土浦集会に集うようになって、礼拝にも聖餐式にもしっかりあずかっていた私だが、聖書にも集会(またはキリスト教や教会)にもいろいろ疑問を持っていた。洗礼を受けたのは、それから何年かしてからだった。
特に礼拝の日に私がよく聖書の記述について質問させていただいたのは、A兄だ。たくさんの本を読まれ、司会の時には、日常の生活で起こる小さなできごとを紹介しながら、御言葉との関係をわかりやすく話してくださる兄弟だった。
さて、いよいよ今日は、そのA兄の初めてのメッセージ当番。 今、このノートの昨日の分をちらっと読み返したら、《サウル王》のことが書いてあり、びっくり。(あら、昨日自分がコピペしたのに、もう内容を忘れてるよ…) 兄弟のお話も、この《サウル王》のことだった。最初のイスラエルの王としてサウルが選ばれていながら、旧約聖書の「列王記」には彼の次の《ダビデ王》から記述が始まっている。つまり、サウルはこの記録から排除されている。なぜサウルは、神様の祝福からはずされたのか。
絶体絶命の時、彼は自分に頼ってしまった。大切なのは、<font color=red>万策つきても望み(主への信頼)を失わないこと。</font>
またメッセージの終わりに、兄弟が小さなお証をしてくださった。初めてお聞きした。お母様に、手紙を書いたり、話したり、イエス・キリストのことを伝えてきたし、主にある兄弟に交わってももらったが、お母様はその兄弟をだいぶ嫌われていたようだった。しかし晩年、その方にお会いしたいとお母様がおっしゃったそうなのだ。お母様の心の深いところに、福音が根を下ろしていたのだ。
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(さて、では今日の「荒野の食卓」を・・。)
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、
ふたりの者が一心同体となるのだ。』と言われたのです。
マタイ 19.5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・罪が入る前の祝福された時代にあったエヴァは、神が教会に望んでおられる神の御子との一致の成就を私たちに示してくれるのです。エヴァは最初にアダムから作られました。そしてアダムの助け手として彼のもとに連れてこられるために。一つのものが二つになったのです。二つのものは、そし
て再び、一つになりました。この<font color=red>エヴァに見られるものは教会の奥義です。すなわちキリストから出たものは、再びキリストのもとに還るのです。
特に礼拝の日に私がよく聖書の記述について質問させていただいたのは、A兄だ。たくさんの本を読まれ、司会の時には、日常の生活で起こる小さなできごとを紹介しながら、御言葉との関係をわかりやすく話してくださる兄弟だった。
さて、いよいよ今日は、そのA兄の初めてのメッセージ当番。 今、このノートの昨日の分をちらっと読み返したら、《サウル王》のことが書いてあり、びっくり。(あら、昨日自分がコピペしたのに、もう内容を忘れてるよ…) 兄弟のお話も、この《サウル王》のことだった。最初のイスラエルの王としてサウルが選ばれていながら、旧約聖書の「列王記」には彼の次の《ダビデ王》から記述が始まっている。つまり、サウルはこの記録から排除されている。なぜサウルは、神様の祝福からはずされたのか。
絶体絶命の時、彼は自分に頼ってしまった。大切なのは、<font color=red>万策つきても望み(主への信頼)を失わないこと。</font>
またメッセージの終わりに、兄弟が小さなお証をしてくださった。初めてお聞きした。お母様に、手紙を書いたり、話したり、イエス・キリストのことを伝えてきたし、主にある兄弟に交わってももらったが、お母様はその兄弟をだいぶ嫌われていたようだった。しかし晩年、その方にお会いしたいとお母様がおっしゃったそうなのだ。お母様の心の深いところに、福音が根を下ろしていたのだ。
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(さて、では今日の「荒野の食卓」を・・。)
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、
ふたりの者が一心同体となるのだ。』と言われたのです。
マタイ 19.5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・罪が入る前の祝福された時代にあったエヴァは、神が教会に望んでおられる神の御子との一致の成就を私たちに示してくれるのです。エヴァは最初にアダムから作られました。そしてアダムの助け手として彼のもとに連れてこられるために。一つのものが二つになったのです。二つのものは、そし
て再び、一つになりました。この<font color=red>エヴァに見られるものは教会の奥義です。すなわちキリストから出たものは、再びキリストのもとに還るのです。
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