於御代田福音センター 2006年7月22日
(ML聞き取りUPより抜粋です)
・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・
創世記 32章より
・「私の父のアブラハムの神、私の父イサクの神よ。
かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。
わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
・ 私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに
足りない者です。
私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、
今は、二つの宿営を持つようになったのです。
・ どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。
彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、
私は彼を恐れているのです。
これは一見、大変へりくだった祈りのように思われます。しかし、この祈りは神様に対する揺るぎない信頼に基づく祈りではないのです。
この祈りには、神様は『あなたが生まれ故郷に帰りなさい。しあわせにしよう。』と仰ったから、私はあなたのそのおことばを信じて、ここまで帰って来たのに、兄に殺されそうになっています。ですから、この私をあなたが守ってくださるのは当然ではありませんか。という、その神様に対する自己中心的な、傲慢な、思い上がった思いがありありと見えております。
もし、神様が自分を救ってくださると本当に確信しているのなら、彼は自分を神様の御手にゆだねて恐れることなく、兄のエサウと会ったでありましょう。しかしながら、<font color=green><b>彼は神様に助けを祈る一方で、いかにして恐ろしい兄のエサウから逃れられるかというふうに知恵を絞りました。</font></b>
・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・
彼は先ほどのように、神様に助けを求めて祈りましたけれども、それでもまだ、殺されるのではないかという不安は去りません。そこで彼は、神様から確かな答えをいただくまでは祈りをやめないという、まさに格闘する勢いで、夜明けまで祈り続けたのだと思います。けれども、私を祝福してください。という願いは、彼のいのちと家族と財産を、兄エサウから守っていただくことであり、<font color=red><b>言い換えれば、自分の自我を、自分の肉を満足させる願いでありました。</font></b>
<font color=green><b>神様は彼の執拗な祈りに辟易されて、彼に答えをお出しになりました。しかしそれは彼が望んでいたような祝福ではなくて、彼のもものつがいをはずすというものでありました。</font></b>
もものつがい、すなわち股関節は、ご存知のように、人間の関節の中で最も大きく、簡単にはずれるようなものではありません。もし無理にはずすとなれば、非常な力と、そして、<font color=red><b>大変な痛みがその人に伴います。</font></b>
もものつがいをはずすというのは、霊的に言いますならば、自我を砕くことを意味しております。もものつがいがはずれれば、いったいどうなるでしょうか。自分の足で立つことも、歩くことも出来なくなります。
・・・・・・・・・・・それと同じように、自我が砕かれれば、もはや自分の力に頼って歩むことが出来なくなり、神様に頼らざるを得なくなります。
また、自我が砕かれたときに人間は初めて心に自分の罪が示され、神様を恐れるようになります。神様は次のように仰せになっております。イザヤ書66章2節。有名なみことばでありますが。
・わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。
自我が砕かれ、神様のみことばに恐れおののく者を神様は祝福されます。このように、<font color=red><b>神様がヤコブに与えられた祝福は、彼の肉の願いを叶えるというのではなくて、彼の自我を砕くという、最もすばらしい祝福だったのであります。</font></b>
このヤコブのエピソードは、イエス様を信じた私たちに信仰の歩みについて大切なことを示唆しているのではないかと思います。
まず第一に、神様の選びという問題であります。
神様の選びとは、神様が主権者としてご自分の権威によって永遠のご計画の中で、あるものを特別な恵みの対象としてお選びになることであります。
私たちは率直に言って、このヤコブにはあまり好感は持てません。・・・・・・・・・・・・・・・
そしてこの主の選びは、イエス様を信じる私たちにも適用されるということをここで改めて覚える必要があります。
私たちもヤコブと似たような自己中心的で、いつも自分のことを第一に考えるような、生まれながらのわがままな性質を持つ者であります。どうしてこのような者を神様が尊い御子イエス様のいのちによる救いの対象にお選びになったのか。全く理解できません。
(ML聞き取りUPより抜粋です)
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創世記 32章より
・「私の父のアブラハムの神、私の父イサクの神よ。
かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。
わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
・ 私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに
足りない者です。
私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、
今は、二つの宿営を持つようになったのです。
・ どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。
彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、
私は彼を恐れているのです。
これは一見、大変へりくだった祈りのように思われます。しかし、この祈りは神様に対する揺るぎない信頼に基づく祈りではないのです。
この祈りには、神様は『あなたが生まれ故郷に帰りなさい。しあわせにしよう。』と仰ったから、私はあなたのそのおことばを信じて、ここまで帰って来たのに、兄に殺されそうになっています。ですから、この私をあなたが守ってくださるのは当然ではありませんか。という、その神様に対する自己中心的な、傲慢な、思い上がった思いがありありと見えております。
もし、神様が自分を救ってくださると本当に確信しているのなら、彼は自分を神様の御手にゆだねて恐れることなく、兄のエサウと会ったでありましょう。しかしながら、<font color=green><b>彼は神様に助けを祈る一方で、いかにして恐ろしい兄のエサウから逃れられるかというふうに知恵を絞りました。</font></b>
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彼は先ほどのように、神様に助けを求めて祈りましたけれども、それでもまだ、殺されるのではないかという不安は去りません。そこで彼は、神様から確かな答えをいただくまでは祈りをやめないという、まさに格闘する勢いで、夜明けまで祈り続けたのだと思います。けれども、私を祝福してください。という願いは、彼のいのちと家族と財産を、兄エサウから守っていただくことであり、<font color=red><b>言い換えれば、自分の自我を、自分の肉を満足させる願いでありました。</font></b>
<font color=green><b>神様は彼の執拗な祈りに辟易されて、彼に答えをお出しになりました。しかしそれは彼が望んでいたような祝福ではなくて、彼のもものつがいをはずすというものでありました。</font></b>
もものつがい、すなわち股関節は、ご存知のように、人間の関節の中で最も大きく、簡単にはずれるようなものではありません。もし無理にはずすとなれば、非常な力と、そして、<font color=red><b>大変な痛みがその人に伴います。</font></b>
もものつがいをはずすというのは、霊的に言いますならば、自我を砕くことを意味しております。もものつがいがはずれれば、いったいどうなるでしょうか。自分の足で立つことも、歩くことも出来なくなります。
・・・・・・・・・・・それと同じように、自我が砕かれれば、もはや自分の力に頼って歩むことが出来なくなり、神様に頼らざるを得なくなります。
また、自我が砕かれたときに人間は初めて心に自分の罪が示され、神様を恐れるようになります。神様は次のように仰せになっております。イザヤ書66章2節。有名なみことばでありますが。
・わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。
自我が砕かれ、神様のみことばに恐れおののく者を神様は祝福されます。このように、<font color=red><b>神様がヤコブに与えられた祝福は、彼の肉の願いを叶えるというのではなくて、彼の自我を砕くという、最もすばらしい祝福だったのであります。</font></b>
このヤコブのエピソードは、イエス様を信じた私たちに信仰の歩みについて大切なことを示唆しているのではないかと思います。
まず第一に、神様の選びという問題であります。
神様の選びとは、神様が主権者としてご自分の権威によって永遠のご計画の中で、あるものを特別な恵みの対象としてお選びになることであります。
私たちは率直に言って、このヤコブにはあまり好感は持てません。・・・・・・・・・・・・・・・
そしてこの主の選びは、イエス様を信じる私たちにも適用されるということをここで改めて覚える必要があります。
私たちもヤコブと似たような自己中心的で、いつも自分のことを第一に考えるような、生まれながらのわがままな性質を持つ者であります。どうしてこのような者を神様が尊い御子イエス様のいのちによる救いの対象にお選びになったのか。全く理解できません。
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