ML広場にUPされた学びの聞き取りの、部分的コピペの続きです。</font>
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・・・・・・・・・・・・・・まず、主はわれわれの愛を望んでおられます。・・・・・・・申命記の6章5節・・・・・・・イエスさまもあとで何回もこの箇所を引用してくださいました。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。
主の存在を認めなさい。じゃない。主を信じなさい。なのでもない。主を心から愛しなさい。
ご存知のようにイエスさまは、自分の弟子であるペテロに三度同じことを尋ねたのです。すなわち、あなたはわたしを愛するの? イエスさまは今日も私たちのような者に問うておられるなのではないでしょうか。私たちは本当にイエスさまを愛してるなのでしょうか。イエスさまを愛するということはただイエスさまを信ずるということ以上のことです。例えばホセア書の6章の6節なんですけども、主の考えと人間の考えとは、もう根本的に間違ってると分かります。・・・・・・
6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
・・・・・・・・・・主を愛する者は、主がどういうことを喜んでくださるかを知りたいと望んでいます。だからこそ次のことを覚えるべきでしょう。なにかある律法が私たちを導くのではなく、イエスさまに対する愛が私たちを導くべきです。毎日、主よ。私は何をしたらよいなのでしょうか。あなたは何を望んでおられるなのでしょうか。と尋ねましょう。そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。イエスさまに喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味するなのでしょうか。
主イエスさまに喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕で、主イエスさまのために喜んで犠牲を払う備え。そしてまた、自分自身のささげ。自分を否定する備えのできた奉仕です。そういう生涯は、イザヤ書に記されています。58章5節からお読みいたします。
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、
このようなものだろうか。
葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。
これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と喜ぶのか。
私の好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、
しいたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか。
・・・・・・・・・・・・・・
もし、あなたの中から、くびきを除き、
うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、
あなたの光は、やみの中に輝き上り、
あなたの暗やみは、真昼のようになる。
主は言っておられます。一言で言いますと、自己否定が要求されます。すなわち、自我の死、自分自身の願いを捨てること。自分自身の利益を捨てることです。・・・・・・・・・・・・・
第三番目の要求されてるのは、正直な態度を取ることです。正直な態度を通して、主イエスさまが喜んでくださると聖書ははっきり言ってるのです。・・・・・・・・・・
失敗することは別に大変なことではない。けど、曖昧にすること。隠すこと。陰でコソコソする者は悪い。とソロモンははっきり書いたのです。ただ人前だけ、上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。
けどもイエスさまの前に光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはもうできません。・・・・・・・・・私たちはいつも失敗ばかりする者ですけど、イエスさまは何事でもおできになるお方です。主をより頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。・・・・・・・・・・・・
最後にちょっとだけ、みこころにかなう人のひとりを見てみたいと思います。むかーしむかしの人だったのです。アダムからの七代目です。エノクという男でした。エノクとは、みこころにかなう人であった。と聖書は言っています。創世記の5章。彼のことについて次のように書かれています。彼はどうしてみこころにかなう人だったんでしょうか。・・・・・
エノクの一生は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。
神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
・・・・・・・・・・・・
エノクは主に喜ばれる人でした。主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日、毎日主とともに歩むこと。一瞬、一瞬、主と結び付いていることを意味していたのです。結局彼は毎日何十回も、主よ。私はどうしたらいいのー?教えてください。という態度を取ったのです。
信ずるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみより頼むということでもあります。
・・・・・・・・・・・・・・
了
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・・・・・・・・・・・・・・まず、主はわれわれの愛を望んでおられます。・・・・・・・申命記の6章5節・・・・・・・イエスさまもあとで何回もこの箇所を引用してくださいました。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。
主の存在を認めなさい。じゃない。主を信じなさい。なのでもない。主を心から愛しなさい。
ご存知のようにイエスさまは、自分の弟子であるペテロに三度同じことを尋ねたのです。すなわち、あなたはわたしを愛するの? イエスさまは今日も私たちのような者に問うておられるなのではないでしょうか。私たちは本当にイエスさまを愛してるなのでしょうか。イエスさまを愛するということはただイエスさまを信ずるということ以上のことです。例えばホセア書の6章の6節なんですけども、主の考えと人間の考えとは、もう根本的に間違ってると分かります。・・・・・・
6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
・・・・・・・・・・主を愛する者は、主がどういうことを喜んでくださるかを知りたいと望んでいます。だからこそ次のことを覚えるべきでしょう。なにかある律法が私たちを導くのではなく、イエスさまに対する愛が私たちを導くべきです。毎日、主よ。私は何をしたらよいなのでしょうか。あなたは何を望んでおられるなのでしょうか。と尋ねましょう。そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。イエスさまに喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味するなのでしょうか。
主イエスさまに喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕で、主イエスさまのために喜んで犠牲を払う備え。そしてまた、自分自身のささげ。自分を否定する備えのできた奉仕です。そういう生涯は、イザヤ書に記されています。58章5節からお読みいたします。
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、
このようなものだろうか。
葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。
これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と喜ぶのか。
私の好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、
しいたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか。
・・・・・・・・・・・・・・
もし、あなたの中から、くびきを除き、
うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、
あなたの光は、やみの中に輝き上り、
あなたの暗やみは、真昼のようになる。
主は言っておられます。一言で言いますと、自己否定が要求されます。すなわち、自我の死、自分自身の願いを捨てること。自分自身の利益を捨てることです。・・・・・・・・・・・・・
第三番目の要求されてるのは、正直な態度を取ることです。正直な態度を通して、主イエスさまが喜んでくださると聖書ははっきり言ってるのです。・・・・・・・・・・
失敗することは別に大変なことではない。けど、曖昧にすること。隠すこと。陰でコソコソする者は悪い。とソロモンははっきり書いたのです。ただ人前だけ、上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。
けどもイエスさまの前に光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはもうできません。・・・・・・・・・私たちはいつも失敗ばかりする者ですけど、イエスさまは何事でもおできになるお方です。主をより頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。・・・・・・・・・・・・
最後にちょっとだけ、みこころにかなう人のひとりを見てみたいと思います。むかーしむかしの人だったのです。アダムからの七代目です。エノクという男でした。エノクとは、みこころにかなう人であった。と聖書は言っています。創世記の5章。彼のことについて次のように書かれています。彼はどうしてみこころにかなう人だったんでしょうか。・・・・・
エノクの一生は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。
神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
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エノクは主に喜ばれる人でした。主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日、毎日主とともに歩むこと。一瞬、一瞬、主と結び付いていることを意味していたのです。結局彼は毎日何十回も、主よ。私はどうしたらいいのー?教えてください。という態度を取ったのです。
信ずるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみより頼むということでもあります。
・・・・・・・・・・・・・・
了
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