これは昨夜の記事に書いたコワベルという画家による絵の一つです。
眼が見えない人の姿をモチーフに描いているが、それだけではない。
記事を書いたあと、また見たくなって本棚からデリダの本を探しました。
「信じることと見ること のあいだ、見ていると信じることと垣間見ることのあいだ、、、」
デリダは、そんな言葉から始めるエッセイの冒頭に、この絵を添えました。なんと広がりがあり味わいが深い言葉、そして言葉と絵のモンタージュでしょうか。
見る、というただ一つの言葉に内蔵されている感覚の広がり、意識の多様さ、認識なるものの複雑さに、デリダの言葉とコワベルの素描は旅を誘おうとするようです。
僕らは確かに眼で見ます。しかし眼が見えないものをこそ見る力もあり、たとえば「心眼」という言葉さえ日常にある。
器官としての眼の他に、無数の瞳の瞬きや網膜の拡張が可能性を秘めている。
たとえばダンスの練習でも、初歩的な段階から身体のあらゆる「ところ」に「見る感覚」を拡大しようとします。
背中に眼を、指先に眼を、爪先に眼を、エトセトラ、、、。と、身体の隅々にまで眼を呼び覚ましてゆく。そのような意識の拡散を通じてダンスの身体は物質性を克服してアウラの明滅を獲得しようとします。
カラダ全体で見る感覚がなければ、どんな動きもオドリにはならないのではないか、行為あるいは行動という範囲を超えて様々なものとの戯れにならないのではないかなあ、という実感がずっとしている。
それはただし「眼」という器官の拡張に限らない。鼓膜、鼻、舌、あらゆる感覚器官が身体全体に拡張し得る可能性を、ダンスの身体は予感しようと挑戦します。
「みる」とは、どのような感覚の広がりなのでしょうか。眼の働きによって、また眼の喪失あるいは抑制の働きによって、さまざまな感覚の冴えが変化する感もあります。
知覚とイマジネーション、認識と予感のあいだには、いかなる関係性が働くのでしょうか。また、それらによって、思考や感情や意思のあいだに、いかなる変容が呼び覚まされてゆくのでしょうか。
この「手探りの人物」の絵は、そのような、知覚の冒険を巡る感触を改めて思わせてくれるのです。
この絵から、感覚なるものの無限の世界を感じ考えさせられるのですが、如何でしょうか、、、。