今読みましたヨナ書を見てもわかります。ヨナ書を見ると、預言者ヨナが深く眠っていたことがわかる。けれどそのとき眠るべきではなかったのです。7章の10節。1章でしたけれども、結局彼は眠ったけれども眠るべきときではなかったのです。起きるべきでした。それから別の個所だったのですけれど、ヨシュア記の7章の10節。
・主はヨシュアに仰せられた。
「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」
ひれ伏すこととは礼拝することです。主を拝むことです。ヨシュアは本当に地にひれ伏して、主を拝して、主に祈りました。
けれどそのとき主に祈るべきときではなかったのです。的外れでした。
<font color=red>罪がきよめられなければならないときでしたから。だから主はヨシュアに「立て。」と仰せられたのです。そのときそこには不従順、盗み、隠し事があったのです。そのような場合があった場合、もはや祈ることは意味がない。</font>
私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。いかに多くの不従順を告白しなくてはならないことではないでしょうか。また、何と多くの盗みを犯したことでしょう。自分の名誉を人にまさって誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人に良く思われたがったりすることなどは全て盗みである。と聖書は言っています。なぜならば全ての誉れと栄光とは、ただ主にのみ帰せられるべきであると聖書は言っているからです。
また何と多くの隠し事、偽り、偽善などを行なっていることでしょうか。もしそうすると、敬虔な形をしていてもその実を否定する者になるのです。また、出エジプト記の14章15節を見ると、似ている個所があります。14章15節。
・主はモーセに仰せられた。
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。
イスラエル人に前進するように言え。
モーセは主に叫びました。そして主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」確かに主に叫ぶべき時があるけれど、このときは叫ぶべき時ではなくして、主は全き従順を待ち望んでおられたのです。
今まで述べたことを通して、私たちは自分の思いや自分の行ないがいかに主の思いとみわざとから離れており、違っているものであるかということを知ることができるのです。私たちは祈るべき時に眠ってしまう。
罪を告白し、光の中に明らかにしなくてはならない時に私たちは祈り始める。また、主が私たちの従順を待っておられる時に私たちは主に叫んでしまう。何と愚かな目の見えない者なのでしょうか。これらの事実を詳らかに知ることができたならば、主がいかに忍耐を持ち、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気が付くのです。
ちょっと違う意味で主の恵みをほめたたえるようになるのではないでしょうか。<font color=red>私たちが祈らなければならない時に眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなければならない時に祈り始めたがり、主に従順にならなければならない時に叫び出したりするならば、その時にはもはや主との交わりを持つことができないことを知らなければなりません。これらの事がらは、私たちが主と結び付いていないことの証拠です。</font>
その時には主との生きる交わりもなく、また御霊による導きも存在していない。私たちが罪を光の中にさらけ出し、それを主のみもとに偽らずに、ありのままに差し出すことをしなければ祈ることも主に呼ばわることも何の価値もない者です。
私たちが全く妥協せずに主に従うならば、必ず主は応えてくださいますが、そうでなければ、主は決してお応えになりません。
ちょっとヨナ書に戻りまして、ヨナ書の4章の11節を見ると次のように書かれています。1392ページです。
・まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、
数多くの家畜とがいるではないか。
≪略≫
主はニネベに住む人たちに対して無関心ではなかったのです。だから預言者ヨナは遣わされました。
このヨナとは預言者と呼ばれ、主のしもべと呼ばれたのです。主よ。お話しください。しもべは聞いております。すなわち、しもべは従うつもりです。あなたのみこころだけを行ないたいのです。この心構えこそがいわゆる預言者たちの態度でした。
預言者たちは自分で色々なことを考えたり、勉強したり、そして結果として全てをまとめて話したのではない。預言者たちは主の口として用いられた器にすぎなかったのです。主はこういうふうに語られ、これを宣べ伝え。と命令なさったから、彼らは命令どおりに行なった。主からのことばを宣べ伝えただけでした。
預言者であるしもべたちにとって大切であったのは、自分で考えることではなく、従順に従うことでした。確かに預言者たちはみなイスラエルのために遣わされた者でした。けれど例外があったのです。ヨナという預言者は異邦人に、ユダヤ人でない人々に遣わされたのです。
ヨナ書1章の1節からもう一回読みます。
≪略≫
ここで何を書いているかと言いますと、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとした。と書いてあります。いったいなぜヨナは逃げようとしたのでしょうか。なぜ主なる神のしもべであるヨナは、主の顔を避けようとしたのでしょうか。主の使命がヨナにとっては重すぎ、また大きすぎ、また嫌ったためにそれに耐えることが出来なかったからでしょうか。主のしもべであるヨナは、主とは違った考えを持っていたのでしょうか。
預言者は、主が何を望み、何を成そうとしているかを思い計ることができなかったのでしょうか。
・アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
ヨナに主のみことばが与えられたことがわかります。主のみことばは一つの事実であり、行ないであり、また出来事です。主のみことばが望んでおられることはヨナに対して行なうこと、ヨナとともに行なうこと。ヨナを通して行なうことでした。
・「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。
彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
と主はヨナに命じておられました。
・主はヨシュアに仰せられた。
「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」
ひれ伏すこととは礼拝することです。主を拝むことです。ヨシュアは本当に地にひれ伏して、主を拝して、主に祈りました。
けれどそのとき主に祈るべきときではなかったのです。的外れでした。
<font color=red>罪がきよめられなければならないときでしたから。だから主はヨシュアに「立て。」と仰せられたのです。そのときそこには不従順、盗み、隠し事があったのです。そのような場合があった場合、もはや祈ることは意味がない。</font>
私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。いかに多くの不従順を告白しなくてはならないことではないでしょうか。また、何と多くの盗みを犯したことでしょう。自分の名誉を人にまさって誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人に良く思われたがったりすることなどは全て盗みである。と聖書は言っています。なぜならば全ての誉れと栄光とは、ただ主にのみ帰せられるべきであると聖書は言っているからです。
また何と多くの隠し事、偽り、偽善などを行なっていることでしょうか。もしそうすると、敬虔な形をしていてもその実を否定する者になるのです。また、出エジプト記の14章15節を見ると、似ている個所があります。14章15節。
・主はモーセに仰せられた。
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。
イスラエル人に前進するように言え。
モーセは主に叫びました。そして主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」確かに主に叫ぶべき時があるけれど、このときは叫ぶべき時ではなくして、主は全き従順を待ち望んでおられたのです。
今まで述べたことを通して、私たちは自分の思いや自分の行ないがいかに主の思いとみわざとから離れており、違っているものであるかということを知ることができるのです。私たちは祈るべき時に眠ってしまう。
罪を告白し、光の中に明らかにしなくてはならない時に私たちは祈り始める。また、主が私たちの従順を待っておられる時に私たちは主に叫んでしまう。何と愚かな目の見えない者なのでしょうか。これらの事実を詳らかに知ることができたならば、主がいかに忍耐を持ち、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気が付くのです。
ちょっと違う意味で主の恵みをほめたたえるようになるのではないでしょうか。<font color=red>私たちが祈らなければならない時に眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなければならない時に祈り始めたがり、主に従順にならなければならない時に叫び出したりするならば、その時にはもはや主との交わりを持つことができないことを知らなければなりません。これらの事がらは、私たちが主と結び付いていないことの証拠です。</font>
その時には主との生きる交わりもなく、また御霊による導きも存在していない。私たちが罪を光の中にさらけ出し、それを主のみもとに偽らずに、ありのままに差し出すことをしなければ祈ることも主に呼ばわることも何の価値もない者です。
私たちが全く妥協せずに主に従うならば、必ず主は応えてくださいますが、そうでなければ、主は決してお応えになりません。
ちょっとヨナ書に戻りまして、ヨナ書の4章の11節を見ると次のように書かれています。1392ページです。
・まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、
数多くの家畜とがいるではないか。
≪略≫
主はニネベに住む人たちに対して無関心ではなかったのです。だから預言者ヨナは遣わされました。
このヨナとは預言者と呼ばれ、主のしもべと呼ばれたのです。主よ。お話しください。しもべは聞いております。すなわち、しもべは従うつもりです。あなたのみこころだけを行ないたいのです。この心構えこそがいわゆる預言者たちの態度でした。
預言者たちは自分で色々なことを考えたり、勉強したり、そして結果として全てをまとめて話したのではない。預言者たちは主の口として用いられた器にすぎなかったのです。主はこういうふうに語られ、これを宣べ伝え。と命令なさったから、彼らは命令どおりに行なった。主からのことばを宣べ伝えただけでした。
預言者であるしもべたちにとって大切であったのは、自分で考えることではなく、従順に従うことでした。確かに預言者たちはみなイスラエルのために遣わされた者でした。けれど例外があったのです。ヨナという預言者は異邦人に、ユダヤ人でない人々に遣わされたのです。
ヨナ書1章の1節からもう一回読みます。
≪略≫
ここで何を書いているかと言いますと、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとした。と書いてあります。いったいなぜヨナは逃げようとしたのでしょうか。なぜ主なる神のしもべであるヨナは、主の顔を避けようとしたのでしょうか。主の使命がヨナにとっては重すぎ、また大きすぎ、また嫌ったためにそれに耐えることが出来なかったからでしょうか。主のしもべであるヨナは、主とは違った考えを持っていたのでしょうか。
預言者は、主が何を望み、何を成そうとしているかを思い計ることができなかったのでしょうか。
・アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
ヨナに主のみことばが与えられたことがわかります。主のみことばは一つの事実であり、行ないであり、また出来事です。主のみことばが望んでおられることはヨナに対して行なうこと、ヨナとともに行なうこと。ヨナを通して行なうことでした。
・「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。
彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
と主はヨナに命じておられました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます