</font>★4月20日
<font color=darkviolet>神よ。私を探り、・・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て</font>
(詩篇 139.23以下)
自分を省みても真の自己知識に到達しません。内省はけっして私たちを明確な理解へとは導きません。そうです。神からの光受けて初めて私たちはわかるのです。難しいことはありません。<font color=red>顔が汚れていないことを確かめたいときにはどうしますか。</font>手で顔中をそっとなでまわして確かめてみますか。もちろんそんなことはしませんね。<font color=red>鏡を見つけて、それを持って明るいところへと行きます。光によってすべては明らかになります。</font>
「私を探ってください」とは・・・・・・・「神よ、あなたが私を探ってください」という意味です。それが照らし出される方法です。私たちのところへ来て、探ってくださるのは神です。・・・・・・・・
★4月21日
<font color=darkviolet>キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、私を解放したからです。</font>
(ローマ人への手紙 8.2)
かつて中国の商人達にとって離郡税はたいへんな負担でした。何人も逃れることができなかったそのその税は・・・・・・・物資を運搬するときに生じる内国税で、・・・・・・徴収のための検問所が数え切れないほどたくさんのところに設けられ・・・・・・ていました。 しかし数年前に2番目の法律が施行されることになり、それによって離郡税は効力を失いました。。<font color=red>あなたは古い法律のもとで苦しんできた人々の解放された気分を想像することができますか。</font>もう煩わされる必要はなくなりました。新しい法律が古い法律から解放してくれたのです。・・・・・・・
神は別の法則を導入することによって、私たちを一つの法則から解放してくださいます。一つの法則は私たちを罪と死に縛り付けて、逃げることができませんでした。もう一つの法則は、いのちの御霊との祝福された交わりへと私たちを解放してくれます。
★4月23日
<font color=darkviolet>女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれる
あの方は、きっと神の聖なる方に違いありません」</font>
(II 列王記 4.9)
・・・・・・・・人々は私たちに対してどのように感じているのでしょうか。・・・・・・・・・・エリシャの訪問は。<font color=red>たった一つの印象</font>を与えました。エリシャの一行が去ったあと、家に残されたものは。<font color=red>神ご自身の香り</font>だったのです。
★4月24日
<font color=darkviolet>さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。
召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。</font>
(エペソ 4.1)
「私の内におられる神の御霊は。<font color=red>人格を持っていらっしゃる</font>」ということを私はもう気づきはじめているでしょうか。私はただの土の器です。しかしこの器の中に言葉で言い尽くすことのできないほどの価値ある宝、すなわち主の栄光を、入れているのです。。<font color=red>もし神の子どもたちの目が、自分たちの運んでいる財産の価値に開かれるならば、彼らのあらゆる心配といらいらは解消されることでしょう。 その財産は今後彼らが出会う要求に十分に応じることのできるものなのです。 神の子どもたちが、自分たちの心の中に隠された宝がどんなに価値あるものであるかに気が付けば、彼らのあらゆる軽薄な言動もまたなくなることでしょう。</font>
・・・・・・・・・・おごそかな喜びとともに、道を歩き続けるのです。そうです。私は謹んで申し上げます。神の御霊によって新生したあなたがたは、心の中に神をお
入れしているのです。
★4月25日
<font color=darkviolet>王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。</font>
(I 歴代誌 4.23)
・・・・・・・・・あなたがキリスト者であるならば、神はあなたの行くべき道に印を付けておられるのです。それがすなわち・・・・・・「走るべき道のり」なのです。パウロの行程ばかりか、神の子ども一人一人の進むべき道は、主によってはっきりと示されています。それゆえ、各々が自分のために神が印を付けられた走るべき道
のりを知り、そこを進むことが最重要課題となるのです。「主よ、私は次のことだけお願いしてこの身をあなたに捧げます。あなたが定められた道に私を導いてください」。これが真の献身です。私たちの生涯の終わりに、パウロとともに「私は走るべき道のりを走り終えた」と言うことができるなら、私たちは本当に幸いです。なぜなら。<font color=red><b><i>私たちには、この地上の生はたった一度しかありません。そして生涯の終わりに、自分の選んだ道が、ずっと間違っていたことに気づくことほど悲劇的なことはないでしょうから。</font></i></b>
★4月27日
<font color=darkviolet>ここに聖徒の忍耐と信仰がある。</font>
(黙示 13.10)
「いつまででしょうか」と叫ぶ人々がいます。彼らはもうこれ以上忍耐することができないと思うのです。・・・・・・・・黙示録は、神がついに忍耐することをやめてさばきを行う、その現場へと私たちを連れて行きます。忍耐は、さばきがまだ将来のものであるときにのみ求められるのです。一度さばきが始まれば、もう忍耐は必
要とされません。・・・・・・・・・・。<font color=red>神ご自身がずっと苦しんでおられるのです</font>。私たちは神の忍耐を用いて、神にある真の信仰を示そうではありませんか。
★ 4月28日
<font color=darkviolet>神はみこころに従って、
からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。</font>
( I コリント 12.18)
手と足ではどちらがより優れた器官なのか教えていただけますか。比べようとしても、比べようがありませんね。人間のからだの中でそれぞれが果たす役割はたいへん異なっています。そしてそこでは、それぞれが等しく必要とされいます。・・・・・・・・・・・・。<font color=red>自分の生きる道を発見することは、自分の役割を果たすことによる</font>のです。・・・・・・・・
★5月3日
<font color=darkviolet>この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、
こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。</font>
(黙示録 19.1)
・・・・・・・・・・・・・・バビロンは見せかけとむなしさの霊が具体的に姿をとって現れたものだからです。・・・・・・・・・・・・・・・アカ
ンはバビロンのぜいたくな生活をむさぼりました。彼は見栄えを飾りたかったのです。そして初代教会において最初に記録された罪もそれと似ていました。アナニヤとその妻サッピラは。実際に払った犠牲よりも多くのものを捧げたように見せかけて、ひとびとの称賛を得ようとしました。彼らも見栄を飾りたかったのです。
今日の教会において、。<font color=red>我々はなんとあっさりと他人に印象づけようと芝居を打ち、自分たちのために称賛と喝采の席を設けることでしょう</font>。これこそバビロンの本質、すなわち淫婦。そして神の忌み嫌われるもの。
<font color=darkviolet>神よ。私を探り、・・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て</font>
(詩篇 139.23以下)
自分を省みても真の自己知識に到達しません。内省はけっして私たちを明確な理解へとは導きません。そうです。神からの光受けて初めて私たちはわかるのです。難しいことはありません。<font color=red>顔が汚れていないことを確かめたいときにはどうしますか。</font>手で顔中をそっとなでまわして確かめてみますか。もちろんそんなことはしませんね。<font color=red>鏡を見つけて、それを持って明るいところへと行きます。光によってすべては明らかになります。</font>
「私を探ってください」とは・・・・・・・「神よ、あなたが私を探ってください」という意味です。それが照らし出される方法です。私たちのところへ来て、探ってくださるのは神です。・・・・・・・・
★4月21日
<font color=darkviolet>キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、私を解放したからです。</font>
(ローマ人への手紙 8.2)
かつて中国の商人達にとって離郡税はたいへんな負担でした。何人も逃れることができなかったそのその税は・・・・・・・物資を運搬するときに生じる内国税で、・・・・・・徴収のための検問所が数え切れないほどたくさんのところに設けられ・・・・・・ていました。 しかし数年前に2番目の法律が施行されることになり、それによって離郡税は効力を失いました。。<font color=red>あなたは古い法律のもとで苦しんできた人々の解放された気分を想像することができますか。</font>もう煩わされる必要はなくなりました。新しい法律が古い法律から解放してくれたのです。・・・・・・・
神は別の法則を導入することによって、私たちを一つの法則から解放してくださいます。一つの法則は私たちを罪と死に縛り付けて、逃げることができませんでした。もう一つの法則は、いのちの御霊との祝福された交わりへと私たちを解放してくれます。
★4月23日
<font color=darkviolet>女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれる
あの方は、きっと神の聖なる方に違いありません」</font>
(II 列王記 4.9)
・・・・・・・・人々は私たちに対してどのように感じているのでしょうか。・・・・・・・・・・エリシャの訪問は。<font color=red>たった一つの印象</font>を与えました。エリシャの一行が去ったあと、家に残されたものは。<font color=red>神ご自身の香り</font>だったのです。
★4月24日
<font color=darkviolet>さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。
召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。</font>
(エペソ 4.1)
「私の内におられる神の御霊は。<font color=red>人格を持っていらっしゃる</font>」ということを私はもう気づきはじめているでしょうか。私はただの土の器です。しかしこの器の中に言葉で言い尽くすことのできないほどの価値ある宝、すなわち主の栄光を、入れているのです。。<font color=red>もし神の子どもたちの目が、自分たちの運んでいる財産の価値に開かれるならば、彼らのあらゆる心配といらいらは解消されることでしょう。 その財産は今後彼らが出会う要求に十分に応じることのできるものなのです。 神の子どもたちが、自分たちの心の中に隠された宝がどんなに価値あるものであるかに気が付けば、彼らのあらゆる軽薄な言動もまたなくなることでしょう。</font>
・・・・・・・・・・おごそかな喜びとともに、道を歩き続けるのです。そうです。私は謹んで申し上げます。神の御霊によって新生したあなたがたは、心の中に神をお
入れしているのです。
★4月25日
<font color=darkviolet>王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。</font>
(I 歴代誌 4.23)
・・・・・・・・・あなたがキリスト者であるならば、神はあなたの行くべき道に印を付けておられるのです。それがすなわち・・・・・・「走るべき道のり」なのです。パウロの行程ばかりか、神の子ども一人一人の進むべき道は、主によってはっきりと示されています。それゆえ、各々が自分のために神が印を付けられた走るべき道
のりを知り、そこを進むことが最重要課題となるのです。「主よ、私は次のことだけお願いしてこの身をあなたに捧げます。あなたが定められた道に私を導いてください」。これが真の献身です。私たちの生涯の終わりに、パウロとともに「私は走るべき道のりを走り終えた」と言うことができるなら、私たちは本当に幸いです。なぜなら。<font color=red><b><i>私たちには、この地上の生はたった一度しかありません。そして生涯の終わりに、自分の選んだ道が、ずっと間違っていたことに気づくことほど悲劇的なことはないでしょうから。</font></i></b>
★4月27日
<font color=darkviolet>ここに聖徒の忍耐と信仰がある。</font>
(黙示 13.10)
「いつまででしょうか」と叫ぶ人々がいます。彼らはもうこれ以上忍耐することができないと思うのです。・・・・・・・・黙示録は、神がついに忍耐することをやめてさばきを行う、その現場へと私たちを連れて行きます。忍耐は、さばきがまだ将来のものであるときにのみ求められるのです。一度さばきが始まれば、もう忍耐は必
要とされません。・・・・・・・・・・。<font color=red>神ご自身がずっと苦しんでおられるのです</font>。私たちは神の忍耐を用いて、神にある真の信仰を示そうではありませんか。
★ 4月28日
<font color=darkviolet>神はみこころに従って、
からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。</font>
( I コリント 12.18)
手と足ではどちらがより優れた器官なのか教えていただけますか。比べようとしても、比べようがありませんね。人間のからだの中でそれぞれが果たす役割はたいへん異なっています。そしてそこでは、それぞれが等しく必要とされいます。・・・・・・・・・・・・。<font color=red>自分の生きる道を発見することは、自分の役割を果たすことによる</font>のです。・・・・・・・・
★5月3日
<font color=darkviolet>この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、
こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。</font>
(黙示録 19.1)
・・・・・・・・・・・・・・バビロンは見せかけとむなしさの霊が具体的に姿をとって現れたものだからです。・・・・・・・・・・・・・・・アカ
ンはバビロンのぜいたくな生活をむさぼりました。彼は見栄えを飾りたかったのです。そして初代教会において最初に記録された罪もそれと似ていました。アナニヤとその妻サッピラは。実際に払った犠牲よりも多くのものを捧げたように見せかけて、ひとびとの称賛を得ようとしました。彼らも見栄を飾りたかったのです。
今日の教会において、。<font color=red>我々はなんとあっさりと他人に印象づけようと芝居を打ち、自分たちのために称賛と喝采の席を設けることでしょう</font>。これこそバビロンの本質、すなわち淫婦。そして神の忌み嫌われるもの。
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