この家に仏壇が初めて設置されたのは、父の死後でした。初めのうち、母は、仏壇にあげたご飯を夕方下げては、からからにして、またはそのままで、庭に投げて野の鳥の餌にしていました。雀やヒヨドリ、etc。 昨日ふと見たら、生ごみ入れに仏壇から下げたご飯がそのまま捨てられていました。
昭和6年生まれの母は、終戦時食べ盛りの14歳でした。戦中も戦後も、お腹一杯食べることがなかなか叶わなかったので、食べ物を大切にします。その母が、どうして?
尋ねてみたら、鳥も最近はあまり食べないからと。では野の鳥は いったい何を食べているのでしょう? 母曰く、うちの庭の千両や万両だって。(←漢字、合っているでしょうか?) 昔、父がいた頃は、大きなピラカンサという木があって、見事にたくさんの実を生らせていたのですが、それは今は切られてありません。
この鳥と庭の木の実の話を聞いていて、ふと、聖書の次の言葉が浮かんでしまいました。
☆☆☆ マタイの福音書 6章 ☆☆☆
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、
刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていて
くださるのです。あなたがたは、鳥よりも、
もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、
自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の
一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる
野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、
ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
う~ん…神様。母からしたら、うらめしいみたいですよ。まあ、人家のない地域であれば、確かに野や山の木の実を食べるのでしょうけどね。
そういえば、今年は申年ですが、最近野生の保護猿が日本列島のあちこちで、人家に下りてきて悪さしてるそうで。とは言っても猿にしてみれば、人が労して作ったものか自然のものかは区別などつくはずもなく。うまく共存できないものでしょうかね。。。
このあたりは猿こそいませんが、猫に負けず劣らず交通事故の犠牲になっているのが、狸らしいです。
昭和6年生まれの母は、終戦時食べ盛りの14歳でした。戦中も戦後も、お腹一杯食べることがなかなか叶わなかったので、食べ物を大切にします。その母が、どうして?
尋ねてみたら、鳥も最近はあまり食べないからと。では野の鳥は いったい何を食べているのでしょう? 母曰く、うちの庭の千両や万両だって。(←漢字、合っているでしょうか?) 昔、父がいた頃は、大きなピラカンサという木があって、見事にたくさんの実を生らせていたのですが、それは今は切られてありません。
この鳥と庭の木の実の話を聞いていて、ふと、聖書の次の言葉が浮かんでしまいました。
☆☆☆ マタイの福音書 6章 ☆☆☆
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、
刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていて
くださるのです。あなたがたは、鳥よりも、
もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、
自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の
一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる
野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、
ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
う~ん…神様。母からしたら、うらめしいみたいですよ。まあ、人家のない地域であれば、確かに野や山の木の実を食べるのでしょうけどね。
そういえば、今年は申年ですが、最近野生の保護猿が日本列島のあちこちで、人家に下りてきて悪さしてるそうで。とは言っても猿にしてみれば、人が労して作ったものか自然のものかは区別などつくはずもなく。うまく共存できないものでしょうかね。。。
このあたりは猿こそいませんが、猫に負けず劣らず交通事故の犠牲になっているのが、狸らしいです。
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