今度はルカの福音書の24章13節から16節。・・・・・新約の155ページですけれども。イエス様が求めていらっしゃること。それは神とともに歩むということであります。
このルカの24章にはよみがえったイエス様がふたりの弟子とともに歩まれた様子が描かれております。24章の15節にありましたけれども、
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、
イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
というふうにあります。
主イエス様ご自身が近づいてくださって、彼らとともに道を歩いておられた。
16節。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
神とともに歩んでいた。
イエス様ご自身が近づいて、私たちとともに歩んでくださっているにも関わらず、私たちの霊の目がさえぎられて、イエス様がともに歩んでくださることをわからない。これは私たちに対する警告ではないかと思うのです。
私たちは意識してイエス様を見ようとしなければ、イエス様がいっしょに歩いてくださっているにも関わらず、それに気付くことができないということではないかと思うのです。イエス様の弟子たちは、イエス様がまだ十字架に架けられる前、約三年の間、イエス様とともに過ごしたというふうに言われております。
その間、イエス様は何度も自分が十字架に架けられて、葬られて、そして三日目によみがえるという話をしたのですけれども、弟子たちはそのことの意味がよく分からなかったようなのです。もし弟子たちがイエス様のことばを本気で受け入れて、信じていたなら、イエス様が十字架に架けられて葬られた後、墓の前でじっとイエス様がよみがえるのを待っていてもよかったと思うのですけれども、残念ながらそういうことをした弟子はひとりもいなかったということなのです。
残念ながら、だれも本気でイエス様の言ったことを信じた人はいなかった。このふたりの弟子たちもそうだったのです。ですからイエス様が自分たちとともに歩んでいても、それがイエス様だということが分からなかったというのです。これは私たちに対する警告であります。
私たちもイエス様のみことばをそのまま信じ、受け入れるという態度を取らなければ、イエス様が私たちとともに歩んでくださっても、そのことに気が付かないで、過ぎてしまうということではないかと思うのです。24章の25節。
25 するとイエスは言われた。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」
これがイエス様の嘆きであります。
預言者たちの言ったすべてを信じないというのは、旧約聖書に書いてあること全体をそのまま信じない。すなわち、ある部分については信じるけれども、ある部分については信じない。そういうことであります。
多くの人間は、聖書を読んでこの部分については信じるけれども、この部分については信じない。これは単なる作り話であるというふうに考えます。けれども私たちがそのような態度を取る限り、私たちは聖書よりも自分自身の考えを優先しているということなのです。
自分自身の経験や知識に基づいて、聖書を取捨選択する、みことばを取捨選択するということは、私たちのほうをみことばよりも、あるいは聖書よりも上に置いている立場であります。私たちは「主イエス様。」と言っても、実は本当の主はイエス様ではなくて、私たち自身だということなのです。
私たちがそういう態度を取っている限り、イエス様が私たちとともに歩んでくださっているということを私たちの霊の目で見ることはできないということなのです。
もう一個所。ヨハネの福音書の11章をお開きになってください。新約の184ページですけれども。このヨハネの11章にはラザロとマリヤとマルタの話が出てまいります。このラザロという人が病気にかかってしまって、その病をいやしていただくためにイエス様を呼ぶのですけれども、イエス様はすぐに来てくださらなかったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・
すなわちイエス様は過去でもなく未来でもなく、今この瞬間、よみがえりのいのちをもって私たちを満たしてくださるということなのです。私たちの関心は過去に向かったり、あるいは将来に向かったりしますけれども、大切なことは現在、今この瞬間、主イエス様のいのちが私たちを満たしているという事実ではないかと思うのです。
主イエス様とともに歩むということは現在の問題であります。過去でもない、未来でもない、今私たちがイエス様とともに歩んでいるかどうか。イエス様のいのちに満たされて、イエス様のよみがえりのいのちによって生きているかどうか。
そのことが私たちに問われているということであります。次のページの40節。
40 イエスは彼女に言われた。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、
とわたしは言ったではありませんか。」
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。私たちが公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むならば、あなたは神の栄光を見ることができるとイエス様は約束してくださっているのではないかと思います。今日はミカ書の6章の8節からごいっしょに学ばせていただきました。どうもありがとうございました。
了
このルカの24章にはよみがえったイエス様がふたりの弟子とともに歩まれた様子が描かれております。24章の15節にありましたけれども、
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、
イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
というふうにあります。
主イエス様ご自身が近づいてくださって、彼らとともに道を歩いておられた。
16節。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
神とともに歩んでいた。
イエス様ご自身が近づいて、私たちとともに歩んでくださっているにも関わらず、私たちの霊の目がさえぎられて、イエス様がともに歩んでくださることをわからない。これは私たちに対する警告ではないかと思うのです。
私たちは意識してイエス様を見ようとしなければ、イエス様がいっしょに歩いてくださっているにも関わらず、それに気付くことができないということではないかと思うのです。イエス様の弟子たちは、イエス様がまだ十字架に架けられる前、約三年の間、イエス様とともに過ごしたというふうに言われております。
その間、イエス様は何度も自分が十字架に架けられて、葬られて、そして三日目によみがえるという話をしたのですけれども、弟子たちはそのことの意味がよく分からなかったようなのです。もし弟子たちがイエス様のことばを本気で受け入れて、信じていたなら、イエス様が十字架に架けられて葬られた後、墓の前でじっとイエス様がよみがえるのを待っていてもよかったと思うのですけれども、残念ながらそういうことをした弟子はひとりもいなかったということなのです。
残念ながら、だれも本気でイエス様の言ったことを信じた人はいなかった。このふたりの弟子たちもそうだったのです。ですからイエス様が自分たちとともに歩んでいても、それがイエス様だということが分からなかったというのです。これは私たちに対する警告であります。
私たちもイエス様のみことばをそのまま信じ、受け入れるという態度を取らなければ、イエス様が私たちとともに歩んでくださっても、そのことに気が付かないで、過ぎてしまうということではないかと思うのです。24章の25節。
25 するとイエスは言われた。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」
これがイエス様の嘆きであります。
預言者たちの言ったすべてを信じないというのは、旧約聖書に書いてあること全体をそのまま信じない。すなわち、ある部分については信じるけれども、ある部分については信じない。そういうことであります。
多くの人間は、聖書を読んでこの部分については信じるけれども、この部分については信じない。これは単なる作り話であるというふうに考えます。けれども私たちがそのような態度を取る限り、私たちは聖書よりも自分自身の考えを優先しているということなのです。
自分自身の経験や知識に基づいて、聖書を取捨選択する、みことばを取捨選択するということは、私たちのほうをみことばよりも、あるいは聖書よりも上に置いている立場であります。私たちは「主イエス様。」と言っても、実は本当の主はイエス様ではなくて、私たち自身だということなのです。
私たちがそういう態度を取っている限り、イエス様が私たちとともに歩んでくださっているということを私たちの霊の目で見ることはできないということなのです。
もう一個所。ヨハネの福音書の11章をお開きになってください。新約の184ページですけれども。このヨハネの11章にはラザロとマリヤとマルタの話が出てまいります。このラザロという人が病気にかかってしまって、その病をいやしていただくためにイエス様を呼ぶのですけれども、イエス様はすぐに来てくださらなかったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・
すなわちイエス様は過去でもなく未来でもなく、今この瞬間、よみがえりのいのちをもって私たちを満たしてくださるということなのです。私たちの関心は過去に向かったり、あるいは将来に向かったりしますけれども、大切なことは現在、今この瞬間、主イエス様のいのちが私たちを満たしているという事実ではないかと思うのです。
主イエス様とともに歩むということは現在の問題であります。過去でもない、未来でもない、今私たちがイエス様とともに歩んでいるかどうか。イエス様のいのちに満たされて、イエス様のよみがえりのいのちによって生きているかどうか。
そのことが私たちに問われているということであります。次のページの40節。
40 イエスは彼女に言われた。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、
とわたしは言ったではありませんか。」
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。私たちが公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むならば、あなたは神の栄光を見ることができるとイエス様は約束してくださっているのではないかと思います。今日はミカ書の6章の8節からごいっしょに学ばせていただきました。どうもありがとうございました。
了
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます