マーサ・グラハムの言葉を借りれば、踊りは血の記憶を呼び覚ますものだという。
舞踊史の講義を実演家の視点で、という一言から始めて2年目。ダンスの専門学校があり、実技指導に加えて。
お喋り好きな割に、きちんと語るのは苦手。なのでチマチマ準備する、それが以外と楽しい。ダンスを巡る、言葉、人。知らなかった、もっと知りたい。と、好奇心続々。学生の前でニジンスキーの日記やダンカンの手紙を読み聞かせしたり、さまざまなパを模倣しながら話していると、つい興奮する。面白がられると、また、、、。
ダンスという言葉の語源を知ったのは30年近く前だったと思うが、眼からウロコが落ちた感覚を思い出す。
毎日通っていた天使館(師匠の稽古場)に市川雅さんが来られた時。カラダというものは、とても遠いところに結び付いているんだよ、と、確か言われた。舞踊論という題目だったか、市川先生の講義は大方が歴史を辿るものだったがロマンチックだった。「宇宙はときどき振られねばならない」とは、先生の著書の一節で、振付の源流を思わせる。
洋舞すなわちDanceはドイツ語でTanzというが、言葉の源を遡るとインド古代にたどり着く。ダンスの語源はサンスクリット語の「Tanha=生きる欲や望み」だという。「Tan」とは「伸びる、張りきる」ことだ。
言葉は山脈を越えてエジプトに入り「tansa」「tanza」と変性し、いずれも「行為し、動く喜び」をさし、「Tanz」「Danza」「Dance」「Danse」と、越境しつつ変わる。いずれもオドリを指して現代に生きている。ダンス、という一言から、僕らは先祖の血の騒ぎを受け継いであることが想像できる。
地元に興味を移せば「舞踊」という言葉がある。
明治の大転換の気風のもと、坪内逍遥が福地桜痴とともにこの言葉を造語した。坪内逍遥は皆様ご存じ。
福地桜痴、とは、武士から転じて東京日々新聞の起動力となるジャーナリストになり、さらに歌舞伎座開場に尽力した人物である。
彼は江戸幕府解体の底力となった民衆反乱あるいは騒動あるいは大集団舞踊「ええじゃないか」の渦中に身を置き、明治政府を単に徳川と薩長の政権交代であると批判して投獄されたが、渋沢栄一や伊藤博文と関わりながら上述の仕事を成した。
「舞踊」という一言から、革命と伝承の狭間を揺れた明治の気骨が、きこえる。
舞踊の「踊」は、身がはねとぶ有様、まさに興奮的オドり、の状態であり、「舞」とはマワリ、遡れば「まひ」に近づく。まひ、とは麻痺でもあり神道には真霊もマヒと発音する。
舞う、まわる、回るあまり麻痺し、麻痺は日常意識を振り払って身体が空っぽになり、そこに真の霊魂が降りてくる、という流れなのだろうか。
と、想像が膨らむ。
興奮してハネとび、クルクルまわって放心する身体。
舞踊という一言を深読みすれば、そのような有様が妄想される。なかなかアナーキーな状況だ。
とすれば、それを職とする舞踊家は興奮と放心の専門家となる。もっともっと、暴れたくなる。暴れたい。
舞台活動をしながら、先祖たちは身体と如何なる関係を紡いできたのか、と思うことしばしば。同時に、先祖たちは、いかにして一命を楽しみ切ったのか、とも。
舞踊の歴史は身体意識の、あるいは生命燃焼の歴史でもあるのか。
劇場には、揺れ動くカラダがあり、それを見受けるカラダがある。その関わりが互いの一命を照らし合うオドリという「現象」あるいは「場」あるいは「とき」。
すでに神なし。と呟いたニーチェがダンスに光を見たのは有名だ。さほど知られてないかもしれないが、中世キリスト教がダンスを禁じた理由はダンスが神なる権威を破壊すると恐怖したからではと言われる。
踊る、とは実存の全肯定に至る行為だ。神なくとも人は存在する。聖書から省かれた外典にヨハネ行伝があり、そこに「真理は劇場にあり」という一節あり。十字架ではなく、劇場に。すなわち人と人の生み出す時空に。
多様で複雑化したダンスのフィールドを遡ることは、さまざまな個の身体観を検証しながら時代を遡り、やがては神話的世界や例えばサハラの世界遺産として名高いタッシリ壁画などの痕跡にまで思い馳せる作業になる。最古の絵は、人の動きを描いている。
舞踊史は哲学や宗教学や世界各地のコスモロジーに寄り道したりも可能な、ロマンチックな勉強だ。かこつけて、浴びるように観たり読んだり考えたりしてみたい。
次作を練りながら時折、意識は過去に跳ぶ。
舞踊史の講義を実演家の視点で、という一言から始めて2年目。ダンスの専門学校があり、実技指導に加えて。
お喋り好きな割に、きちんと語るのは苦手。なのでチマチマ準備する、それが以外と楽しい。ダンスを巡る、言葉、人。知らなかった、もっと知りたい。と、好奇心続々。学生の前でニジンスキーの日記やダンカンの手紙を読み聞かせしたり、さまざまなパを模倣しながら話していると、つい興奮する。面白がられると、また、、、。
ダンスという言葉の語源を知ったのは30年近く前だったと思うが、眼からウロコが落ちた感覚を思い出す。
毎日通っていた天使館(師匠の稽古場)に市川雅さんが来られた時。カラダというものは、とても遠いところに結び付いているんだよ、と、確か言われた。舞踊論という題目だったか、市川先生の講義は大方が歴史を辿るものだったがロマンチックだった。「宇宙はときどき振られねばならない」とは、先生の著書の一節で、振付の源流を思わせる。
洋舞すなわちDanceはドイツ語でTanzというが、言葉の源を遡るとインド古代にたどり着く。ダンスの語源はサンスクリット語の「Tanha=生きる欲や望み」だという。「Tan」とは「伸びる、張りきる」ことだ。
言葉は山脈を越えてエジプトに入り「tansa」「tanza」と変性し、いずれも「行為し、動く喜び」をさし、「Tanz」「Danza」「Dance」「Danse」と、越境しつつ変わる。いずれもオドリを指して現代に生きている。ダンス、という一言から、僕らは先祖の血の騒ぎを受け継いであることが想像できる。
地元に興味を移せば「舞踊」という言葉がある。
明治の大転換の気風のもと、坪内逍遥が福地桜痴とともにこの言葉を造語した。坪内逍遥は皆様ご存じ。
福地桜痴、とは、武士から転じて東京日々新聞の起動力となるジャーナリストになり、さらに歌舞伎座開場に尽力した人物である。
彼は江戸幕府解体の底力となった民衆反乱あるいは騒動あるいは大集団舞踊「ええじゃないか」の渦中に身を置き、明治政府を単に徳川と薩長の政権交代であると批判して投獄されたが、渋沢栄一や伊藤博文と関わりながら上述の仕事を成した。
「舞踊」という一言から、革命と伝承の狭間を揺れた明治の気骨が、きこえる。
舞踊の「踊」は、身がはねとぶ有様、まさに興奮的オドり、の状態であり、「舞」とはマワリ、遡れば「まひ」に近づく。まひ、とは麻痺でもあり神道には真霊もマヒと発音する。
舞う、まわる、回るあまり麻痺し、麻痺は日常意識を振り払って身体が空っぽになり、そこに真の霊魂が降りてくる、という流れなのだろうか。
と、想像が膨らむ。
興奮してハネとび、クルクルまわって放心する身体。
舞踊という一言を深読みすれば、そのような有様が妄想される。なかなかアナーキーな状況だ。
とすれば、それを職とする舞踊家は興奮と放心の専門家となる。もっともっと、暴れたくなる。暴れたい。
舞台活動をしながら、先祖たちは身体と如何なる関係を紡いできたのか、と思うことしばしば。同時に、先祖たちは、いかにして一命を楽しみ切ったのか、とも。
舞踊の歴史は身体意識の、あるいは生命燃焼の歴史でもあるのか。
劇場には、揺れ動くカラダがあり、それを見受けるカラダがある。その関わりが互いの一命を照らし合うオドリという「現象」あるいは「場」あるいは「とき」。
すでに神なし。と呟いたニーチェがダンスに光を見たのは有名だ。さほど知られてないかもしれないが、中世キリスト教がダンスを禁じた理由はダンスが神なる権威を破壊すると恐怖したからではと言われる。
踊る、とは実存の全肯定に至る行為だ。神なくとも人は存在する。聖書から省かれた外典にヨハネ行伝があり、そこに「真理は劇場にあり」という一節あり。十字架ではなく、劇場に。すなわち人と人の生み出す時空に。
多様で複雑化したダンスのフィールドを遡ることは、さまざまな個の身体観を検証しながら時代を遡り、やがては神話的世界や例えばサハラの世界遺産として名高いタッシリ壁画などの痕跡にまで思い馳せる作業になる。最古の絵は、人の動きを描いている。
舞踊史は哲学や宗教学や世界各地のコスモロジーに寄り道したりも可能な、ロマンチックな勉強だ。かこつけて、浴びるように観たり読んだり考えたりしてみたい。
次作を練りながら時折、意識は過去に跳ぶ。