竹林亭白房

花緑「百年目」★落語

□本日落語二席。
◆柳家花緑「親子酒」(寄席チャンネル『粋 らくご』)。
三鷹市芸術文化センター星のホール、令和5(2023)年3月18日(「柳家花緑独演会」夜の部)。

◆柳家花緑「百年目」(寄席チャンネル『粋 らくご』)。
三鷹市芸術文化センター星のホール、令和5(2023)年3月18日(「柳家花緑独演会」夜の部)。
能や歌舞伎と違って、落語の場合、ほとんど世襲という継承が機能していない。それでも、昔より最近はかなりその傾向が顕れてきたような気もするけれど。

そういう意味では、花緑も祖父からの世襲という形には見えてしまっているのだろうか。でも、名跡が小さんでないだけ、まだそのテイストは薄いほうか。

この「百年目」という落語は、さるお店(たな)の旦那と、番頭の噺である。そして、旦那を演じるところでは、それなりのキャラというか風格が必要とされるとは、昔からよく言われていること。本当に必要なのかどうかはわからないけれど、そう言われると、どうしてもそういう感覚で聞いてしまうというもの。

そうしたときに、二世・三世落語家は、どこまで先代を超えているのかという見えかたが気になってしまう。つまり、それを超えていないと、どこまでも若旦那キャラに見えてしまうのだ。
若旦那キャラが演じる「百年目」は、感情移入しにくいものがある。

かつて、五代目桂米團治は、まだ小米朝時代に、ミナミの〔TORII HALL〕で「百年目」を掛けたことがあったが、あれ以来聞いたことがないというのは、当人が若旦那キャラを脱していないと自認したことによるのか。確かに、当代米團治はいつもなんだか若旦那キャラの感じがする。
師匠の桂米朝は、もっと若いときから、大旦那キャラの人だったが。それは、米朝が世襲で落語家になった人じゃないからというのは大きい。

さて、花緑はどうだろう。若い時分からこの世界に身を投じて、年齢的にも、重々しさを醸し出す感じになってきている。でも、若旦那キャラを脱するというのは、なかなか難しいものなのだろうかというのは、この「百年目」のような落語を聞くと、思い知らされるような……。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る