photo=Sakurai Ikuya's previous work "Cascade" 2000
踊り、なるものがこの世に生まれたのは何故なのだろう。
そんなことを、これまで以上に、強く強く思った年でした。
上の写真、つまり2000年のころ以来の内的な変化を感じつつです。
(当時はドイツでの客演に続いてアンサンブル作品の振付を行い、その数ヶ月後に上演したのが、写真の『カスケード』という作品で、ソロダンスとピアノとサウンドオブジェのためのものでした。)
この写真の公演のあと、2001年の「9.11事件」の戦慄と脅威をへて、僕は意識的に『独舞』に専念するようになり、「非暴力と不服従のためのダンス」というコンセプトとともに、現在の《櫻井郁也ダンスソロ》というシリーズ公演を開始しました。そして、20年目になるところで、この「コロナ禍」なるものに遭遇し、上演リズムを中断されました。
丸一年ものあいだ舞台に立たない経験。上演の目処が無いリハーサルを続け作品が壊れ別の何かが芽を吹き始めるという経験。オンライン授業なるもので人と出会うという体験。ライブ配信なるものの演出経験。日々のレッスンや教育活動に対する、かつて意識しなかった愛おしさと責任を感じる経験。
今年は、そのような、いままでにない経験が重なりながら、総じてそれらが喜ばしくないという、神経がざわめき続ける、暗い、そして、受け容れがたいものが沸々とたぎる日々のなかで、「踊り」なるものについて、あらためて憧れ惚れ直した一年だったと思います。
どんな踊りを生み出すか、というのは当然の課題だけれど、それにもまして、どうして踊りなるものが生まれてくるのだろうか、ということが、いま、より切実に思えて仕方がありません。
どんな世界が良いのかと思うのとはまた別に、この世界というのはどんなふうにして生じたのだろうかと問うようなことにも似ているでしょうか。
この身から、この一瞬間に、この場所に、こぼれるもの、にじみだすもの、ふんしゅつするもの、、、。
踊りからは、言葉が生まれることもあるし、音楽が生まれることもある。しかし、言葉も音楽もない極度の静寂が踊りから生まれてくることも、また、あると思います。さらに、何一つ生じ得ないような真空と空白と停止もまた、踊りには隠されてあるのではないか、などということも、思います。
爆発し続ける隕石のような轟音と、二度と燃え上がることがないダイヤモンドのような静寂が、ともに抱きかかえられてあるような、超原始的な混沌が、踊りなるものにはあるのにちがいない、ということも、いま、この停滞の中で、思っています。
散らばるもの、吹き出るもの、もうやってられないもの、燃やしてしまいたくなる言葉、とても無意味な反乱、情熱的な絶望、ゆっくりとした落下、、、。
さて、ここから。
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