≪略≫
一つのことがはっきりしています。
われわれの不信仰のために、イエス様は今までにあまり多くのことを成すことができなかったということです。信ずる者はだいたい言い訳として、見向きもしない、聞く耳がない。心を頑なにしていると言います。もしかすると主の目から見ると違うかもしれない。信ずる者の不信仰のゆえに主は働くことができないという可能性が多いのではないでしょうか。
われわれの心からの願いはいったい何なのでしょうか。イエス様をよりよく知りたいのでしょうか。本当の祈る人になりたいのでしょうか。そのための道は私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。私たちがそれをすると、もちろん自分の無力さを感じますし、祈らざるを得なくなります。そうしたらイエス様をすばらしく、よりよく知ることができるようになります。祈りの聞き手として。
≪略≫
聖書を見ると、驚くべきことばがよく出てきます。ひとつは、イザヤ書の55章、だいたいみな暗記していることばではないかと思いますけれど、1117ページです。毎日覚えるべきことばではないかと思います。1117ページ。55章の8節と9節です。
・「わたしの思いは、あなたがた(信ずる者)の思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
― 主の御告げ。―
・ 天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
この個所は、私たちイエス様を信ずる者とイエス様の間には、何らの結び付きも存在しないということを明らかに示しております。私たち信ずる者の思いは常に主の思いと対立している。
多くの兄弟姉妹は喜んで証しをします。すなわち、私はそむきの罪を犯す者だった。私は羊のように迷った者だった。私は自分勝手な道に向かう者だった。と言いますけれど、今もそうではないでしょうか。
イザヤ書の43章の24節の後半を見ると、主は次のように言っています。
・あなたはあなたの罪で、わたしに苦労をさせ、
あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
とあります。
けれど過去だけではなく、今もそうではないでしょうか。
なおもひとつの驚くべきことばがヨハネ伝の6章63節です。短いことばですけれど。
・いのちを与えるのは御霊です。
肉は何の益ももたらしません。肉とは人間の知恵、人間の力、人間の努力です。この個所は原典を見ると、二重否定になっていることがわかります。この訳は、どこのところがあんまりよく表わされていないかもしれないけれど、原典には、忠実に二重否定の表現を使うならば、肉は決して何の益ももたらしません。というような具合に表現できるでしょう。
全ての思いや行ないというものは全く何の価値ももっていないということです。つまりことばを変えて言うならば、御霊の働きによらないものは全て、人間から出ているものであり。ということです。全て人間的なものはこの世的なものであり、悪魔的であると聖書は言っているのです。<font color=red>初めは御霊で始まったにも関わらず、肉によって完成されるという信者が少なくないのではないでしょうか。
イスラエルの初めての王であるサウルは、肉によって完成された信者でした。彼は初めて主を第一にしたし、人間のことは別にどうでもいい。主に従いたいという気持ちでいっぱいだったけれど、あとで主よりも自分のことを考えて、彼の信ずるものの最後は悲劇的でした。</font>自殺してしまったのです。
ガラテヤの信者たちも同じような危険に陥る可能性が非常に強かったことがわかります。ガラテヤ書の3章の3節を見ると、パウロは愛をもったけれど心配しながら彼らに次のように書いたのです。335ページです。ガラテヤ書3章3節。
・あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。
御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
<font color=red>ですから、御霊で始まることだけが大切なのではなく、むしろ御霊によって歩むことが大切です。</font>5章16節。
・私は言います。御霊によって歩みなさい。
そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
25節。
・もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
私たちが主の光の中にわれわれの生活を見ることができ、自分の目が見えないことに驚き、心からの悔い改めをすることによって主の豊かな祝福にあずかることができるように、心から切に乞い願い求めます。何としばしば私たちは絶対的に悪いとは思わないけれど、主のみこころに反することをしているのではないでしょうか。
かつてイエス様は弟子たちに言いました。なかなかいいことばです。しばらく休みなさい。ちょっとゆっくりして。人が休むべき時間というものは確かにある。
けれどそれと同時にイエス様は同じ弟子たちにまた何と言ったかと言いますと、まだ眠って休んでいるのか。
しばらく休みなさい。まだ眠って休んでいるのか。もちろんその二番目のときは、眠ったり休んだりしているときではなく、目を覚まして祈り続けなければならないときでした。
一つのことがはっきりしています。
われわれの不信仰のために、イエス様は今までにあまり多くのことを成すことができなかったということです。信ずる者はだいたい言い訳として、見向きもしない、聞く耳がない。心を頑なにしていると言います。もしかすると主の目から見ると違うかもしれない。信ずる者の不信仰のゆえに主は働くことができないという可能性が多いのではないでしょうか。
われわれの心からの願いはいったい何なのでしょうか。イエス様をよりよく知りたいのでしょうか。本当の祈る人になりたいのでしょうか。そのための道は私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。私たちがそれをすると、もちろん自分の無力さを感じますし、祈らざるを得なくなります。そうしたらイエス様をすばらしく、よりよく知ることができるようになります。祈りの聞き手として。
≪略≫
聖書を見ると、驚くべきことばがよく出てきます。ひとつは、イザヤ書の55章、だいたいみな暗記していることばではないかと思いますけれど、1117ページです。毎日覚えるべきことばではないかと思います。1117ページ。55章の8節と9節です。
・「わたしの思いは、あなたがた(信ずる者)の思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
― 主の御告げ。―
・ 天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
この個所は、私たちイエス様を信ずる者とイエス様の間には、何らの結び付きも存在しないということを明らかに示しております。私たち信ずる者の思いは常に主の思いと対立している。
多くの兄弟姉妹は喜んで証しをします。すなわち、私はそむきの罪を犯す者だった。私は羊のように迷った者だった。私は自分勝手な道に向かう者だった。と言いますけれど、今もそうではないでしょうか。
イザヤ書の43章の24節の後半を見ると、主は次のように言っています。
・あなたはあなたの罪で、わたしに苦労をさせ、
あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
とあります。
けれど過去だけではなく、今もそうではないでしょうか。
なおもひとつの驚くべきことばがヨハネ伝の6章63節です。短いことばですけれど。
・いのちを与えるのは御霊です。
肉は何の益ももたらしません。肉とは人間の知恵、人間の力、人間の努力です。この個所は原典を見ると、二重否定になっていることがわかります。この訳は、どこのところがあんまりよく表わされていないかもしれないけれど、原典には、忠実に二重否定の表現を使うならば、肉は決して何の益ももたらしません。というような具合に表現できるでしょう。
全ての思いや行ないというものは全く何の価値ももっていないということです。つまりことばを変えて言うならば、御霊の働きによらないものは全て、人間から出ているものであり。ということです。全て人間的なものはこの世的なものであり、悪魔的であると聖書は言っているのです。<font color=red>初めは御霊で始まったにも関わらず、肉によって完成されるという信者が少なくないのではないでしょうか。
イスラエルの初めての王であるサウルは、肉によって完成された信者でした。彼は初めて主を第一にしたし、人間のことは別にどうでもいい。主に従いたいという気持ちでいっぱいだったけれど、あとで主よりも自分のことを考えて、彼の信ずるものの最後は悲劇的でした。</font>自殺してしまったのです。
ガラテヤの信者たちも同じような危険に陥る可能性が非常に強かったことがわかります。ガラテヤ書の3章の3節を見ると、パウロは愛をもったけれど心配しながら彼らに次のように書いたのです。335ページです。ガラテヤ書3章3節。
・あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。
御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
<font color=red>ですから、御霊で始まることだけが大切なのではなく、むしろ御霊によって歩むことが大切です。</font>5章16節。
・私は言います。御霊によって歩みなさい。
そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
25節。
・もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
私たちが主の光の中にわれわれの生活を見ることができ、自分の目が見えないことに驚き、心からの悔い改めをすることによって主の豊かな祝福にあずかることができるように、心から切に乞い願い求めます。何としばしば私たちは絶対的に悪いとは思わないけれど、主のみこころに反することをしているのではないでしょうか。
かつてイエス様は弟子たちに言いました。なかなかいいことばです。しばらく休みなさい。ちょっとゆっくりして。人が休むべき時間というものは確かにある。
けれどそれと同時にイエス様は同じ弟子たちにまた何と言ったかと言いますと、まだ眠って休んでいるのか。
しばらく休みなさい。まだ眠って休んでいるのか。もちろんその二番目のときは、眠ったり休んだりしているときではなく、目を覚まして祈り続けなければならないときでした。
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