櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片:10/11

2016-10-11 | ダンスノート(からだ、くらし)
舞台に人がいてカラダがある。しかし、それは人であって人でなく、それはカラダであってカラダではない。舞台は空間だが空間でなく虚空よりも透明で遠く真空で、舞台に光があったとしても、それは光そのものでなく闇以上に黒い光線でなくてはならないのではないか。

そんな思い妄想を、ときにいだく。

たとえばアニッシュ・カプーアという美術家があり、吸い込まれるような漆黒の世界を観る者に差し出すが、その作品の前に立った気分は舞台を目の前にしたときの感覚に少し近しいものだ。

カプーアの漆黒のオブジェは何を語るわけではなく、黒という色彩を非常に正確に現象しているばかりなのだが、そのシンプルさによって、その繊細さによって、黒という何かが無限の想像力のスイッチを入れてくれるのだ。

こんな舞台が出来るといいなと、カプーアの作品を観るたび、溜息が出る。

目の前に実体があり、手を伸ばせば触れることができるのだが、触れることが出来ないエネルギーというか磁場のひずみを、物体は生み出している。
わずか数メートルの距離が、観るという行為のなかで遥か彼方に置き換えられて、静寂や無限が開始されてゆく。
三次元がいつしか四次元になって、あるものがあらざる何かへと変貌してゆく。この世に実存するものを通じて、未だ無い何かを垣間見てしまう。旅に出ることができる。

作品の介在が人間の独りならではの空間を提供し、純粋な魂に入ってゆく手伝いをする。ということか。

未だ誰とも共有されない、言葉さえ入り込む前の、魂の内部の、一つだけの世界。そんな世界にひととき帰還する矢印。としての、、、。

あの手この手で近しい関係を感じさせられながら実際には目の前には何もない、という近年の日常環境とは異質のものだ。

人に気持ちを伝えたい何かを一緒にと望む反面、カラダつまり物質物体自然物というものをアルがままに放置して、見つめられるがままにしないと観る人は自由な時空を楽しめないではないか、という思いも強い。しっかりと居なくてはならないが、煩く居てはいけない。かといって透明すぎては何か物足りない。
舞手という存在の仕方・居方は錯綜錯乱に近しいのかもしれない。

実体でありながら虚体である、三次元が四次元に変わる、そんなことが出来ないかと足掻いて30年ほど過ぎている。
非常に正確な漆黒が劇場の闇に存在していた、そんなことが出来ないかと。

さて今回はいかに。
秋が急速に深まるなか、しんしんと、舞の夜が近づいてくる。

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stage & lesson info.

STAGE INFO. 櫻井郁也ダンスソロ新作公演『緑ノ声、ヲ』10月29〜30


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