ML広場に さきほど一気にUPがありました この学びの聞き取りを、私も一気に読ませて戴きました。ここに部分的にコピペさせて戴きます。</font>
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引用聖句
(第一テサロニケ4章1節) 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
(ヨハネの福音書15章4節から8節)わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(コロサイ書1章10節)また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
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一月ぶりでしょうかね。もっと長かったかもしれない。ドイツで過ごしたときはホントに祝福されたときだったんです。・・・・・・・・
・・・・・・・私についても非常に感謝になったのは、妹ともゆっくり話し合うことができたんです。 私は日本に来たとき、彼女は4歳だったんです。そうすると、もちろんもう、お互いのこと知らないし、そのあとで色んな面白くないことがあるし、強制的に結婚させられてしまったし、離婚になってしまったし、もう大変だったけど、今回、私は白血病になったこと彼女聞いて、やっぱり召される前に(大笑)ゆっくり話したいと色々な誤解、もちろんあったし、けども一緒に祈ることができたのはホントに感謝でした。
・・・・・・・・・・・今日の主題は、イエスさまを喜ばせよう。というものです。
イエスさまを信じ、また、イエスさまを知るようになった兄弟姉妹は、イエスさま無き人生の無意味さを知るようになりました。また、いかなる努力も尽力も 主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになりました。
・・・・・・・・イエスさまの血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを知るようになったのです。そしてもはやさばかれることがないことも、確信するようになったのです。分かったからじゃない。聖書がそう言ってるからです。
そしてイエスさまを知るようになった兄弟姉妹は、結局イエスさまに喜ばれたいと切に望むようになったのです。・・・・・・・現代人はみな、非常に忙しい毎日を送っています。このことはあのことはどうしても行なわなければならない。ということをみんな知っておられます。私たちもなるほど、このこともあのことも喜んでやりたいと思うけど、どんなに頑張っても時間と力がない。すべてのことをすることはできない。だから私たちはなにが一番大切なことか。と考えることほど大切なのではないでしょうか。
考えて選択しなければならない。最も大切なことは言うまでもなく、主イエスさまを喜ばせることです。・・・・・・・・救われてる人は、イエスさまを喜ばせたい。できるかどうか別です。・・・・・・・・私たちは毎日、私の思いはイエスさまに喜ばれるか。私の言動はイエスさまに喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそ最も大切なことです。
・・・・・・・・・・どうしたら私たちは、愛そのものであられる主イエスさまに喜んでいただくことができるなのでしょうか。イエスさまは光そのものです。けど、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。イエスさまは絶対、聖なるお方ですけど、なんと多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。
・・・・・・・・・父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるなのでしょうか。それは決して主に喜ばれる生涯を受けようと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子主イエスさまが私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。救われたばかりの兄弟姉妹に対して私たちはしばしば、次のように言います。
「今から、すばらしい生活をしようと努力するのをやめてください。どうせできないからです。」
多くの兄弟姉妹は驚いたように、けど、そんなことが要求されてるなのではないか。けどもイエスさまのものになったとしても、イエスさまを喜ばせようとする自分の努力はすべて、敗北から敗北へという結果になるからです。
イエスさまがお生まれになったとき、御使いは次のように告げ知らせました。よくクリスマスのとき読む箇所なんですけど、ルカ伝の2章。・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。・・・・・・・・・・その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、
御心にかなう人々にあるように。」
ま、ここで、御心にかなう人々。という表現が使われています。生きるまことの神が喜んでくださるのは、もちろんただイエスさまだけです。今、主イエスさまが受け入れてくださる方は、主イエスさまのうちにあり、主イエスさまの意によって御心にかなった人間とされています。
けどもそれは自分自身のすばらしさのゆえじゃなくて、ただイエスさまの贖いのゆえにそうされてるだけです。主イエスさまのうちにある者。すなわち、イエスさまと結び付いている者の生涯は、必ず変えられます。すぐには実を結ぶことができないかもしれません。・・・・・・・・・・人間の努力ではない。ぜーんぶ、主の恵みです。
※長いので (2)へ 続けます。
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引用聖句
(第一テサロニケ4章1節) 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
(ヨハネの福音書15章4節から8節)わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(コロサイ書1章10節)また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
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一月ぶりでしょうかね。もっと長かったかもしれない。ドイツで過ごしたときはホントに祝福されたときだったんです。・・・・・・・・
・・・・・・・私についても非常に感謝になったのは、妹ともゆっくり話し合うことができたんです。 私は日本に来たとき、彼女は4歳だったんです。そうすると、もちろんもう、お互いのこと知らないし、そのあとで色んな面白くないことがあるし、強制的に結婚させられてしまったし、離婚になってしまったし、もう大変だったけど、今回、私は白血病になったこと彼女聞いて、やっぱり召される前に(大笑)ゆっくり話したいと色々な誤解、もちろんあったし、けども一緒に祈ることができたのはホントに感謝でした。
・・・・・・・・・・・今日の主題は、イエスさまを喜ばせよう。というものです。
イエスさまを信じ、また、イエスさまを知るようになった兄弟姉妹は、イエスさま無き人生の無意味さを知るようになりました。また、いかなる努力も尽力も 主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになりました。
・・・・・・・・イエスさまの血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを知るようになったのです。そしてもはやさばかれることがないことも、確信するようになったのです。分かったからじゃない。聖書がそう言ってるからです。
そしてイエスさまを知るようになった兄弟姉妹は、結局イエスさまに喜ばれたいと切に望むようになったのです。・・・・・・・現代人はみな、非常に忙しい毎日を送っています。このことはあのことはどうしても行なわなければならない。ということをみんな知っておられます。私たちもなるほど、このこともあのことも喜んでやりたいと思うけど、どんなに頑張っても時間と力がない。すべてのことをすることはできない。だから私たちはなにが一番大切なことか。と考えることほど大切なのではないでしょうか。
考えて選択しなければならない。最も大切なことは言うまでもなく、主イエスさまを喜ばせることです。・・・・・・・・救われてる人は、イエスさまを喜ばせたい。できるかどうか別です。・・・・・・・・私たちは毎日、私の思いはイエスさまに喜ばれるか。私の言動はイエスさまに喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそ最も大切なことです。
・・・・・・・・・・どうしたら私たちは、愛そのものであられる主イエスさまに喜んでいただくことができるなのでしょうか。イエスさまは光そのものです。けど、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。イエスさまは絶対、聖なるお方ですけど、なんと多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。
・・・・・・・・・父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるなのでしょうか。それは決して主に喜ばれる生涯を受けようと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子主イエスさまが私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。救われたばかりの兄弟姉妹に対して私たちはしばしば、次のように言います。
「今から、すばらしい生活をしようと努力するのをやめてください。どうせできないからです。」
多くの兄弟姉妹は驚いたように、けど、そんなことが要求されてるなのではないか。けどもイエスさまのものになったとしても、イエスさまを喜ばせようとする自分の努力はすべて、敗北から敗北へという結果になるからです。
イエスさまがお生まれになったとき、御使いは次のように告げ知らせました。よくクリスマスのとき読む箇所なんですけど、ルカ伝の2章。・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。・・・・・・・・・・その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、
御心にかなう人々にあるように。」
ま、ここで、御心にかなう人々。という表現が使われています。生きるまことの神が喜んでくださるのは、もちろんただイエスさまだけです。今、主イエスさまが受け入れてくださる方は、主イエスさまのうちにあり、主イエスさまの意によって御心にかなった人間とされています。
けどもそれは自分自身のすばらしさのゆえじゃなくて、ただイエスさまの贖いのゆえにそうされてるだけです。主イエスさまのうちにある者。すなわち、イエスさまと結び付いている者の生涯は、必ず変えられます。すぐには実を結ぶことができないかもしれません。・・・・・・・・・・人間の努力ではない。ぜーんぶ、主の恵みです。
※長いので (2)へ 続けます。
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