□本日落語二席。
◆古今亭文菊「権助提灯」(NHKラジオ第一『真打ち共演』)。
徳島県吉野川市鴨嶋公民館、令和4(2022)年4月22日収録※5月14日OA鴨島公民館開館40周年記念。
◆『笑点』大喜利:春風亭昇太(司会)/三遊亭小遊三・立川志らく(※六代目三遊亭円楽代演)・林家たい平・林家木久扇・三遊亭好楽・桂宮治(日本テレビ『笑点』第2810回)。
日テレ麹町スタジオ、令和4(2022)年5月15日OA。
■本日講談一席。
◇六代目神田伯山「鹿政談」(NHK総合『桂文枝の演芸図鑑』)。
東京渋谷NHK放送センター、令和4(2022)年5月15日OA。
「鹿政談」がもとは講釈ネタだというのは、今日初めて知った。伯山が言うには、現在講釈師で「鹿政談」を上演する人物は、自分をおいて他にないとのこと。
伯山は、奈良の町奉行を川路聖謨として演じていた。落語では、演者によってかわるようだが、たとえば、桂米朝など、古い時分の高座では曲淵(まがりぶち)甲斐守として演じていたが、後々には川路聖謨で演じていた。また、東京だと、十代目柳家小三治は松野河内守で演じている。さらに、別門で五街道雲助は根岸肥前守で演じられている。おもしろいことに、小三治の松野河内守も、雲助の根岸肥前守も、「後々に江戸町奉行として出世」云々のひと言が入る。東京の落語家が演る場合は、やはり江戸にかかわる人物としてリアリティをもたせのだろうか。
伯山、そして、後半生の米朝が口演した際の川路聖謨は、幕末の人物。Wikipediaによると、奈良奉行に着任したのが弘化3(1846)年。これは左遷だった由。そして、六年間奈良奉行を勤めたのちに大坂東町奉行に異動、。さらに、嘉永5(1852)年に勘定奉行・公事方(訴訟担当)に異動し、嘉永6(1853)年、ロシア帝国使節プチャーチンが長崎に来航の際、露使応接掛となって国境・和親通商について交渉したとあるような歴史上の人物だ。また、写真も残っている。
残念ながら、「鹿政談」の逸話は記されていなかったが、奈良奉行時代に「川路の呼びかけにより、桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹したという。それを記念する石碑が奈良市興福寺近くに『植桜楓之碑』として残っており、碑文は川路の自筆だと言われている。また貧民救済に尽力している」などの記載があった。とくに、最後の「貧民救済」云々といったあたりは、「鹿政談」の噺を生む土壌があったものかと思わせる。
川路は奈良奉行時代に『寧府紀事』なる日記を残しているようで、もしかすると、これを読めば、「鹿政談」の逸話でも出てこないだろか。読むことのできるものなら、一度見てみたいものである。
◆古今亭文菊「権助提灯」(NHKラジオ第一『真打ち共演』)。
徳島県吉野川市鴨嶋公民館、令和4(2022)年4月22日収録※5月14日OA鴨島公民館開館40周年記念。
◆『笑点』大喜利:春風亭昇太(司会)/三遊亭小遊三・立川志らく(※六代目三遊亭円楽代演)・林家たい平・林家木久扇・三遊亭好楽・桂宮治(日本テレビ『笑点』第2810回)。
日テレ麹町スタジオ、令和4(2022)年5月15日OA。
■本日講談一席。
◇六代目神田伯山「鹿政談」(NHK総合『桂文枝の演芸図鑑』)。
東京渋谷NHK放送センター、令和4(2022)年5月15日OA。
「鹿政談」がもとは講釈ネタだというのは、今日初めて知った。伯山が言うには、現在講釈師で「鹿政談」を上演する人物は、自分をおいて他にないとのこと。
伯山は、奈良の町奉行を川路聖謨として演じていた。落語では、演者によってかわるようだが、たとえば、桂米朝など、古い時分の高座では曲淵(まがりぶち)甲斐守として演じていたが、後々には川路聖謨で演じていた。また、東京だと、十代目柳家小三治は松野河内守で演じている。さらに、別門で五街道雲助は根岸肥前守で演じられている。おもしろいことに、小三治の松野河内守も、雲助の根岸肥前守も、「後々に江戸町奉行として出世」云々のひと言が入る。東京の落語家が演る場合は、やはり江戸にかかわる人物としてリアリティをもたせのだろうか。
伯山、そして、後半生の米朝が口演した際の川路聖謨は、幕末の人物。Wikipediaによると、奈良奉行に着任したのが弘化3(1846)年。これは左遷だった由。そして、六年間奈良奉行を勤めたのちに大坂東町奉行に異動、。さらに、嘉永5(1852)年に勘定奉行・公事方(訴訟担当)に異動し、嘉永6(1853)年、ロシア帝国使節プチャーチンが長崎に来航の際、露使応接掛となって国境・和親通商について交渉したとあるような歴史上の人物だ。また、写真も残っている。
残念ながら、「鹿政談」の逸話は記されていなかったが、奈良奉行時代に「川路の呼びかけにより、桜と楓の苗木数千本株を東大寺から興福寺を中心に植樹したという。それを記念する石碑が奈良市興福寺近くに『植桜楓之碑』として残っており、碑文は川路の自筆だと言われている。また貧民救済に尽力している」などの記載があった。とくに、最後の「貧民救済」云々といったあたりは、「鹿政談」の噺を生む土壌があったものかと思わせる。
川路は奈良奉行時代に『寧府紀事』なる日記を残しているようで、もしかすると、これを読めば、「鹿政談」の逸話でも出てこないだろか。読むことのできるものなら、一度見てみたいものである。