櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ダンスクラス:知覚の拡張

2016-06-03 | レッスン・WSノート
「ダンス知覚」という言葉は僕の勝手な造語だが踊りにはオドリ特有の知覚の働きがあるように思えてならない。

感じることと考えることとイマジネーションと行動の意思がリンクして、全部同時に、しかもスピーディーに起動してゆくような感覚。止まることがない意識の拡張感覚だ。

ダンスクラスで、そんな状態を感じることがある。毎週のメンバー制だ。仕事を終えて集まり踊ったり話したりを繰り返しているうちに、人と人も馴染んで不要な緊張感がなくなるからか、みんな淡々とストレッチや準備運動をして僕は個々に軽いアドバイスをしたり少しの時間の対話をする。そして踊りが始まる。

月4回の半分は僕が即興でピアノ伴奏をしてフリーセッションする。あと半分は決まった音楽を繰り返して踊りながらコミュニケーションやアンサンブル的なダンスを楽しむ。今日のレッスンは後者。スティーヴ・ライヒ作曲のミニマルミュージックに身を委ねた。軽やかで心地よいリズムが様々な楽器にリレーされ繰り返し変化しながら、いつしか膨大な音の波になる。無限に発展する音楽だ。そこに身を任せるほどに、様々なイメージや感情が運動になり、踊る人と人がその日その場に生まれるエネルギーの対話を通してダンスならではの体験を深めてゆく。ほとんど言葉は使わない。僕自身も動きや掛け声やリズムで何かを刺激したりヒントやアドバイスをしてゆく。踊りながらでないと交感できないものを知覚してゆく。

共通するかどうか自信はないがDancewiseという言葉を確かアメリカの舞踊家マース・カニンガムの文章に読んだ覚えがあり、たぶんそれは踊っている時に独特の身体認識を呼んだのではないかと勝手に解釈した。日常の身体とオドル身体は何かが違う。変わる。

何を表現する、というのとは大きく違って、踊っているカラダから滲み出たり溢れてくる何か。

踊る人と観る人が、ただ感じ合うしかない何か。僕はダンス知覚という捏造語で呼ぶしかない。

話題はクラスから少しズレるが、それを強烈に感じた短い白黒映像があった。イサドラ・ダンカンが踊る僅か数分の記録フィルムだった。肉体も踊るが、それ以上に意識というか、人間の知覚そのものが踊っているように思える。アウラとか霊魂とかいうのは、これか?という不思議なものが短い映像断片から滲み出る。

ダンス学校で学生と一緒に観たらガールズトークが止んでシンとなった。凄い、何これ、と少女たちが言う。僕も、何これ、と、確かに思う。

ダンカンはテレプシコラという言葉をよく使ったらしいが、踊る身体には、何か独特の知覚が「来る」ときがあるのだ。特別な才能というより、それは繰り返しダンスを楽しむなかで次第に開発されたり目覚めてゆく一種の野生的な潜在的な感覚ではないかと僕は考えている。レッスンしながらのメンバーの変化、自分自身も稽古のなかで確かめ得る感覚。

ダンス知覚、というのは僕の捏造語だが、そう呼ばざるを得ない知覚の状態が、踊る身体に呼び覚まされるのを、しばしば僕は感じている。

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