櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

すべての僕:村山知義のこと

2017-01-23 | アート・音楽・その他
何年前かしら、踊ったあと打ち上げで、ある人がアナタ「村山知義」って知ってますか、さっきねダンスを見ながらその人のことをちょっと思っていたのだがエトセトラと親しく話して下さって、
それ以来、時折アタマをよぎる。

村山知義なる人物、面白そうで気になる。資料が少ないから却って好奇心が湧くのだが、大正時代の人。1920年代から30年代に活躍。

例の「朝から夕方まで」の美術は有名だが、ダンサーでもあった。
踊っている写真を初めて見たのはあれはたしか葉山だった。回顧展だった。

ルイズ・ブルックスばりのパッツン髪で硬質な感じを想像した。
当時最新のノイエタンツを踊っていたらしいが、
その眼つきから強い熱線が出ているように見えて、彼自身の言葉にあるように全身沸騰しているみたいだ。古い写真ひとつから迫る力を感じるとき、もし生身の舞うその場に居合わせたならと想像がざわざわする。

彼は芸術グループ「マヴォ」の首謀者として「私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つであらう」という宣言をする。

ダンサーで美術家で現代演劇の草分け演出家。また左翼運動の闘志。そして童話作家。

調べると、一体何者か分からなくなるほど活動多面な男だったらしいが、その根に何があったのだろうか。何を担おうとしていたのだろうか。

奇遇なことにウチの近所に、ちょっと洒落たクラシックな稽古場があり実は村山知義の関係あるアトリエだと知ってまた興味がわく。

ところで本日の記事タイトル「すべての僕」とは、その村山知義の言葉。

「すべての僕の情熱と思索と小唄と哲学と絶望と病気とは表現を求めようとして具象されようとして沸騰する。」

という、これは《過ぎ行く表現派》という1925年の文章から。
いい言葉だなぁ。なんか思いどこか重なる。

僕に多才はないけれど、この世に自分は一人とは思えず、少なくともコノ肉体の内部には5人以上は僕がいるように思うから、先の村山が書いた「すべての僕」という「すべての」というのにはピンと刺激されるのだ。


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