風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

映画「パッション」が語ること・・

2004-05-14 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
  私はもう数年、新聞を取っていない。家族の他の者は、自分でお金をだしてまで読もうとはしない。私は新聞が大好き! でも、切り抜き・スクラップにはまってしまって(何にでもはまってしまうねえ~ ^^;)、隅から隅までタイトルや広告に目を通さずにいられなくなり、手に負えなくなってきて、一時購読を中止しているのだ。このままだと、もう二度と月極めで取ることはないと思う。さびしかったが、解放されてほっとしているのも事実。
  さて__ネットで新聞記事が読めるので、時々気になる記事をクリックしてみるが、ふと、「そうだ、一番好きだった生活とか家庭とかの欄は、やはりネットで読めるのだろうか?」 と、探してみた。__あったとも~。 (^o^) で、さっそく記事を読んでみる。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/news/20040513dde018200011000c.html
映画「パッション」にまつわる話だった。ちょっと期待しつつ読み始めたのだが、記者はこう結んでいる。

<font color=royalblue>★私はこの映画で、当時の状況を知ることができた。これまでキリストはローマ帝国の傲慢(ごうまん)な提督によって十字架にかけられたものとばかり思っていた。ところがこれを見ると、キリストの死を要求する大衆の圧力に耐えかねて、提督はやむをえず処刑の判断を下している。恐るべきは衆愚であり、それはキリストの処刑を求める群集シーンで見事に描かれている。それにしても大衆は愛を説いたキリストをなぜ憎んだのだろうか。★</font>

私もクリスチャンでなかったら、同じ感想を持ったかもしれない。または聖書を読んでいなかったら。
  しかし真実はどうか。
  無実のイエス・キリストが十字架にかかり、殺害されることは、旧約聖書で預言されていたことであり、また、このことがなかったら(人間として下ったイエス様が、神である御父の意思に反し、逃げたり言い訳して十字架刑を免れていたら)、私たち主を信じて従う者が、神様の前に大胆に進み出て祈ることも赦されなかったし、永遠に神様のもとに人間が行くことはできなかった。私のイメージとして、、、イエス様という橋渡しがなかったら、私たちは神様に永遠に赦されることのない存在だった。誰一人として。
  そして更に重要なことは、この映画のシーンの後のできごと。一度死に渡された主イエス・キリストが、預言通り、三日後によみがえられ復活されたこと。一度死んだものが、息をふきかえすことは、この世的にも時に起こることらしい。しかし主のよみがえりは、肉体はもうどこにも存在していなくて、神の姿に戻られた方として復活されたのだ。


注:私は本映画を見ていません…
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