風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

神様のくださる平安の不思議さ・・

2004-02-06 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
今日UPされた 「荒野の食卓」(ウォッチマン・ニー)

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   「それはわたしです」と言われたとき、
   彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
           ヨハネ18.6

 明日はカルバリという晩(注:つまり十字架にイエス・キリストがかかる前の晩)、すべては悪い方へと向かっているように思われました。 密告や否認の憶測は飛び交い、人々(注:弟子たち、または一度はイエスを受け入れた人たち)は隠れ、あるいは逃げたい一心で裸で走り去っていきました。 しかしイエスを連行しようとしてやってきた者たちに向かって 主はいたって穏やかに、そして静かに答えられました。「それはわたしです」。 どぎまぎし、後ろへ倒れたのは彼らの方でした。(注:イエスは 彼らが自分に無実の罪をきせて磔刑にすることを知っていて、自分から名乗り出た。逃げも隠れもせず。。。)

この内面の平安はいつでも主の特徴でした。 主は 嵐のさなかにも眠ることができました。 こらえきれずに押し迫る群衆の中で、信仰によって触れた者を 主は心に留めて、わたしに触ったのは誰かと尋ねることがおできになりました。「わたしの平安」と主は命名されました。
 この平安を「わたしはあなたがたに残します」と主は言われました。 主はそれを取り去りませんでした。 なぜなら主はここにおられるからです。 いにしえの殉教者もまた同様にそれを表明しました。 彼らは拷問を受け、あるいは火で焼かれたかも知れませんが、彼らは自分自身に対して何人も否定し得ない静かな尊厳を有していました。 そうです。 私たちはどこへ行っても問題に巻き込まれるでしょう。しかし私たちにはまた 主の平安があるのです。 それはパウロが断言しているとおり、人知をはるかに越えているのです。
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