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フルオープン【5/1 夜8時配信】参院3分の2議席で日本でも現実に! 安倍政権が「学ぶ」「ナチスの手口」とは何か?岩上安身によるインタビュー 第662回 石田勇治東京大学教授 後編

2020年05月01日 22時58分11秒 | 日本・政治・経済

フルオープン【5/1 夜8時配信】参院3分の2議席で日本でも現実に! 安倍政権が「学ぶ」「ナチスの手口」とは何か?岩上安身によるインタビュー 第662回 石田勇治東京大学教授 後編

 

ヴァイマル共和国憲法の緊急事態条項(国家緊急権)は何度も発令されていた。困った時にはヴァイマル憲法第48条、国家緊急権!

石田「ヴァイマル共和国憲法には緊急事態条項があり、何度も発令されていました」

岩上「ヴァイマル憲法第48条の『ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またその恐れがあるときは、共和国大統領は公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には武装兵力を用いて介入することができる』。

 この『公共の安全および秩序』は重要。自民党改憲草案の『公の秩序』と同じです。

 続けて、『この目的のために、共和国大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる』。丁寧に書いてありますが、自民党改憲草案と、事実上は同じですね」

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石田「『必要な措置』とあるが、どんな措置かの規定がない。何でもできる。なぜ、このようなことを書き込んだかというと、ヴァイマル共和国の前のドイツ帝国で皇帝に戒厳令をだす権限があったからです。

 そのドイツ帝国が崩壊して新国家の憲法を作ることになるのですが、国が混乱して内乱や戦争になった時に誰がそれを治めるのか議論になり、昔の皇帝の役割を大統領に担わせることになります。皇帝は世襲ですが、大統領は直接選挙で選ばれるので民主的だというわけです。こうして大統領に緊急命令権(国家緊急権)が与えられたのです。もちろん大統領になるような人は立派な人物だという「性善説」が前提でしたが。

 ヴァイマル共和国の初代大統領エーベルト(社会民主党)は、右翼・帝政派と左翼の攻撃から共和国を守るため、緊急令を何度もだし、共和国の危機を乗り切りました。しかし、帝政主義者のヒンデンブルクが第2大統領に当選(1925年)し、世界恐慌の煽りで国政が大きく混乱する1930年代になると、緊急令は国会で定めるべき法律の代わりとして乱発されるようになります。

(注6)
全権委任法と授権法は同じ。文中では、授権法で統一。

 この48条の第5項には『詳細は、共和国の法律でこれを定める』とあるが、結局、定められませんでした。為政者にとってその方が、都合がよかったからだという説もあります。

 また、『これらの措置は共和国議会の要求があれば失効するものとする』と歯止めはちゃんとありました。そのためには議会の過半数の賛成が必要です。しかしヒトラーが国家緊急権を行使した時、議会は法案を潰さなかった」

岩上「自民党の改憲草案には、こういった歯止めもありません」

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民意で選ばれたのではなく、大統領内閣という伝統的な保守と新右翼の利害が一致した合作のヒトラー独裁国家

石田「ナチ党は、正式名を国民社会主義ドイツ労働者党といいます。『国家社会主義』という表現は、現在は使いません。ナショナルという語の訳し方ですが、ナチ党の場合、国家主義ではなく、国民主義、民族主義が基軸にあるので、ナチズムは国民社会主義ないしは民族社会主義と訳すのが正しいです。『労働者党』を名乗っていますが、労働者の利益代表ではなく、共産主義やマルクス主義から労働者を守る、という意味です。

 それまで泡沫政党だったナチ党は、世界恐慌が有利に働き、1930年9月の国会選挙で第2党(得票率18.3%)になります。1932年に第1党(得票率37.4%)になるが、ナチ党のピークはここまでなんです。

 ナチ党は、選挙で第1党にのし上がったのは確かですが、1932年11月の国会選挙で得票率は33.1%に下落します。第1党を維持しましたが、200万票を失う。ざっくりいって有権者の4人に3人は、ナチ党には投票していませんでした」

岩上「これって、今の自公政権と同じだ! よく『民主主義の喝采の中からファシズムが生まれる』と言う人がいるが、そうではない」

石田「そうなんです。ヒトラーは民意で首相に選ばれていない。国民が愚かだったからと責任を押しつけるが、事実は違うんです。1932年末にはヒトラーのナチ党は選挙資金もなくなり、暗たんたる状態。第2の指導者、グレゴール・シュトラッサーが党を分裂させるかもしれないという噂も立ちました。

 そういう状況の中で1933年1月30日、ヒトラーが首相になり、『国民総決起政府』を打ち上げたが、それもナチ党の単独政権ではなく、保守派のドイツ国家人民党との連立政権でした。ヒトラー政府は実は少数派政権で、ナチ党196議席、国家人民党は52議席の合計248議席。与党は全584議席の過半数に満たなかった。

 ヒトラーが政権を獲得できた理由は、落ち目になったヒトラーとナチ党を利用しようとする、ヒンデンブルク大統領などの権力者がいたからです。ヴァイマル共和国末期の首相(ブリューニング、パーペン、シュライヒャー)は、どれも国会に基盤らしい基盤を持たず、大統領の大権に依存し、政権運営にあたっていました。こうした少数派政府は『大統領内閣』と呼ばれ、ヒトラー政権もそのひとつでした。

 これを理解しないと、ヴァイマル共和国の末期のドイツ政治はわかりません。つまり、ヒンデンブルク大統領がキングメーカー。これは、議会が多数派を形成できなかったことから生じた内閣です。『大統領内閣』とは、ヴァイマル憲法に明文規定されたものではありません。憲法が定める大統領の三つの大権、①首相・閣僚任免権、②国会解散権、③国家緊急権(第48条:非常時の緊急命令権)を組み合わせることで可能になったものです。

 大統領は非常時に緊急令を発令できる。それは法律と同等とみなされました。なので、大統領を動かしてこれを発令できれば、首相は国会から独立して国政にあたることができた。」「中略」

 

 

飼いならすどころか、飼い犬に手を噛まれたヒンデンブルク。自作自演(!?)の国会議事堂炎上事件で一気呵成に人権停止へ突っ走ったヒトラー

石田「1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されると、飼いならされるどころか一気呵成に攻勢に出た。連立与党の国家人民党の反対を押し切り、ヒンデンブルクに頼んで国会を解散、国会選挙(3月5日実施)に打って出ます。なぜなら、ヒトラーには勝算があった。大統領緊急令以外に、ナチ党には突撃隊、親衛隊、大衆宣伝組織があったからです。

 ヒトラーが政権に就くと、共産党がゼネストを呼びかけた。すると、ヒトラーは直ちにヒンデンブルクを動かして、集会と言論の自由に制限を加える大統領緊急令を発令させ(2月4日)、自由な選挙を封じ込めました。突撃隊と親衛隊を『補助警察』にして、反対派の拘束に乗り出します。

 そして、国会議事堂炎上事件(2月27日)が起こった。オランダ人無政府主義者による単独犯行説が通説になっていますが、いまだに論争は続いていて、現在の歴史学界は、ヒトラーの自作自演説に傾いています。

 ヒトラー政府は、国会議事堂の放火を共産党による国家転覆の陰謀と断定。民族と国家を防衛するための大統領緊急令(国会議事堂炎上令)を公布。共産党国会議員、左翼指導者を一網打尽にし、合わせて憲法の定める基本的人権を停止しました」

岩上「これこそ自民党改憲草案にある、緊急事態条項ですね。

 1933年2月28日に出た「民族と国家を防衛するための大統領緊急令(国会議事堂炎上令)」とは、『共和国憲法第48条第2項に基づき、共産主義者による国家の安全を危険にさらす暴力行為を未然に防ぐため、次のことを命令する。(1)共和国憲法第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)は、当分の間、効力を停止する。人身の自由・言論の自由(出版の自由を含む)・結社および集会の権利の制限、信書・郵便・電信・電話の秘密に対する干渉、家宅捜査・押収の命令及び所有権の制限等は、これに関する一定の法律上の限界を超えるときにおいても、認められる』というもの」

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石田「大統領緊急令が発令された1933年から1945年の敗戦まで、ドイツには基本的人権はありませんでした。事件の直後、たった一日で予防拘禁として5000人の共産主義者などを令状なしで逮捕した。彼らを収監する刑務所が足らず、仮設の収容所をどんどん建設しました。

 また、ドイツは長い連邦制の伝統があり、バイエルン州のように州自治の独立意識が強かった。ヒトラーは、『州において公共の安全及び秩序の回復に必要な措置がとられないときには、共和国政府は、その限りにおいて州最高官庁の権限を一時的に用いることができる』として、州政府にも介入しました。

 ドミノ倒しのように、共和国全土が一気にナチ化したのです。ヒトラーは、この大統領緊急令によって政治的反対派の動きを封じ込め、地方政治を粉砕しました。そして次の狙いが授権法でした」

麻生さんが望んでいた授権法とは、「第1条:国の法律は政府によっても制定されうる。第2条:政府が制定した国の法律は、憲法と背反しうる」

岩上「まさに、自民党改憲草案にも『公の秩序のため』という文言が散りばめられています。緊急事態条項は地方自治も麻痺させ、まったく同じだ。ヒトラーは授権法をいつ用意していたんですか?」

石田「実は、授権法はヒトラーが初めて使ったのではないのです。1923年、ドイツでは天文学的インフレが起きました。その時、国内を安定させるために授権法を成立させていたんです。しかし、分野を限り、時間も限定されていた。ナチ党は、ヴァイマル共和国時代、大統領のだす緊急令で何度も痛い目にあってきた。だから、ヒトラーは、今度はそれを逆手にとって大攻勢をかけたんです。

 ヒンデンブルクも授権法を支持していました。それは、大統領の責任逃れのためです。また、保守派の政治家も賛同していた。しかし授権法を成立させるのは大変で、国会議員総数の3分の2以上が出席し、さらに出席した議員の3の2以上の賛成投票が必要だった。

 1933年3月5日の国会選挙では、ナチ党は43.9%しかとれなかった。連立与党の国家人民党8.0%の票を得て、ヒトラー政府は過半数の議席を得ましたが、3分の2には届きません。それでヒトラーは姑息な手法を使った。

 国会議事堂炎上事件の容疑者として共産党の国会議員を全員拘束していたが、それには議決にあたり、母数を減らす狙いがあった。そして社会民主党など反対派の『欠席戦術』を未然に防ぐために、『議長の認めない事由で欠席する者は登院を認めず、その欠席は出席とみなす』という議院運営規則改正案を直前に国会に提出し、賛成多数で通過させたのです。

 このようにして、1933年3月23日、補助警察となった多数の突撃隊員が議場で議員を威圧する中、採決が行われました。結局、反対票を投じたのは社会民主党の議員だけでした。

 授権法とは、『第1条:国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。第2条:政府が制定した国の法律は、憲法と背反しうる』というもの。つまり、ヴァイマル共和国憲法の無意味化、形骸化です。これは、国会議事堂炎上令とともに、ヒトラー独裁の法的根拠になりました。だから、ホロコーストも可能になったのです」

岩上「……麻生さんは、これをしたかったんだ!」

「中略」

 

「ドイツよ、ひとつになれ。ひとつになれば強くなる」──今とそっくりなヒトラー総統! 独裁は、最初は小さく少しづつ。気がついた時には、もう遅い!

石田「ヒンデンブルク大統領が亡くなった直後、ヒトラーが大統領と首相も兼ねた総統になり、新しい秩序を回復したとして、1934年9月、ニュールンベルグでナチ党大会を開催。レニ・リーフェンシュタール(映画監督、写真家。1902年~2003年)が『意志の勝利』という映画にしました」

岩上「レニ・リーフェンシュタールには、私はドイツで取材したことがあります。彼女は『ヒトラーもいいことをした』と言いました」

石田「それ自体すでにプロパガンダに染まっていて、そう信じたいんです。彼女は共犯者です。

 ヒトラーはヒンデンブルクの死去の1ヶ月前、SA(突撃隊)のトップで、かつてナチ党ナンバー2ともいわれたレームを粛正しました。過去に汚れ役を担っていたSAの指導者レームでしたが、ヒトラーが政権に就くと、「第二革命」の実現を求め、国民軍を創設して国防軍にとって代わると言い出し、物議を醸していたのです。いまや厄介者となったレームらをヒトラーは切ったわけです。

 絶対の指導者を意味する「総統ヒトラー」の誕生を国際社会はヴェルサイユ条約の負い目と共産主義への反発もあって、容認しました」

岩上「伝統のイメージを、国内だけではなく国外にもアピールしたのですね。安倍総理は今年6月のサミットで各国首脳を伊勢神宮に連れて行き、神道では参拝したことになる御垣内(みかきうち)に招き入れました。あとで宣伝にも使えて、参議院選挙へのプロパガンダにもなりました」

石田「ヒトラー支配下のドイツでは、最初は共産主義者・左翼運動家ばかりが拘束された。ユダヤ人は当時、ドイツ国内に50万人程度の少数派です。迫害といってもほとんどの国民には無関係でした。だが次第に迫害から利益をえる国民が増えてゆきます。

 ホロコーストは、当初のユダヤ人追放政策が、第二次世界大戦下で絶滅政策に転じたことで生じました。その犠牲者の大多数は第二次世界大戦でドイツが勢力下においたヨーロッパ全域のユダヤ人です。その数は約600万人にもなりました。

 最初は小さく、少しづつ姿を現す。

今のフランスの戒厳令も同じで、気がつけば大きくなっているんです。しかし、その時はもう遅い。早い段階で気づくべきです」

平等主義と実力主義、全体への献身と自己犠牲を訴えていたヒトラー。多数派にとって、都合がよかったナチ時代!?

石田「ドイツの社会は、ビスマルク帝政時代からいくつかに分断されていました。宗教ではカソリックとプロテスタント、階級では労働者層と市民層という具合に、です。ヒトラーは『ドイツよ、ひとつになれ。ひとつになれば強くなる』と、演説で何回も言っています。

 自由主義も共産主義も社会主義も、国民を分断するための思想だと訴え、『ドイツをひとつにするのが自分たちだ』と。平等主義と実力主義、全体への献身と自己犠牲を説きました。強くなれ、という趣旨は、戦争のためです。しかし、それは最後まで明かさない」

岩上「自民党もプロパガンダがうまい。マスメディアも懐柔されてしまった。今はまだ、週刊誌やネットメディアがラディカルな姿勢を保っているが、緊急事態条項が決まればもう書けないですね」

石田「危険ですね。自由な報道はもう望めない。

 よくヒトラーの「偉業」といわれる失業の解消も、根拠となる信頼できるデータはありません。国家予算も公表しなくなった。ヒトラーにとって国家は道具なんです。12年間のナチ時代に、既成の国家組織はヒトラーの権力に浸蝕・解体され、結局再構築はできなかった。

 ヒトラーは大勢のサブリーダーを従え、彼らの競合で恒常的カオス状態を引き起こしていました。ヒトラーへの忠誠心で『総統の意志』を斟酌(しんしゃく)し、『総統のために働く』という風潮になりました。一般国民には目くらましが多く用意されました。少数派の弾圧から生じた国民的な『受益の構造』ができていき、ナチ党との共犯関係、合意独裁へと進みます。

 裕福なユダヤ人に放棄させた財産を競売にかけ、市民はそれを安く手に入れて(受益)共犯関係ができていたんです。現在ドイツでは、それらを明らかにして、過去の反省を促す歴史展示もたくさん開催されています。

 ナチ党も、最初はユダヤ人を殺すまでには至っていませんでした。『ユダヤ人はドイツにいると迫害されるから出国せよ』と言っていた。

 ナチ党とシオニスト(注7)はつながっていて、ハンナ・アーレント(ユダヤ人の政治哲学者、思想家1906年~1975年)は、それを批判しています。

 ナチ時代のドイツは、様々な少数派の犠牲の上に多数派の利益を追求しようとしました。だから多数派の間で合意を作ることは難しいことではなかった。多数派にとって、ナチ時代は案外、都合がよかったんです。恐ろしいですね」

(注7)パレスチナに故郷を再建しようとする運動、あるいはユダヤ教、ユダヤ文化の復興運動をシオニズムといい、それに共鳴し、積極的に参加するユダヤ人のことをシオニストと呼ぶ

 

安倍自民党にそっくりの、人権なきナチス国家の人口政策。最後に石田教授が「……」と絶句した、日本の政治家の発言とは?

岩上「麻生副総理は、『ナチスの手口に学べ』『90歳の人、いつまで生きるつもりだ』(6月17日・小樽市の自民党支部大会)などと暴言を吐くが、決して糾弾されません」

石田「受け手の感性が鈍くなっていると思います。彼は、安楽死とかの次元で言ったのかもしれないが、そこまで考えていない気もする」

岩上「10数年前、私は少子化問題に関連して、不妊治療の保険化を坂口力厚生労働大臣(当時)に陳情に行きました。自民党の女性の政務官とも話をした。すると、その政務官は『少子化対策で一番最初にやることは、安楽死政策だ』と答えたのです。だから、麻生副総理の失言は最近のことではなく、自民党内では以前から議論されていたことなのです。ナチの人口政策そのものだ」

石田「ナチ・ドイツは強制断種法を制定(1933年)し、特定の『遺伝病』について罹患者本人の意志とは関係なく断種手術を行うことを可能にしました。これがナチ優生社会の幕開けです。第二次大戦が始まった1939年には、不治の病にある人々、障がい者、精神疾患者などを組織的に殺害する政策を実行に移しました。すみやかな戦争態勢のためです。ガス室や薬剤によって全国で20万人が殺されたと言われています。この殺人技術が、アウシュビッツでも使われました」

岩上「ナチのユダヤ人虐殺は有名だが、それ以前に、社会に無益な人々を抹殺していったのです。プロパガンダで、盛んに社会保障費の無駄を訴えていた」

石田「ナチは近代化を進め、効率的な国家を築こうとしたのですが、そこに人権などなかった。役に立たない無用な者は容赦なく排除するという思想です。強制断種法などの法律ができたのは、すべて授権法のせいです」

岩上「自民党の緊急事態条項は、無期限に延長できるようになっています。解除するには革命か、戦争で負けるしか方法がない。

 日本創成会議、日本会議、神道政治連盟、すべて安倍晋三が深く関わっています。自民党の稲田朋美政調会長は、創成日本会議の集会で『国民の生活が大事だという政治は間違っている。日本だけが、世界で唯一、道義大国を目指す資格がある』と自己陶酔的な発言した。まったく、ナチスと同じです。稲田政調会長は、『国を守るのは、あなた方ひとりひとりだ。そのためには血を流す覚悟が必要だ』とも言っているのですが、決して『私たち』とは言いません。『私や私の家族』は血を流す気はないのでしょう。

 以前、森喜朗元総理が『日本は神の国』と発言した時は(2000年5月15日・神道政治連盟国会議員懇談会)散々、叩かれましたが、今ではどこも糾弾しない。

 また、最近では、元衆議院議員で第一次安倍内閣の法務大臣だった長勢甚遠(ながせ じんえん)氏が、『国民主権、基本的人権、平和主義。これをなくさなければ、本当の自主憲法ではない』と発言しています」

石田「国を守るために戦場に行くのは、若者です。彼ら(稲田氏や森氏ら)は行きません。国民主権、人権は、近代国家の基本原則。それを失くしたら、もはや文明国ではない。恐ろしいことです。歴史から何も学んでいないし、戦後の教育も無意味だったということになる。……言葉がありませんね。日本の現状は、深刻です」

岩上「こういう状況を、マスメディアがまったく報じないのは問題です。石田先生、長時間、どうもありがとうございました」


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