わただま 摘んだ?

風になる 花のかおりをまとうこと 遠い訪れを搬ぶこと 水のありかを囁くこと そして こっそり石たちの夢にすべりこむ

あけがたにくる・・・

2006-07-15 11:31:55 | べりーずりーふ
数日前の未明、娘の部屋から時ならぬ悲鳴があがった(そうな。夜更かしして、寝入りばなだった私は気づかなんだ)。

朝になってなみだぽろぽろ流しながら語るところによると、枕元をゲジゲジらしきものが通っていったという。
しかし。
庭のあるお屋敷ならばいざ知らず、地上三階、ゲジの好きなひんやりした蔭や湿気とも無縁だ。
すわ現代の三輪山伝説と、頭の中をゲジゲジの赤ちゃんが駆け巡る。

一応、ベッド周辺を捜索したがみつからず、とりあえずゲジならばそうたいしたことはあるまいと対策本部は解散した。

ここのところ、パソコンやりながらずっと茶の間で寝てたじゃない。
下のおうちでリフォームしているから、避難してきた虫さんが、格好の転居先と、落ち着いたんじゃないの?
などと外野は無責任なコメントを連発する。

その夜。
昼間のことをぶつぶつ、つれあいにこぼしていた。
そのとき、なにかの気配はたしかにあった。
ふんふんと合いの手をいれていた夫がふと目を上げるや、
「おかあさん、おかあさん」
と叫んでダッシュしてきた。
血相変えた勢いにすっかり怖気づき、こちらも悲鳴を上げる。
ひざから這いあがってきたムカデが胸から顔に接近中。
とっさに払いのけてくれたものの、ふだん虫のいない生活ではハエタタキもない。
「殺虫剤、殺虫剤」
と言われて取ってかえしたスプレー缶をみて、
「そりゃ、ガスボンベだ」
結局、ムカデは掃除機によって吸引された。

前夜、娘のところを訪れた百足の君は、かくて退治されたのであった。

さて。
あけがたにくる虫のことではなく、「あけがたにくる人よ」という詩についてひとくさり。
先日、図書館で表題が気になって手にとった詩集の題名です。
作者は永瀬清子。(1906~1995)
この詩集は、いくつかの賞も受けたそうですが、ここには詳述しません。
表題もさることながら、まず引き込まれたのは、
「黙っている人よ 藍色の靄よ」
ちょうど朗読をする詩をあたっていたのですが、これはあまりにもつらく、選択からはずしました。

巻頭の「あけがたにくる人よ」と次の「古い狐の歌」、そして「私と時計」の三作を選び、音楽とのコラボレーションという試みに取り組んだのです。

作曲をしてくださる方も、この詩の中で語られている年代からそう遠くない。
打ち合わせをしながら、「身につまされる詩ですね」とおっしゃっていました。

そう。
もう若くなく、取り返しのつく地点からはるかにきてしまった女たちに。
思い通りにいかないことを身をもって感じ取りつつある同世代に。
ぜひ聞いていただきたいと思うのです。

意味の取れなかったことばが少しずつ見えてきて。
バックグラウンドミュージックではなく、
「クロイツェル・ソナタ」のようにことばと音楽が切り結ぶと私が望んだ通り、まさに相戦う曲を書いてくださったYさん。
ゆえに、語りかたを見出すには困難を極めました。

職業としての演劇やナレーションの基礎を学んだわけではなく、ただ。
ことばと対峙すること、それだけをたよりに
そして、血肉をかかえた同胞とともに立つ同行者からのちいさな発信として
もしそれが意味をもつのならうれしいと思います。

音楽と朗読によるよだかの星


そうだん

あけがたにくる人よ


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