風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

メッセージ:岡本雅文兄 1月1日(於:吉祥寺)

2005-01-05 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
 先日、ML「広場」に、標記メッセージが、聞き取り&UPされました。 PCが壊れてから、MLのメールはサイトまで読みに行ってますが、そうすると、メッセージをわざわざ読む機会がぐんと減りました。 メールでダイレクトに受け取っていた頃は、全文でなくとも(もちろん時には全文)メッセージに目を留めることができたので、自分にとって大切な、”今”必要なメッセージに絶えず触れることができましたが、しかし…。 メッセージをダイレクトに受け取るようにすると、またPCが固まりやすくなるのではないかと懸念しているのです。 それと、何につけ「捨てる」ことが出来ない性分なため、受信後のメールの管理が出来なくて、メールの洪水の中でアップアップしそうだなという思いもあります。
 そんな状況の現在の私に、神様が読ませてくださるチャンスをくださった数少ないメッセージの一つですが、皆さんにも是非ご紹介したく、コピペさせて戴きます。 (後ほどK兄が「メッセージ集」に保管してくださると思いますが。)


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    メッセージ:岡本雅文兄2005年 1月1日(於:吉祥寺)

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創世記12章124節

 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

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あらためて、ほんとうに本年もよろしくお願い致します。主なる神に選ばれた家族ですから、ほんとうによろしくと思っております。

わたしは、今日が、特別に大事な日と思っているわけではありません。それは、パウロがローマ人への手紙の14章の5節に書いてあるとおり、

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

このみことばを心に留めますが、しかしそれでも、こうして、年の初めにともに集って思いを新たにすると言うことは、主イエス様が喜んでくださると思っています。忘れやすい私たちに時を与えてくださっているんだなーと思います。

こうして夕があり朝があった第一日。聖書を開くと第1ページにこの言葉が記されています。時も聖書の神の支配のうちにあるんだと思うのです。私たちの感情や願いをはるかに越えた主の支配に今年、1年目を向けて行きたいと願っています。


先ほど、読んだようにアブラハムは、神の支配のうちに生きる幸いを、私たちにみことばをもって告げていると思うのですね。アブラハムは、主がお告げになった通りに出かけた。このひとことが、すべてを告げているように思います。

この言葉の奥に潜められたみことばが、聖書の初めから終わりまで貫かれている、そのような呼びかけであると、思うのです。

はじめであり、終わりである。いつも、はじめから、最後の言葉を一貫して語っている。
聖書の終わりに近いヘブル書の著者はつぎのように証しています。ヘブルの11章の8節です。

11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

創世記のはじめに書かれたアブラハムのこの物語は、どこに行くのかを知らないで出て行ったと聖書の最後に近くなって、聖書が、聖書を説明しています。えりをただされる凛としたみことばであります。しかし、このみことばを、自分流に理解して出て行く事も留めてもらいたいと願っています。


モーセも同じように、主なる神の支配のうちを歩むようになりました。
へブル11章27節。

11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

彼もどこに行くのかを知らないで、目に見えない方を見るようにして出て行ったと聖書は告げてくださっています。きょう、私たちも彼らと同じように主にあって、新しい地に出て行きたいと願ってつどったのではないかと思うのです。


昨年の最後の日の日々のみことばは、「占領すべき地がたくさん残っている。」ヨシュア13章1節でした。

13:1 ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。


アブラハム、モーセ、ヨシュアと同じように私たちにとって占領すべき土地とは従う恵み、耐え忍ぶ恵みの溢れる地ではないかと思いました。この地を、占領するために、みことばが与えられているんだなーと思うのです、約束の地、乳と蜜との流れる地、従う恵みの溢れる地、耐え忍ぶ恵みの溢れる地、耐え忍ぶ喜びの溢れる地。

その地を占領すべき具体的な視点を少しだけ学んで、終わりたいと思います。私にとって、日々の歌の104番は、忘れられない賛美でありますけれども、その5節の歌詞に、

    ♪生きるも、死ぬもただ主のため、、

と言う言葉があります。この箇所は、パウロがピリピの兄姉に送った手紙をも思い出させてくれます。私にとって、生きる事はキリスト、死ぬことも、また益です。

ピリピ1章21節
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

この箇所を歌うたびに、心を探られて参りました。あまりにも深く、心を探られる箇所でありました。自分の現実と考えると、あまりにも違うと考えさせられた言葉であります。こんなにも深い言葉を、こんなに簡単に使っているのかと思わされました。もっと、もっと一字一句みことばを味わいたいなーと今年は ほんとうに思っております。

主と深く交わりを持ちたい。そう願うように導かれてきました。みことばの前にへりくだる喜びを毎日、与えられたいなーと、兄弟姉妹とひとつになって、今年、新年を

歩ませて頂きたいと思っています。


どんな者であっても、ほんとうに、どんな者であっても、願い求める者には、必ず主の憐れみがあること。必ず聖霊が導いてくださること。そして、一本の木が、十字架がその証しであることを心にきずんで、イエス様が今日来てくださるかもしれないと、一日、一日、覚えて歩むことができれば幸いであります。

最後に二箇所読んで終わります。

出エジプト15章25節
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。


出エジプト40章36-38節
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。


ありがとうございました。
どうぞ、本年もよろしくお願いします。


                  了


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 私に印象深く残った言葉は、「従う恵み、耐え忍ぶ恵みの溢れる地」という箇所です。 仕事、に、ここを重ね合わせて読みました。 仕事によって与えられるさまざまな試練。それは単に苦しいのではなくて、耐え忍び、神様に従う訓練のために与えられた恵み、と思いました。この地(職場)は、神様の恵みの地なんだと思いました。


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