よく知られているヨハネ伝3章16節に、
・神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
永遠のいのちか、永遠の滅びかのどちらかです。
主はそのために、イエス様を死に渡されました。イエス様は、あらゆる人間の罪の報いを受けてくださったのです。パウロはテモテの第二の手紙1章10節に次のように書いたのです。
・キリストは死を滅ぼし、福音によって、
いのちと不滅を明らかに示されました。
と。
また、ローマ書6章23節。
・罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち
です。
とあります。
ヨナは、滅びゆくたましいに対する主の大いなる愛を知り、一日中歩き回って、恐れることなく、主のことばを宣べ伝えました。ヨナは町中を歩き回って、大いなる悪がはびこっているのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えました。
なぜヨナは恐れなかったのでしょうか。ヨナは死の谷を通って来たからです。自分自身を捨てたからです。全く妥協せず、主に従ったからです。
そのようなしもべを主は、用いたく思っておられます。そのようなしもべを主は、求めておられるのです。そのようなしもべを主は、多くの訓練を通して教育されるのです。
死の谷を通って来た者、また自分自身を捨てた者を今日主は、必要としておられるのです。
≪略≫
今日も・・・・救われようと思う人はみな、簡単に救われます。主は罪の赦しを提供しておられるのです。今日、自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は、もちろん救われます。けれど、恵みの時は限られています。恵みを受けなさい。これこそが喜びの訪れ、すなわち、福音そのものです。
ニネベには何が起こったのでしょうか。ヨナはあざ笑われ、嘲られ、追い出され、殺されたのでしょうか。3章5節を見ると次のように書かれています。
・そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、
身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
・このことが、ニネベの王の耳にはいると、
彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
・王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。
「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。
草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
・ 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、
おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。
・ もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、
私たちは滅びないですむかもしれない。」
≪略≫
ニネベは、私たちひとりひとりを必要としています。この世は滅びに向かって進んでおります。ニネベは、例えば、ある場合には、あなたの家庭であり、また、ある場合には、あなたの職場であるかもしれない。
主についてのはっきりとした証しを公にすることを恥じてはなりません。ローマ書1章16節に、
・私は福音を恥とは思いません。
これは初代教会の兄弟姉妹の告白でした。福音とはもちろん、ひとつの教えではなく、イエス様ご自身です。
ヨナの最後を読むと、ちょっと悲しくなるに違いない。人間とは全く自分勝手な者であることも、よくヨナを通して知ることができます。ヨナは仕方がなくて主に従うようになりました。そして奇蹟が起こったのです。
けれどそれこそがヨナは欲しくなかったのです。ニネベの人々はみな悔い改めないで、みな例外なく滅びるようになったならば、ヨナはかえって喜んだのです。ちょっと・・・ヨナ書3章10節。
・神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。
それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、
そうされなかった。
とあります。
4章1節から。
・ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。
ヨナは怒って、
・主に祈って言った。
「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませ
んか。
それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。
私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、
恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。
ちゃんと分かりました。
・ 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。
私は生きているより死んだほうがましですから。」
・主は仰せられた。
「あなたは当然のことのように怒るのか。」
・ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、
町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
・神である主は一本のとうごまを備え、
それをヨナの上をおおうように生えさせ、
彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。
ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
・しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。
虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
・太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。
太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。
「私は生きているより死んだほうがましだ。」
・すると、神はヨナに仰せられた。
「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」
ヨナは言った。
「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
・主は仰せられた。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、
一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
・ まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、
数多くの家畜とがいるではないか。」
人間とは結局そういう者です。もう、人間のやっていることは、全部的外れです。信ずる者はみな、ある聖書の個所を引用しているのです。よく勉強しているし、考えている。
ヨハネ伝15章5節。
けれども、一番信じられないことばとはそれなのです。イエス様は何を言ったかと言いますと、「あなたがた信ずる者は、わたしから離れたら何も出来ません。」何も。それを本当の意味で信ずる人は、あんまりいないのではないでしょうか。ですから信ずる者のやっていることも、もう的外れです。
ローマ書13章を通して、パウロは当時の兄弟姉妹を励ますために自分の命令、与えられた使命について考えるために次のように書いたでしょう。ローマ書13章の11節から。
・あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、
このように行ないなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じたころよりも、
今は救いが(救い主、再び来られるイエス様が)私たちにもっと近づいている
からです。
・夜はふけて、昼が近づきました。
ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、
光の武具を着けようではありませんか。
・遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、
昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
・主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲のために心を用いてはいけません。
主は、用いられる器を捜しておられます。イザヤ書6章8節に、
・私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
と言っておられる主の声を聞いたので、言った。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
とあります。
主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ないのです。自己否定のない奉仕とは、自己満足であり、全くむなしい、役に立たない努力です。確かに多くの人は、主に仕えたい。と言いますが、けれど、従おうとしない。結局、自分自身を大切にします。
自分の思いを捨てたくない。自分の思っていることは正しいと信じているからです。自分の思いこそがみこころだと主張する人もいます。だれも反対することが出来ないために、「みことばが与えられた。」と言います。けれど前に言いましたように、みこころだけを行なおうという意思、また、切なる願いが無ければ、いくらみことばが与えられた。と言っても、何もならない。
みこころを行なおうと思えば、わかるようになる。すなわち、その人は導かれるようになり、用いられるようになるに違いない。
了
・神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
永遠のいのちか、永遠の滅びかのどちらかです。
主はそのために、イエス様を死に渡されました。イエス様は、あらゆる人間の罪の報いを受けてくださったのです。パウロはテモテの第二の手紙1章10節に次のように書いたのです。
・キリストは死を滅ぼし、福音によって、
いのちと不滅を明らかに示されました。
と。
また、ローマ書6章23節。
・罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち
です。
とあります。
ヨナは、滅びゆくたましいに対する主の大いなる愛を知り、一日中歩き回って、恐れることなく、主のことばを宣べ伝えました。ヨナは町中を歩き回って、大いなる悪がはびこっているのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えました。
なぜヨナは恐れなかったのでしょうか。ヨナは死の谷を通って来たからです。自分自身を捨てたからです。全く妥協せず、主に従ったからです。
そのようなしもべを主は、用いたく思っておられます。そのようなしもべを主は、求めておられるのです。そのようなしもべを主は、多くの訓練を通して教育されるのです。
死の谷を通って来た者、また自分自身を捨てた者を今日主は、必要としておられるのです。
≪略≫
今日も・・・・救われようと思う人はみな、簡単に救われます。主は罪の赦しを提供しておられるのです。今日、自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は、もちろん救われます。けれど、恵みの時は限られています。恵みを受けなさい。これこそが喜びの訪れ、すなわち、福音そのものです。
ニネベには何が起こったのでしょうか。ヨナはあざ笑われ、嘲られ、追い出され、殺されたのでしょうか。3章5節を見ると次のように書かれています。
・そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、
身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
・このことが、ニネベの王の耳にはいると、
彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
・王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。
「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。
草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
・ 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、
おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。
・ もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、
私たちは滅びないですむかもしれない。」
≪略≫
ニネベは、私たちひとりひとりを必要としています。この世は滅びに向かって進んでおります。ニネベは、例えば、ある場合には、あなたの家庭であり、また、ある場合には、あなたの職場であるかもしれない。
主についてのはっきりとした証しを公にすることを恥じてはなりません。ローマ書1章16節に、
・私は福音を恥とは思いません。
これは初代教会の兄弟姉妹の告白でした。福音とはもちろん、ひとつの教えではなく、イエス様ご自身です。
ヨナの最後を読むと、ちょっと悲しくなるに違いない。人間とは全く自分勝手な者であることも、よくヨナを通して知ることができます。ヨナは仕方がなくて主に従うようになりました。そして奇蹟が起こったのです。
けれどそれこそがヨナは欲しくなかったのです。ニネベの人々はみな悔い改めないで、みな例外なく滅びるようになったならば、ヨナはかえって喜んだのです。ちょっと・・・ヨナ書3章10節。
・神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。
それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、
そうされなかった。
とあります。
4章1節から。
・ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。
ヨナは怒って、
・主に祈って言った。
「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませ
んか。
それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。
私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、
恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。
ちゃんと分かりました。
・ 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。
私は生きているより死んだほうがましですから。」
・主は仰せられた。
「あなたは当然のことのように怒るのか。」
・ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、
町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
・神である主は一本のとうごまを備え、
それをヨナの上をおおうように生えさせ、
彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。
ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
・しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。
虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
・太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。
太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。
「私は生きているより死んだほうがましだ。」
・すると、神はヨナに仰せられた。
「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」
ヨナは言った。
「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
・主は仰せられた。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、
一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
・ まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、
数多くの家畜とがいるではないか。」
人間とは結局そういう者です。もう、人間のやっていることは、全部的外れです。信ずる者はみな、ある聖書の個所を引用しているのです。よく勉強しているし、考えている。
ヨハネ伝15章5節。
けれども、一番信じられないことばとはそれなのです。イエス様は何を言ったかと言いますと、「あなたがた信ずる者は、わたしから離れたら何も出来ません。」何も。それを本当の意味で信ずる人は、あんまりいないのではないでしょうか。ですから信ずる者のやっていることも、もう的外れです。
ローマ書13章を通して、パウロは当時の兄弟姉妹を励ますために自分の命令、与えられた使命について考えるために次のように書いたでしょう。ローマ書13章の11節から。
・あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、
このように行ないなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じたころよりも、
今は救いが(救い主、再び来られるイエス様が)私たちにもっと近づいている
からです。
・夜はふけて、昼が近づきました。
ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、
光の武具を着けようではありませんか。
・遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、
昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
・主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲のために心を用いてはいけません。
主は、用いられる器を捜しておられます。イザヤ書6章8節に、
・私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
と言っておられる主の声を聞いたので、言った。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
とあります。
主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければあり得ないのです。自己否定のない奉仕とは、自己満足であり、全くむなしい、役に立たない努力です。確かに多くの人は、主に仕えたい。と言いますが、けれど、従おうとしない。結局、自分自身を大切にします。
自分の思いを捨てたくない。自分の思っていることは正しいと信じているからです。自分の思いこそがみこころだと主張する人もいます。だれも反対することが出来ないために、「みことばが与えられた。」と言います。けれど前に言いましたように、みこころだけを行なおうという意思、また、切なる願いが無ければ、いくらみことばが与えられた。と言っても、何もならない。
みこころを行なおうと思えば、わかるようになる。すなわち、その人は導かれるようになり、用いられるようになるに違いない。
了
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