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こないだ上野に出たらまだアルチンボルド展が終わっていなかったので寄りましたら、やはり面白かったです。この日曜24日まで国立西洋美術館。混んではいましたが、、、。
あの「四季」と「エレメント」がズラリと揃った光景はさすがに贅沢です。同じところでこういうふうに体験できるチャンスは滅多にないです。鳥肌ものでした。
花を、魚を、本を、食器を、様々な「もの」を組み合わせた絵が、じつにリアルな人間の肖像になっている、というあれですが、じっさいに彼の絵に囲まれて、ジッと見つめていると人なるもの世界なるものが揺らぎ始めてしまうのです。
発想と描写力の凄みも、さることながら、なぜか不気味なくらいの鎮静感があり、非常に神秘的な空間がこちらに広がってくるように感じましたし、また、絵から喚起される温度感や音感が春なら春、冬ならば大地ならばといちいち異なっているようにも感じてしまいました。フォルムと色彩の組み合わせがそれを生み出しているのでしょうが、絶妙です。
絵から受ける心理的な影響があると思うのですが、その力が何かわからないけれどアルチンボルドというのは怖ろしくもあるのでした。引き込む力にどんどん捕まえられて足がジッとしてしまう絵もある。面白い、美しい、なのにしかし、なぜ怖いのだろう。
絵に宿る「魔」というのでしょうか。
唐突なことですが、これは、、、と、かつて、似た「魔」のような力をたしかに感じたことがある。それを思い出せば、それは余りにも異なる絵からの体験で突飛なのですが、仏独国境のウンターリンデン美術館で観たグリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》と呼ばれているものでした。これを観たときに、なぜか、いま感じた「魔」に非常に近い怖さ吸引力を感じた記憶があるのです。
この絵のことは、また別の日に書きますが、画題の起こし方も絵柄もまるで違う、そしてアルチンボルドの鎮静感に対してグリューネヴァルトは動的で圧倒されるような大きさでしたから空間も違う。なのに、その絵の前で浴びた呼吸というか絵のアウラというのでしょうか、「ちから」としか形容しがたい何かが、なぜか今アルチンボルドの四季とエレメントの連作の前で足がジッとしてしまった静かなそこで、また目覚まされてしまったのでした。
個人的な感情から唐突なことを書いてしまいましたが、一見とおい別々の画家、その作品、それらに共通して感じたものは何なのでしょうか、まあ、自分の感覚の問題に過ぎないとしても、気になります。
ps:アルチンボルドが深く関わっていたルドルフ二世もまた面白そうな人物です。
芸術と科学そして占星術や錬金術にも強い関心を示し、プラハの彼の宮廷には世界各地から特別な才能をもつ人物たちが集結していたようで、そのなかにはアルチンボルドのほかにケプラーもいたようですが、一種のシンクタンクを形成していたのでしょうか。
来年正月には、渋谷の文化村で、このルドルフ二世のクンストラウムに関する展覧会も開催されるようで楽しみです。