私たちはいったいどうなのでしょうか。私たちも主から逃避しているのではないでしょうか。私たちはヨナと同じように眠っているのではないでしょうか。私たちは苦しみ、悩み、困っている状態の中で主の声を聞きたいと思わないのでしょうか。
≪略≫
これは逃避の最後でした。主から遣わされた嵐は、ヨナをつかまえました。異邦人たちはヨナの告白を迫りました。ヨナはそれ以上、逃げることは出来なくなってしまったのです。逃避は、けれど主の御手の中で終わりました。これこそ恵みではないでしょうか。
いかなる者も主から逃げ切ることは出来ません。主は、引かれたくじによって、ヨナを明るみに出された。主は、かつて女中の指差しによって、ペテロを明るみに出されました。主は、預言者であるナアタンを通して、ダビデを明るみに出されました。主は、天の光を通して、ダマスコに向かうサウロを明るみに出されました。私たちももうすでに明るみに出されたのでしょうか。
今日、明るみに出されることを望んでいるのでしょうか。私たちは主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むのでしょうか。隠さず告白しようではないでしょうか。
いったいヨナは何を告白したのでしょう。私は主なる神によって、特別に選ばれた民に属する者です。イスラエル人です。私は全てを造られた栄光の主に出会いました。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝している。礼拝した。と言ったほうが正しかったでしょう。私は滅びゆく人々に対して、さばきが臨む前に警告せよ。と召された者です。けれど、私たちは神に対して不従順であり、主の御顔を避けて、のがれようとした。これはヨナの正直な告白でした。
ヨナは自分を言い繕うことはせず、全てが自分のせいであることを率直に認めました。ヨナは主に対して、人間に対して債務を負っていることを認めました。ヨナは、自分が死に値する者であり、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることを、よしとしました。罪の支払う報酬は死です。けれど主は言っておられます。
「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうか。」
ヨナはいかに悔い改め、生きるべきだったのでしょうか。ヨナがいかに悔い改めるかについては、2章を見るとわかります。ちょっと二、三節読みます。ヨナ書の2章1節から。
・ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、
・言った。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、
主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、
あなたはわたしの声を聞いてくださいました。
・ あなたは私を海の真中の深みに
投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、
私の上を越えて行きました。
・ 私は言った。
『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
仰ぎ見たいのです。』と。
・ 水は、私ののどを絞めつけ、
深淵は私を取り囲み、
海草は私の頭にからみつきました。
・ 私は山々の根元まで下り、
地のかんぬきが、
いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴から引き上げてくださいました。
・ 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。
・ むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。
・ しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです。」
・主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
とあります。
ヨナはいったい何を経験したのでしょうか。ヨナは死の谷を通って行きました。<font color=red>主は彼から多くのものを奪い、また多くのものを与えてくださったのです。いったい何を奪われたのでしょうか。ヨナのわがままの意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を奪われました。
では、彼から何を奪われなかったかと言いますと、彼の証明と使命こそがそれにほかならない。では、いったい何が与えられたのでしょうか。彼は主の光によって自分の本当の姿を見ることができ、完全な赦しと恵みにあずかることができたのです。主に、どうしても従いたい、という意思が与えられ、そのために使命を果たす力を得ることができたのです。ヨナは船から海へ投げ込んでもらい、それによって多くのものを得ることができた。</font>
≪略≫
ニネベは非常に大きな町でした。そこには十二万人以上の人々が住んでおりました。「もう四十日すると、全員滅ぼされる。」とヨナは叫びました。主はニネベに対して、無関心ではいませんでした。主はニネベの住民を憐れまれました。ニネベは取りも直さず、この世の象徴です。この世は非常に大きなものです。何と多くの人々は救われていないし、自分勝手な生活をしてしまっているのでしょうか。けれども主は、このどうしようもない世を愛しておられる
お方です。
≪略≫
これは逃避の最後でした。主から遣わされた嵐は、ヨナをつかまえました。異邦人たちはヨナの告白を迫りました。ヨナはそれ以上、逃げることは出来なくなってしまったのです。逃避は、けれど主の御手の中で終わりました。これこそ恵みではないでしょうか。
いかなる者も主から逃げ切ることは出来ません。主は、引かれたくじによって、ヨナを明るみに出された。主は、かつて女中の指差しによって、ペテロを明るみに出されました。主は、預言者であるナアタンを通して、ダビデを明るみに出されました。主は、天の光を通して、ダマスコに向かうサウロを明るみに出されました。私たちももうすでに明るみに出されたのでしょうか。
今日、明るみに出されることを望んでいるのでしょうか。私たちは主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むのでしょうか。隠さず告白しようではないでしょうか。
いったいヨナは何を告白したのでしょう。私は主なる神によって、特別に選ばれた民に属する者です。イスラエル人です。私は全てを造られた栄光の主に出会いました。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝している。礼拝した。と言ったほうが正しかったでしょう。私は滅びゆく人々に対して、さばきが臨む前に警告せよ。と召された者です。けれど、私たちは神に対して不従順であり、主の御顔を避けて、のがれようとした。これはヨナの正直な告白でした。
ヨナは自分を言い繕うことはせず、全てが自分のせいであることを率直に認めました。ヨナは主に対して、人間に対して債務を負っていることを認めました。ヨナは、自分が死に値する者であり、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることを、よしとしました。罪の支払う報酬は死です。けれど主は言っておられます。
「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうか。」
ヨナはいかに悔い改め、生きるべきだったのでしょうか。ヨナがいかに悔い改めるかについては、2章を見るとわかります。ちょっと二、三節読みます。ヨナ書の2章1節から。
・ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、
・言った。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、
主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、
あなたはわたしの声を聞いてくださいました。
・ あなたは私を海の真中の深みに
投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、
私の上を越えて行きました。
・ 私は言った。
『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
仰ぎ見たいのです。』と。
・ 水は、私ののどを絞めつけ、
深淵は私を取り囲み、
海草は私の頭にからみつきました。
・ 私は山々の根元まで下り、
地のかんぬきが、
いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴から引き上げてくださいました。
・ 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。
・ むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。
・ しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです。」
・主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
とあります。
ヨナはいったい何を経験したのでしょうか。ヨナは死の谷を通って行きました。<font color=red>主は彼から多くのものを奪い、また多くのものを与えてくださったのです。いったい何を奪われたのでしょうか。ヨナのわがままの意思、逆らい、目くらであること、自分の力と自信を奪われました。
では、彼から何を奪われなかったかと言いますと、彼の証明と使命こそがそれにほかならない。では、いったい何が与えられたのでしょうか。彼は主の光によって自分の本当の姿を見ることができ、完全な赦しと恵みにあずかることができたのです。主に、どうしても従いたい、という意思が与えられ、そのために使命を果たす力を得ることができたのです。ヨナは船から海へ投げ込んでもらい、それによって多くのものを得ることができた。</font>
≪略≫
ニネベは非常に大きな町でした。そこには十二万人以上の人々が住んでおりました。「もう四十日すると、全員滅ぼされる。」とヨナは叫びました。主はニネベに対して、無関心ではいませんでした。主はニネベの住民を憐れまれました。ニネベは取りも直さず、この世の象徴です。この世は非常に大きなものです。何と多くの人々は救われていないし、自分勝手な生活をしてしまっているのでしょうか。けれども主は、このどうしようもない世を愛しておられる
お方です。
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