身体をめぐるメモが出てきた。ココに載せようとしたみたい。なので、ちょっと一部を、、、。
「例えば、シュタイナーはエネルギーの層として身体を捉えて理解しようとする。
意識の層としての自我、感覚層としてのアストラル体、活力層としてのエーテル体、そして物質としての体、合わせて4つの「体」が働き戯れながら、ひとつの身体が実現されていて、それら各層のバランスは変化するという。眠りの時にはそこから自我とアストラルの二つが、ひゅいと外へ出て何か力をもらって、また戻ってくると目覚めるんじゃないか、つまり眠るカラダというのはこの世界と別なる世界の境目なんじゃないか、ということか。これ、中々楽しいかも。
それから、ポール・ヴァレリーは三つの意識対象として身体を理解しようとする。
彼は第一の身体を「わたしの身体」と呼ぶ。自身に見出す特権的な対象。過去から離れて、現在そのものを形成する身体。なのだと説明する。コトバは固いが、うんとカラダを使ったなあ、たしかにカラダを実感するなあ、というあれは少し似ているか?
第二身体は「わたしたちの身体」。対象としての身体。他人が見ている、という働きのなかで現れるという。ナルシスが水面鏡を見て、おおコレが私か、とじっと見つめている絵があるけれど、、、。
第三のは「分割され細分化されて初めて知ることができる身体」。これは面白い。何にも似ていない、思考することによってのみ知ることができる身体、と説明されるが、それってどんな?と考えてると結構遊べる。いや遊べば遊ぶほどに結構考えられる。
ヴァレリーが踊り好きだったのはコレに関係あるかもなあ、と思う。話それるが、子どもはよくコレを楽しんでいるように見える。一見意味もなく、ぐるぐる走りまわる、くるくる回ってみる、やたら跳ねる、、、あれは、考えているのかも、遊びという思考を通じてしか知ることができない身体を獲得してゆくのかも、、、。
この人たちばかりでなく、世界や歴史のなかには、身体をさまざまな方法で捉え直してみる試みが沢山あるのはご周知。
ひとつの身体は、実は多様なスイッチによって無数の身体にシフトする能力を持っているのかもしれない。
化粧によって気分が変わるあれは単に気分だけじゃなくて、その人の身体の感じも変わる。
ダンサーや歌手は激しく身を揺すりながら別の何者かに変わる。シャーマンは祈りのなかで別人の身体を宿そうとする。
メタモルフォーゼ、ドッペルゲンガー、ポゼッション、、、。
精霊とか天使とか、菩薩の諸相なんかも、なぜか身体の像をまとう。神道のカミさまは、あえて身体を遠ざかって在る無いの壮大な謎にいざなう。
ヒトツのカラダに複数の身体が眠っている、ダンスではそれら様々な身体が溶解して一つの運動宇宙を成してゆく、あるいは、それらの別々の働きが際立って次々に色々な身体が現れ消えてゆく。
私たち、に、身体は一つづつ与えられている。ひとつ、しかし、無数。
関わり方次第で身体は多様な「何か」に変わっていくことができる。踊りも、一つの身体に無限の拡がりを想像させてくれるひとつ。」
これ、たぶん去年の秋公演の前に書いてる。次はもっと広がるかしらん、、、。
「例えば、シュタイナーはエネルギーの層として身体を捉えて理解しようとする。
意識の層としての自我、感覚層としてのアストラル体、活力層としてのエーテル体、そして物質としての体、合わせて4つの「体」が働き戯れながら、ひとつの身体が実現されていて、それら各層のバランスは変化するという。眠りの時にはそこから自我とアストラルの二つが、ひゅいと外へ出て何か力をもらって、また戻ってくると目覚めるんじゃないか、つまり眠るカラダというのはこの世界と別なる世界の境目なんじゃないか、ということか。これ、中々楽しいかも。
それから、ポール・ヴァレリーは三つの意識対象として身体を理解しようとする。
彼は第一の身体を「わたしの身体」と呼ぶ。自身に見出す特権的な対象。過去から離れて、現在そのものを形成する身体。なのだと説明する。コトバは固いが、うんとカラダを使ったなあ、たしかにカラダを実感するなあ、というあれは少し似ているか?
第二身体は「わたしたちの身体」。対象としての身体。他人が見ている、という働きのなかで現れるという。ナルシスが水面鏡を見て、おおコレが私か、とじっと見つめている絵があるけれど、、、。
第三のは「分割され細分化されて初めて知ることができる身体」。これは面白い。何にも似ていない、思考することによってのみ知ることができる身体、と説明されるが、それってどんな?と考えてると結構遊べる。いや遊べば遊ぶほどに結構考えられる。
ヴァレリーが踊り好きだったのはコレに関係あるかもなあ、と思う。話それるが、子どもはよくコレを楽しんでいるように見える。一見意味もなく、ぐるぐる走りまわる、くるくる回ってみる、やたら跳ねる、、、あれは、考えているのかも、遊びという思考を通じてしか知ることができない身体を獲得してゆくのかも、、、。
この人たちばかりでなく、世界や歴史のなかには、身体をさまざまな方法で捉え直してみる試みが沢山あるのはご周知。
ひとつの身体は、実は多様なスイッチによって無数の身体にシフトする能力を持っているのかもしれない。
化粧によって気分が変わるあれは単に気分だけじゃなくて、その人の身体の感じも変わる。
ダンサーや歌手は激しく身を揺すりながら別の何者かに変わる。シャーマンは祈りのなかで別人の身体を宿そうとする。
メタモルフォーゼ、ドッペルゲンガー、ポゼッション、、、。
精霊とか天使とか、菩薩の諸相なんかも、なぜか身体の像をまとう。神道のカミさまは、あえて身体を遠ざかって在る無いの壮大な謎にいざなう。
ヒトツのカラダに複数の身体が眠っている、ダンスではそれら様々な身体が溶解して一つの運動宇宙を成してゆく、あるいは、それらの別々の働きが際立って次々に色々な身体が現れ消えてゆく。
私たち、に、身体は一つづつ与えられている。ひとつ、しかし、無数。
関わり方次第で身体は多様な「何か」に変わっていくことができる。踊りも、一つの身体に無限の拡がりを想像させてくれるひとつ。」
これ、たぶん去年の秋公演の前に書いてる。次はもっと広がるかしらん、、、。