7月6日(木) 朝から強い日差し 琵琶湖沿いのホテルから出発
琵琶湖を隔てて比叡山が見えている あの山頂まで「比叡山ドライブウエイ」を通って延暦寺へと向かう
比叡山ドライブウエイ 田の峠から東塔山頂まで8.1Km 1958年に開通
急こう配、くねくねと急カーブを上る。
走ること2km、標高510mの「夢見が丘 展望台」に着く 急峻な道路だ 比叡山の標高は848mだから一気に、6割を登り切ったことになる
夢見が丘展望台からは琵琶湖が一望できる 大津市市街の向こうに通ってきた近江大橋がかすんで見える
通る車も少なくスムーズに延暦寺東塔エリア駐車場に着く 駐車場には、関東、東海、近畿と遠いところからの車が多い 「ドライブウエイでは車がすくなっかたけど、駐車場では車が多いね」
まずは、観光案内所へガイドブックを入手し、回るルートを決める
休憩所では、おばちゃん達がソフトクリームなんかを食べながら賑やかなおしゃべり
延暦寺の案内看板 実に広い 多くの塔がある
東塔エリア~西塔エリア~途中昼食は峰道レストラン~横川エリアと回る
案内図を見ながら
1.延暦寺は何故ここまで広大な面積に広がったのか?
2.延暦寺から、あれだけの高層が誕生したのか?
延暦寺を訪れるのは3回目だが、改めてその広大さ、著名な僧たちについての興味がわいてきた
東塔エリア 寺内エリアに入るところに立つ石碑
「一隅を照らそう」 比叡山延暦寺の開祖である伝教大師最澄が書いた僧侶の教育方針や修業規則「山家学生式」の冒頭の一節で、現在でも天台宗の基本的な心得の一つ
国宝とは照千一隅此れ即ち国宝なり
一隅にも光を当てることで、その人自身が「国宝」になることができるということ。自分自身が小さくても、自分の力で周りを明るく照らすことができるという意味合いでもあるらしい。
大講堂 国の重要文化財 各宗派の宗祖の木造が祀られ、高僧の肖像画が掲げられていた
「法華大会」5年ごとに開催 天台宗の僧侶になるための登竜門になっているとのこと
大講堂を過ぎると「開運の鐘」 世界平和、親戚、家族一同の安泰を願って鐘を突いた
根本中堂へ向かう 長い石段を下りていく
根本中堂は、改修中であったが、本堂へのお参りができ、「不滅の法灯」を見ることができた。1200年も絶えることなく燃え続けている。しかし、一度は消えてしまい、別の寺社で燃えていた「法灯」から火をもらい燃え続けているとのこと。お参りをしながら僧侶の方から説明を聞くことができた。
根本中堂の改修工事 工事中の様子を見学できるように見学通路が設けられている
本堂の銅板葺き、回廊のとち葺き直し、全体の塗装色の修理が主な内容 平成28年から約10年をかけ大改修
これが回廊の屋根の工事だろうか
とち葺きで厚さ2.4cm、長さ30cmの板を8.5cmずつずらして止めているとのこと
板が割れたり、軒先が腐朽するなどの破損が見られるため軒付けを含めた屋根全面の葺き替えを行っているとのこと
人手により、1枚1枚敷き詰められているようだ しかし、作業者は少なく、私が確認できたのは一人だけだった これだけの大きな屋根の葺き替え、細かい作業 時間がかかるはずだと思った
工事中の様子が見学できるように作られている「見学通路」
全体の塗装色の塗り替えについては 丹塗(丹と弁柄を膠水で溶き木部に塗る)とちゃん塗(丹塗の膠水の代わりに、主に油:えごま油、桐油、松脂)で塗られるらしい
巨大にして繊細なる建造物の内部を見ることができたのは、偶然にもこの時期に訪問したことによる この上もない幸運に恵まれた
根本中堂から、文殊楼へ 向かいに上る石段がある 長い急な石段を上った
バランスを崩すと落下しそなぐらいの急な石段 手すりを持ちながら登った
868年 円仁(慈覚大師)が中国 山西省 五台山(文殊菩薩の聖地)の文殊菩薩堂に倣って創建 かなり前に、中国五台山の石段を上ったことを思い出した。傾斜は同じようなものだが、石段の長さはこの10~20倍以上だったことを思い出しながら上った
文殊楼(国の重要文化財)
車で西塔エリア駐車場へ移動 駐車場がどこか分かりにくく1回入った駐車場から出てまた戻る
西塔エリア
東堂エリアと違いかなり人影が少ない ひっそりとしている 木立、コケが多く厳粛な感じが漂っている
参道の道沿いに「夏椿(サラ)」の花が咲いていた 我が家のサラは、6月末には散ってしまったが、延暦寺は気温が低くまだまだ蕾が多く咲き始め
親鸞聖人修行の地 西塔聖光院でお経をあげ修行されたとか
静かな苔で覆われた石畳の参道を進む すぐに「にない堂」がある
常行堂と法華堂の二つの同じ形をしたお堂で、渡り廊下によってつながれ、法華と念仏が一体であるという、比叡山の教えを表しているといわれ、「にない堂」の呼び名は、渡り廊下に肩を入れて弁慶が担ったと伝えれることに由来するとのこと
少し進むとまた、石段がある それを降りると「釈迦堂」が見える 正式には転法輪堂といい、信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が園城寺の弥勒堂を移し、手を加えたもので、比叡山山内では、最も古い建造物。本尊は伝教大師のご自作とされる釈迦如来立像で、釈迦堂の名で親しまれるようになったとのこと
延暦寺最古のお寺というだけに、周りの杉の樹も大きな老木が多い
杉並木を進む 日陰で気持ちよく歩ける 日影が多いせいか木肌には苔がびっしりついている 長い歴史を感じる
浄土院へ向かう 釈迦堂からは、少し距離があり、少し歩くと木陰がなくなり、強い日材を浴びながら進んだ
浄土院に到着
まったく人影がない 静寂に包まれていた
浄土院 伝教大師最澄の御廟で、比叡山で最も清浄な聖域です。822年に入寂した伝教大師は弟子の慈覚大師円仁によってこの地に埋葬されました。(延暦寺観光パンフレットより)
静かで、何とも言えない尊厳な雰囲気が漂っている その雰囲気をと数多くシャッターを切った
裏手に回ると「御廟」があった
灯篭と夏椿 白砂の庭の周りをやさしく包んでいた
浄土院からの帰り道 石垣に苔 静寂さを苔がさらに深めている
途中で 峰道レストランで昼食 窓際から琵琶湖が一望でき窓際の席が人気でなかなか座るのが難しいと聞いていたが、この日は時間が遅かったせいか、がら空き。それでも、席に座ろうとすると、呼び止められ「先に食券を買ってください」と入り口まで戻された。「これだけ、ガラガラなのに、何とも融通が利かないレストランだね」
窓際で、琵琶湖を一望できる席で昼食
それから、最後の参拝地「横川エリア」へ
横川エリア 時間の関係で「横川中堂」だけの参拝となった
駐車場より参道へと歩き出す
ここも人影少ない 出会った人は2~3人
参道のわきに埋葬の説明看板が掲示されていた
参道時にアジサイが咲いていた 「やはり気温が低いから、まだまだ咲いているね」
龍が池を過ぎると、横川中堂が見えてきた 京都の清水寺に似た作りだ
慈覚大師円仁が入唐求法の旅から帰国後の848年に改築した横川の中心となる大堂 創建以来、何度か焼失したが、本尊の聖観世音菩薩は災禍をまぬがれ、現在の建物は昭和46年の伝教大師1150年大遠忌を記念して復元された。(パンフレットより)
元三大師堂、恵心堂等見学したかったが、時間の関係であきらめ帰路についた
一つ一つのお堂の言われ、中に安置されている仏様、肖像画について知るには、1日かけても足りない。延暦寺は、実に広大、奥が深く、歴史が長い。
帰路は、奥比叡山ドライブウエイ 仰木料金所から堅田市街~琵琶湖大橋を通って帰った
紅葉のトンネルが続く 「紅葉の時期は見事だろうね」「また来ようね!」「そうだね。まだ見れなかったり、もう一度見て見たいのがあるしね」
今回の比叡山 延暦寺の旅
1.延暦寺は、あれほどまでの広大な敷地になったのか?
2.延暦寺から、あれだけ有名な高層が数多く生まれたのか?
まだまだ、理解できるに至らなかった。しかし、東堂~西塔~横川と歩いて見ると、比叡山の険しい地形と関係しているように思えた。それは、急峻な地形で平地が少ない。お堂を数多く建てるにも、平地がなく分散せざるをえなかったのではないか?
山林、特に大きな杉の木が多い。あの急峻な山を下から運ぶには、昔は人力や牛馬に頼るしかない時代には無理と思われる。それで、比叡山の豊富な大きな木の木材を利用しやすかったからではないか?
最澄が788年、国家鎮護のための道場として延暦寺を開いた。修行、学びの場となり多くの人が集まってきた。その中から、浄土宗を開いた法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮ら鎌倉仏教の宗祖、名僧が多く学び、「仏教の総合大学」「日本仏教の母山」として発展してきた。(パンフレットより)
最初、最澄が比叡山にこもり修行したのが始まり。やはり、比叡山という場所があったからこその始まりなのだろうか?
最澄は「何故、比叡山に始まりとなる草庵を建てたのだろうか?」 京都天皇との関わりで、鬼門となる北に魔除けとなるようにと比叡山を選んだとも記憶するが・・・・・
多くの僧たちがなぜ、延暦寺に学びに来たのか? そして、そこから自らの宗派を唱えたのか?
これからまた調べて、そしてまた延暦寺を訪れてみよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます