5月13日==================================
それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、
きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」
出エジプト 14.13
右と左を山に遮られ、後ろからは敵、前は海(※)。いつだってこうなればしめたものです。なぜならそのときこそ信仰の出番だからです。 <font color=red>信仰の大きな妨げの一つは信仰が必要とされないこと</font>なのです。<font color=red>もし神があなたの必要なものを恵んでくださるとするなら、神は信仰を恵んでくださることでしょう</font>。信仰はどうしても必要なところでもっともよく働くのです。私たちに語られているところでは、信仰は山をも動かします。一言も蟻塚については語られていません。あなたがみことばを探しても、主が軽い頭痛をお直しになられたという記録を見つけることはできないでしょう。そうです。主は不治の病に取り組みました。問題は、神が私たちに信仰を働かせる機会をお与えになったときに、私たちがあまりにもしばしば信仰を捨ててしまうことなのです。
<font color=red>もし信じると同時に代わりの脱出の道も自分で用意するなら、そんな信心は意味を為しません。どこにも脱出の道がないときにこそ信仰はもっともはっきりと働くのです。ですから、大胆に祈りなさい。</font>イスラエルがそうであったように、海によって遮られるようにと。そうすれば「神はおできになるのか」という不信仰の問いに対し、あなたの個人的な告白として、敢然と断言できるでしょう。
「神はおできになる」と。
※映画「十戒」の中で、海が真ん中から割れるシーンをごらんになりましたか?
5月14日====================================
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。
腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。
これは主への過越のいけにえである。
出エジプト 12.11
血のそそぎは神のためのものでした。血は家の外に塗られ、このおかげで救われた家の中の初子には見ることさえもできなかったのです。そうです。血は神がご覧になるためのものでした。そして神は血を見たらその家を過ぎ越そうと約束されました。神の要求は血で満たされたのです。しかし私たちの必要は祭りの食事で満たされました。家の中ではその血で私たちを守ってくれる羊の肉を常食とする必要があります。羊の肉を常食とすることで私たちは前に置かれた巡礼の旅のために強められることができるのです。いけにえの血によってたといエジプトで守られたとしても、過ぎ越しの肉はエジプトに投降する人々のためのものではありませんでした。<font color=red>過ぎ越しの肉は神とともに脱出し、神とともに行動することが人生の目的であると告白した人々のためのもの</font>でした。<font color=red>私たちについても同様</font>のことが言えます。<font color=red>私たちがキリストのみからだを食するとき</font>、自分たちの必要がキリストの内で満たされていることを発見します。しかし<font color=red>忘れないでいただきたいのです。神の御心のうち、前方に向かって進んでいく心構えを。</font>
5月15日==================================
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
ヘブル6.5
神の国はすぐに来るものであり、そして来ているはずのものなのです(マタイ6.10,同12.28)。時間的には神の国は私たちの将来にあるのであり、経験的には、今現在、神の国は私たちのものです。神は私たちに次に来る世の力の前触れをあちこちで試食するようにとご計画されました。ですから普遍的な真理となるあらゆるものは、今、多少なりとも教会の経験となっていなければなりません。なぜならすべては教会のものだからです。神の国の条件や、永遠のいのちや、永遠の契約や、サタンに対する勝利や、神そして神のキリストの権威やらについてただ知っているだけで何の役に立つのでしょう。これらは単に将来の見通しにとどまらず、ここあそこで現に味見されている力なのです。味見をしてみるとは少しだけ食べることを意味しています。それは祝宴の前の試食会なのです。
<font color=green>私たちはまだ神の国のすべてのごちそうを堪能できません。<font color=red>しかしその香りを嗅ぎ続けているべきなのです。</font></font>霊的な富が求められているところでは、現在だけで生活するのをやめましょう。次に来る世の力は私たちのものです。
5月16日============================
<font color=purple><b>真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。</font></b>
箴言 23.23
<font color=green>嘘には値段がありません。それは安くて</font>巷にあふれています。<font color=red>しかし真理には常に代価がつきまといます。</font>まず<font color=red>第一にへりくだりという代価。</font>なぜならへりくだりは神が従順な人々に与えてくださった光だからです。もし私たちが自分自身を低くするという代価で真理を買う用意が為されていないなら、真理は手中にできません。そして忍耐には代価が必要です。性急な判断やせっかちな決定は、神に仕え、神を待ち望む人々に与えられる神の光とは無縁のものです。そして決定的なことですが、服従には代価が必要です。「誰でも自分の思いを為そうとするなら、その人は知らねばならない」。<font color=green>もし私たちが神のみ心と神の方法を知ろうとするなら、服従が不可欠なのは疑念の余地がありません。</font><font color=red>私たちの信仰は廉価版で、代価を払わないほど安易なのでしょうか。それとも神の真理によって、どんなに大きな代価であろうとも、その真理の上に信仰を建て上げていただく心積りができているのでしょうか。</font>
5月17日=============================
信じた私たちは安息にはいるのです。 ヘブル4.3
仕事の次に安息があります。<font color=red>どう見ても仕事が満足のいくところまでできて初めて安息は可能になります。</font>神が創造の6日間の後に休まれたことはどうでもいいことではありません。必ずやり遂げられるこの神が、躍動感にあふれたこの神が、どうして休むことができたのでしょうか、と私たちは尋ねるかもしれません。
創世記1章31節にはこの理由が記されています。<font color=purple>「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」</font>。神はご自身の喜びとなるものを造り上げられたのです。神の御心にかなったものが実現されていました。目的は達成されたのです。安息によって神はご自身の承認を宣言しました。
今日、<font color=green>キリストにある神の安息を私たちが神とともにあずかるようにと神は招いておられます。もう一つのみわざが完成されました。新たにもたらされた創造です。神の御心は実現されました。そして更なる実現は不必要であり、不可能です。</font><font color=red>自分たちのがんばりをやめて、キリストの内に私たちがすべてを満足するときに、私たちは神の安息にはいるのです。</font>
5月18日===================================
すると何人かの者が憤慨して互いに言った。
「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
マルコ 14.4
無駄とは何でしょうか。ほかの場合でしたら、無駄とは必要とされている以上のものを費やすことです。千円ですむところを一万円払ったとすれば、無駄です。50グラムですむところを1キログラム使えば、それは無駄です。3日で十分仕上げられる仕事に5日も1週間も費やせば、無駄です。無駄とはあまりにも少ないところにあまりにも多くのものを与えることです。もし誰かが分不相応と思われるものを受け取れば、それは無駄です。12弟子さえこの女性の犠牲は度を超していると思いました。もちろん<font color=red>ユダ</font>にとっても、この男は<font color=red>一度もイエスを「主」と呼びませんでした</font>が、主に注がれるものはすべて無駄だったのです。それはちょうどこの今日の世界が、神の奉仕への私たちの献身を、まるで無駄なことだとみなすのと同じです。しかし<font color=red>ひとたび神が私たちの目を主イエスの真の価値へ開かせてくださるなら、主イエスにもったいないものは一つもなくなります。</font>
5月19日====================================
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、
これらのことをあなたがたにあかしした。
わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。
黙示 22.16
この黙示録はイエスキリストの啓示を明らかにするものです。主を明らかにするためにおおいは取りのけられました。その第一義の目的は、私たちを啓蒙して、来るべき事柄__反キリスト、比喩としてのローマ帝国の再興、聖徒の至福、千年王国またはサタンの最終追放--に注意を払うようにすることではありません。私たちの災難に対するヨハネの救済策は、たくさんの封印やラッパや鉢とは無関係です。実際のところ、黙示録は私たちの知的好奇心を満たすためのものでは全くなく、キリストご自身が余すところなく啓示されることにより、私たちの霊的な要求が満たされ、私たちが神を知るようになることにその目的が置かれているのです。キリストこそ私たちのすべての疑問の解答です。まず主を明らかにしていただきなさい。そうすれば「来るべき事柄」について知らねばならないことはなんでも知ることができるでしょう。主イエスこそ高く引き上げられた勝利の王の王。次に続くすべての出来事は、主が王の王であられる結果です。
それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、
きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」
出エジプト 14.13
右と左を山に遮られ、後ろからは敵、前は海(※)。いつだってこうなればしめたものです。なぜならそのときこそ信仰の出番だからです。 <font color=red>信仰の大きな妨げの一つは信仰が必要とされないこと</font>なのです。<font color=red>もし神があなたの必要なものを恵んでくださるとするなら、神は信仰を恵んでくださることでしょう</font>。信仰はどうしても必要なところでもっともよく働くのです。私たちに語られているところでは、信仰は山をも動かします。一言も蟻塚については語られていません。あなたがみことばを探しても、主が軽い頭痛をお直しになられたという記録を見つけることはできないでしょう。そうです。主は不治の病に取り組みました。問題は、神が私たちに信仰を働かせる機会をお与えになったときに、私たちがあまりにもしばしば信仰を捨ててしまうことなのです。
<font color=red>もし信じると同時に代わりの脱出の道も自分で用意するなら、そんな信心は意味を為しません。どこにも脱出の道がないときにこそ信仰はもっともはっきりと働くのです。ですから、大胆に祈りなさい。</font>イスラエルがそうであったように、海によって遮られるようにと。そうすれば「神はおできになるのか」という不信仰の問いに対し、あなたの個人的な告白として、敢然と断言できるでしょう。
「神はおできになる」と。
※映画「十戒」の中で、海が真ん中から割れるシーンをごらんになりましたか?
5月14日====================================
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。
腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。
これは主への過越のいけにえである。
出エジプト 12.11
血のそそぎは神のためのものでした。血は家の外に塗られ、このおかげで救われた家の中の初子には見ることさえもできなかったのです。そうです。血は神がご覧になるためのものでした。そして神は血を見たらその家を過ぎ越そうと約束されました。神の要求は血で満たされたのです。しかし私たちの必要は祭りの食事で満たされました。家の中ではその血で私たちを守ってくれる羊の肉を常食とする必要があります。羊の肉を常食とすることで私たちは前に置かれた巡礼の旅のために強められることができるのです。いけにえの血によってたといエジプトで守られたとしても、過ぎ越しの肉はエジプトに投降する人々のためのものではありませんでした。<font color=red>過ぎ越しの肉は神とともに脱出し、神とともに行動することが人生の目的であると告白した人々のためのもの</font>でした。<font color=red>私たちについても同様</font>のことが言えます。<font color=red>私たちがキリストのみからだを食するとき</font>、自分たちの必要がキリストの内で満たされていることを発見します。しかし<font color=red>忘れないでいただきたいのです。神の御心のうち、前方に向かって進んでいく心構えを。</font>
5月15日==================================
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
ヘブル6.5
神の国はすぐに来るものであり、そして来ているはずのものなのです(マタイ6.10,同12.28)。時間的には神の国は私たちの将来にあるのであり、経験的には、今現在、神の国は私たちのものです。神は私たちに次に来る世の力の前触れをあちこちで試食するようにとご計画されました。ですから普遍的な真理となるあらゆるものは、今、多少なりとも教会の経験となっていなければなりません。なぜならすべては教会のものだからです。神の国の条件や、永遠のいのちや、永遠の契約や、サタンに対する勝利や、神そして神のキリストの権威やらについてただ知っているだけで何の役に立つのでしょう。これらは単に将来の見通しにとどまらず、ここあそこで現に味見されている力なのです。味見をしてみるとは少しだけ食べることを意味しています。それは祝宴の前の試食会なのです。
<font color=green>私たちはまだ神の国のすべてのごちそうを堪能できません。<font color=red>しかしその香りを嗅ぎ続けているべきなのです。</font></font>霊的な富が求められているところでは、現在だけで生活するのをやめましょう。次に来る世の力は私たちのものです。
5月16日============================
<font color=purple><b>真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。</font></b>
箴言 23.23
<font color=green>嘘には値段がありません。それは安くて</font>巷にあふれています。<font color=red>しかし真理には常に代価がつきまといます。</font>まず<font color=red>第一にへりくだりという代価。</font>なぜならへりくだりは神が従順な人々に与えてくださった光だからです。もし私たちが自分自身を低くするという代価で真理を買う用意が為されていないなら、真理は手中にできません。そして忍耐には代価が必要です。性急な判断やせっかちな決定は、神に仕え、神を待ち望む人々に与えられる神の光とは無縁のものです。そして決定的なことですが、服従には代価が必要です。「誰でも自分の思いを為そうとするなら、その人は知らねばならない」。<font color=green>もし私たちが神のみ心と神の方法を知ろうとするなら、服従が不可欠なのは疑念の余地がありません。</font><font color=red>私たちの信仰は廉価版で、代価を払わないほど安易なのでしょうか。それとも神の真理によって、どんなに大きな代価であろうとも、その真理の上に信仰を建て上げていただく心積りができているのでしょうか。</font>
5月17日=============================
信じた私たちは安息にはいるのです。 ヘブル4.3
仕事の次に安息があります。<font color=red>どう見ても仕事が満足のいくところまでできて初めて安息は可能になります。</font>神が創造の6日間の後に休まれたことはどうでもいいことではありません。必ずやり遂げられるこの神が、躍動感にあふれたこの神が、どうして休むことができたのでしょうか、と私たちは尋ねるかもしれません。
創世記1章31節にはこの理由が記されています。<font color=purple>「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」</font>。神はご自身の喜びとなるものを造り上げられたのです。神の御心にかなったものが実現されていました。目的は達成されたのです。安息によって神はご自身の承認を宣言しました。
今日、<font color=green>キリストにある神の安息を私たちが神とともにあずかるようにと神は招いておられます。もう一つのみわざが完成されました。新たにもたらされた創造です。神の御心は実現されました。そして更なる実現は不必要であり、不可能です。</font><font color=red>自分たちのがんばりをやめて、キリストの内に私たちがすべてを満足するときに、私たちは神の安息にはいるのです。</font>
5月18日===================================
すると何人かの者が憤慨して互いに言った。
「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
マルコ 14.4
無駄とは何でしょうか。ほかの場合でしたら、無駄とは必要とされている以上のものを費やすことです。千円ですむところを一万円払ったとすれば、無駄です。50グラムですむところを1キログラム使えば、それは無駄です。3日で十分仕上げられる仕事に5日も1週間も費やせば、無駄です。無駄とはあまりにも少ないところにあまりにも多くのものを与えることです。もし誰かが分不相応と思われるものを受け取れば、それは無駄です。12弟子さえこの女性の犠牲は度を超していると思いました。もちろん<font color=red>ユダ</font>にとっても、この男は<font color=red>一度もイエスを「主」と呼びませんでした</font>が、主に注がれるものはすべて無駄だったのです。それはちょうどこの今日の世界が、神の奉仕への私たちの献身を、まるで無駄なことだとみなすのと同じです。しかし<font color=red>ひとたび神が私たちの目を主イエスの真の価値へ開かせてくださるなら、主イエスにもったいないものは一つもなくなります。</font>
5月19日====================================
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、
これらのことをあなたがたにあかしした。
わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。
黙示 22.16
この黙示録はイエスキリストの啓示を明らかにするものです。主を明らかにするためにおおいは取りのけられました。その第一義の目的は、私たちを啓蒙して、来るべき事柄__反キリスト、比喩としてのローマ帝国の再興、聖徒の至福、千年王国またはサタンの最終追放--に注意を払うようにすることではありません。私たちの災難に対するヨハネの救済策は、たくさんの封印やラッパや鉢とは無関係です。実際のところ、黙示録は私たちの知的好奇心を満たすためのものでは全くなく、キリストご自身が余すところなく啓示されることにより、私たちの霊的な要求が満たされ、私たちが神を知るようになることにその目的が置かれているのです。キリストこそ私たちのすべての疑問の解答です。まず主を明らかにしていただきなさい。そうすれば「来るべき事柄」について知らねばならないことはなんでも知ることができるでしょう。主イエスこそ高く引き上げられた勝利の王の王。次に続くすべての出来事は、主が王の王であられる結果です。
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