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上総

旧暦では皐月から水無月に代わり、でそろそろ梅雨も明ける時季でございます。一年で最も日照時間の長い夏至をひと月過ぎると、文月で初秋の季節となります。木々の緑は猛々しくもあり、稲もいつも間にか開花し実りの気配を漂わせます。

 

さて、第2回目のブログでは草刈大宮神社を取り上げましたが、ちはら台を横切る遊歩道は「かずさの道」。私たちの住む「ちはら台」を含む千葉県市原市は、旧国名で申せば上総(かずさ:そうしゅうとも)であり、律令制度の上総国府がおかれた地でもあります。そしてちはら台は位置的に下総(しもうさ)との境になる上総の北限地。

元々は安房、を含んだ房総半島は捄(ふさ)の国と表現され、「よき麻の生きたるところ」の意味からふさ。

 

平安初期に朝廷の神事を司る斎部広成(いんべのひろなり)が著した「古語拾遺」には「天富命(あまのとみのみこと)、更に沃(よ)き壌(ところ)を求めて阿波の斎部(いんべ)を分かち、東の土(くに)に率住(ゆ)きて、麻・穀を播殖(う)う。好(よ)き麻の生ふる所なり。故、総国と謂ふ。{古語に麻を総と謂ふ。今上総下総二国と為す、是なり}安房斎部の居る所、すなわち安房郡(あわごおり)名つく」と記されています。

 

6世紀に上捄(かみつふさ)として、下捄(しもつふさ)と分割され、大宝4年(704)大宝律令制定に伴い、現表示の上総(かずさ)として市原郡以下の15郡として成り立ち、更に養老年間~天平年間に南部4郡が安房として分割されました。上下に関しては、みやこに近いほうが上で、遠いほうが下。これは日本武尊東征に表される如く、東海道(道とでしてではなく、地方の区分としての)の順路からすれば、相模から海上交通で上総に至るのが古代の正式ルートで、その後下総から常陸、もしくは武蔵となります。武蔵に北側にあたる上野(こうずけ、上州:もとは上毛野国:現群馬県)から下野(しもつけ、野州:もとは下毛野国:言栃木県)

は東山道に所属いたします。

 

上総には律令以前は8つの国造がおかれ(古事記・国造本記)、この辺りは前回紹介した如く、菊麻国造が市原の所属で、未だに菊間という住所表記が残っています。

 

東京湾に向かうと戦後急激な発展をした所謂京葉工業地帯として、埋め立て地に造成されましたが、古代の駅名は大倉駅で古代の重要港である八幡湊の北西に当たります。現代住所表記は市原市八幡。八幡の語源は皆様ご想像の通り鎮座する「飯香岡八幡宮」でございましょう。

 

さて、上総ですが。常陸、上野と並び全国に3国しかない(建武の中興時代に一時的に陸奥がなったことはありますが)親王が太守と呼ばれる国守となる、親王任国であります。

この親王任国ですが、そもそも平安遷都直後の桓武、平城、嵯峨と子沢山の天皇が続き、幾多の親王を養う財源も官職も不足してしまったことにより、淳和天皇の御世に制度として成り立った。本来は淳和天皇時代に限る筈でしたが、継続され明治に至るまで実際の人臣任官は三介と呼ばれる、次官である国介が実務上のトップとなりました。

 

それ以前には上総国守として、例えば万葉歌人、百人一首の三十六歌仙として有名な大伴家持が左京太夫と兼任のため赴任はしていませんが、任官していたりしています。

令和という元号の由来元となった万葉集の歌で有名になった大伴旅人の子息であります。

 

上総の介として有名なのは、なんといっても織田信長。元々僭称として上総の介を名乗ったのではありますが、実際に上洛以前に正式に上総の介を任官しております。

その後は江戸時代初期に改易になった、家康の子松平忠輝が任官しています。

 

次代は前後しますが、平安末期には平忠常の子孫である、広常が上総権介となり上総氏を名乗り、安房から千葉市周辺までの所領を有し、当時としては千葉氏よりも有力な豪族でした。保元・平治の乱では源義朝に従うものの、頼朝には当初属せず最終的には服属。のちに謀反を疑われ梶原景時(源義経の敵役でもありますね~)に誅殺されました。

以降鎌倉時代を通じて上総は守護として足利氏が治めていた模様ですが、室町期には高氏、佐々木氏、新田氏、上杉、宇都宮と守護は入れ代っています。

 

戦国期には上総氏の同族である房総平氏の千葉氏(下総佐倉城)が衰え、弱小な国衆が割拠状況になりましたが、その中から甲州武田氏の一族である、真里谷武田氏が古河公方の血筋である僧空然を還俗させ足利義明と名乗らせ、下総小弓城(現南生実町:大百池の先を右折したところ)に小弓公方として擁立しました。

 

この小弓、千葉市中央区生実(おゆみ)とお隣緑区の新興住宅地おゆみ野に未だに名をとどめております。そして義明公方、なかなか能力があったようで、下総の国衆を巧みに動かし真里谷武田氏や勃興を始めていた、安房里見氏の内訌を利用し後北条氏との駆け引きもなかなかうまく立ち回ったようです。

しかし全国区ではないにせよ戦国初期の東国の合戦では有名な、第一次国府台合戦で北条氏綱と古河公方足利晴氏連合軍に対して、里見氏、真里谷氏など南房総の大名を率い、決戦を挑みました。

義明公方なかなか武芸にも秀で、戦の駆け引きも相当で一時は優勢に戦を進めましたが、里見軍、真里谷軍共に消極的でやがて北条軍の反撃を受けで壊滅し義明公方も討死となりました。

義明の死後小弓城は千葉氏に奪還され、遺族は里見氏を頼り安房に。事実上小弓公方家は滅亡し、喜連川氏として存続することになります。

小弓公方亡き後、上総は秀吉による統一と、徳川氏の江戸移封までは北条氏と里見氏の抗争の地となりました。江戸時代に至り、関東各地同様に譜代の小大名家と旗本領、天領が入り組んだまま、明治を迎え、そのややこしいままで廃藩置県後しばらくして、下総の一部及び安房を合わせて千葉県となりました。

こうしてみると、歴史的には他の国々較べると、地生えの重要な氏族・人名は上総氏とその係累くらいしかでてこなく、いつも他国やら他国出身者によって政治的には運営されている国のイメージがありそうです。

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