことをしていきます。
大名と旗本の違いは1万石以上と、未満ということですが、基本的に軍隊維持が前提となりますから、この差は家臣(騎馬武者何人、鉄砲・槍何人と)の数や、武器をそろえるところで、大きく異なります。また、旗本は運が良ければ家格に従って、エリート官僚である各種奉行への任命等はありますが、大名になるとその任務は異なり、老中・若年寄などそれなりに将軍や幕閣の覚えが良くなければ、たとえ譜代大名であったも、任官できない仕組みとなります。唯一寺社奉行のみは大名でなければ任官できません。大岡越前は北町奉行から寺社奉行となり、加増されて大名になりました。まあ、結構江戸城内で詰めの間が無いなどと、任官後に周りの同僚の寺社奉行大名連中から意地悪をされたとの記録も残っています。
大名と旗本の違いは1万石以上と、未満ということですが、基本的に軍隊維持が前提となりますから、この差は家臣(騎馬武者何人、鉄砲・槍何人と)の数や、武器をそろえるところで、大きく異なります。また、旗本は運が良ければ家格に従って、エリート官僚である各種奉行への任命等はありますが、大名になるとその任務は異なり、老中・若年寄などそれなりに将軍や幕閣の覚えが良くなければ、たとえ譜代大名であったも、任官できない仕組みとなります。唯一寺社奉行のみは大名でなければ任官できません。大岡越前は北町奉行から寺社奉行となり、加増されて大名になりました。まあ、結構江戸城内で詰めの間が無いなどと、任官後に周りの同僚の寺社奉行大名連中から意地悪をされたとの記録も残っています。
米の1石とは10斗で100升、1,000合という体積となります。因みに1俵は4斗で40升でございます。すなわち1石は2.5俵となります。籾米なのか、玄米での支給なのか少し曖昧ですが、現在は田の取れ高としては玄米が標準の様です。段階としては稲刈り直後の籾米を乾燥(水分20%から15%程度)すると96%となり、脱穀して(結構この辺りは年や気候により差がありそうです。)約80~85%の玄米となり、その後精米されてその90%程度が通常ご飯として食する、白米となります。すなわち籾米の72%程度が白米となるわけです。おそらく石高や、扶持米は玄米であったと推定します。
俸給である扶持米や取れ高としての石高に対する公定価格は、江戸時代を通じて、玄米1石1両となっています。無論公定価格でございまして、出来高や飢饉により、また商人の投機目的などもあり、実際の米価は変動致しました。前出の大岡越前なども江戸町奉行時代はこれに相当苦労しています。米価については別の機会に。
徳川家の直轄領地は400万石とされていまして、この中からいわゆる旗本5205家と御家人17399家(1722年頃)に給与を支給しなくてはなりません。無論実収は4割ですから160万石程度。公定価格で160万両ですね。1両が現在の価値として幾らになるかは、かなり難しい問題で、対象とする品物や人件費で随分価値も変わってまいります。およそ10万~20万円の間というところでしょうか。
ところで、直参旗本連中は石高に応じて軍人としての家来を抱えなくてはならず、例えば100石なら2名。500石なら11人、1000石ならなんと21人の軍備としての人を抱える必要があるわけです。人数だけではなく馬、鉄砲、槍といった武具も規定がございます。これらに加えて、奥向きの女中や、下男、中間といった人数もそろえる必要がありますので、人件費だけでも相当な物入りですね。
さて、米で俸給を受け取りますが、主食の米を除けば米以外のものの全ては、直接米で買う訳には参りません。貨幣に替える必要があるわけです。例えば1両の買いものをするために、1石の米(およそ160㎏程度)をいちいち大八車に乗せてお店に行くと考えてみると、こりゃあ大変だとご納得戴けますでしょうか。
そこで受け取った米(年に3回の2月、5月に四分の一、10月に残りの二分の一が支給となります)を現金に換える職業が成り立って参ります。これが札差(ふださし)と呼ばれる生業(なりわい)でございます。
話が前後しました。幕府や大名家から俸禄を領地でもらう武士が、知行取りと呼ばれ、領地で取れる米を石高で示します。無論田のほかに野菜や雑穀の畑や山林なども含まれるので、それなりに広い土地です。彼らの実収は米の取れ高の4割となります。
その他に蔵米取りと呼ばれる一部の知行所の無い旗本と、御家人(お目見え以下)に幕府の米蔵から現物の米で給付される圧倒的に多数の武士がいます。彼らが札差のお客様となるわけです。
話はそれますが、地口で「コノタコ」というのがございます。御家人と旗本の大きな違いは資格として将軍にお目見えができるか、できないかというところです。勿論直接一対一で将軍にお目見えできるのは、わずかな旗本や大名に限られますが、制度としてそうなっています。で、この差を旗本連中はお目見え以下の御家人に対して、「以下のくせに、とか以下が偉そうに」と詰(なじ)るわけです。対する御家人たちは烏賊(イカ)に対して「うるせい、この蛸」と返すしかないという、つまらないところから、来ている訳でございます。閑話休題。
その他に下級武士が対象ですが、扶持(食料の意味)取りいう階級にも、米が支給されます。もう一つが給金取り。こちらには現金で支給されます。この給金と扶持米を併せて支給されると、昔の時代劇で武士を貶めていう「サンピン」侍ということになりますが、その意味は3両1人扶持という安い俸給の侍をいう訳です。1人扶持は1人の食い扶持という意味で、基本米が1日に5合で1年に換算すると1石8斗を現金3両に加えて支給するという意味です。前述のように1両10~20万の最大値をとっても、給料は40~80万ちょっと(年額)とかなり厳しい財政となりますので、内職しかございませんな。勿論正規の御家人には、もっと俸給はあり、このサンピン侍はどちらかといえば御家人や、旗本の家来に対する最低賃金でございます。普段は屋敷に同居致しますので、食う分や、季節ごとに支給される時服は殿様である旗本や御家人の負担となります。
年に3回支給される米を、蔵米取の武士は浅草の公儀米蔵に受け取りに行き、米問屋に売却して貨幣に替えるというのが、本来の姿。この面倒で人手も掛かる手続きを代行するためにできたのが札差でございます。無論手数料を取ります。元々は米を受け取り、運搬するのが本業でありましたが、受け取る手数料を札差料として蔵米100俵につき、金1分(四分の1両)。更に米問屋に売却する手数料(売側:うりかわ)が米100俵につき金2分となり、合計で金3分ですが、米の横持ち即ち運送料は札差が負担しました。実際の形としては札差が手数料を引いて、売却金を武士(札旦那と称します)に渡す代行業でございます。
ところでこの札差の語源は米の支給手形を「札」と呼び、蔵米支給に際してそれを竹串に挟み御蔵役所入り口のわら束に差し、呼び出される順番を待ったところから、来ています。
公定の手数料だけではなく、彼らが行ったのが蔵米を担保とする、高利貸しでございまして、そこから莫大な利益を上げていたというのが、札差の札差たるゆえんでございます。基本的に幕臣の給与である蔵米は、役に付かなければ代々変わることがあございませんが、江戸時代は商業時代であり、大消費時代でもございますので、物価は次第に高騰します。任官運動にもお金が必要となりますが、毎年同じ給与でございます。それで、武士たちは翌年の蔵米を担保に、札差からの借金をするわけですが、この利息が年利で1割8分。それに証文書き換えなどの手数料を加えると、2割近かったという高利です。5年でほぼ1年分の俸禄が消えてしまいますので、毎年利子だけの支払いとなりますな。
無論この商売にもほぼ仕組みが成立した元禄時代頃から、江戸時代を通じると紆余曲折があります。華々しい消費活動を誇ったり、寛政年間の棄捐令(借金の棒引きでその額は118万両にも及んだ)によりかなりの打撃をこうむったり(松平定信老中時代)と。いずれにせよ元禄から幕末に至るまで、蔵前(浅草米蔵前の意味)のお大尽として、木場の旦那衆(紀伊国屋に代表される材木業)と並んで権勢を誇った商売でございます。
この辺りは山本一力さんの小説に詳しい。この栄華を誇った札差。徳川幕府が倒れ旗本・御家人の給与が無くなると、当然商売が無くなり、明治の新政府は幕臣の負債を引き受けなかったことから、貸し倒れとなり廃業になります。間の悪いことに札差連中の店がひしめいていた、浅草蔵前一帯は明治元年12月に大火となり、これが機になり札差は殆ど没落。もう一方の大店である両替商が銀行と形を変えて、近代的な資本になったのに比べると近代的な資本としては殆ど残らなかったようです。