「緑の色彩を見つめていると声が聞こえてくるような気持ちになる」
稽古のあとそんな言葉が出て『緑ノ声、ヲ』(Voice of Green)というタイトルに結びついたのは、踊りを観ているさなかに訪れる感覚や場について周囲の人と思い出しあっていたときだった。
本作は、外側からの音や言葉などの触発を受けていない状態で身体の動き・状態・時間の流れや空間が先ず立ち上がってきた。そのような身体の動的体験を更に刺激するように、あるいは水や養分を注ぐように環境や言語的思惟や音や構造を試行錯誤していった。
現段階では、そのような作業の積み重ねから、解体や逸脱を繰り返し、再び身体の生理に注意を向けている過程にある。仕上げというより、再起動をかけてリセットしてゆく作業だ。
自分には経験のない角度から始まってきたダンスが、今回の舞台に架かる。どんなことになるのだろうか。
出会った言葉や音楽や生活体験に感動して踊りが湧くことは多々あった。近年の数作も具体的な対象との感情が基底にあった。例えば「方舟」(2012ルクセンブルク)においては震災後の放射能体験だったり、「CHILD OF TREE」(2014東京)における植樹体験だったり、「弔いの火」(2015長崎)における原爆体験の語り継ぎ現場での対話だったり。
今回の場合はそのような特定の対象からでなく、たぶん複合的に蓄積された多様な感覚が、心の奥の方に溶けたあと、臨界点を迎えるように踊りという運動になって溢れ始めたのかもしれなくて、自身の気持ちや考えを整理する前に身体が先を走って運動している、その様子を受け止めながら、自分なりに鋳直したり、そこからまた踊りが変化し、というコトを、繰り返している。
ある運動が内的な耳に何か声のようなものを発して、また身を揺する。
その運動はどこから訪れ、どこへ行くのだろうか。
運動は現れては消える。しかし何かが堆積して、新しいタネをつくる。
人間の身体はアンテナの役割もあるから、何かに反応している可能性もあり、そこへの興味も出た。様々な運動から押し寄せる感触は、ある種のコトバの胎児のようにも思えた。
「緑」とは草や葉っぱや芽のミドリでもあるが、嬰児と書いて「みどりご」と読むあのミドリでもある。
日没寸前の水平線もまた一瞬だけ緑に光る。
身体の母型である海水も緑に輝く。
諸宗教の源泉を探る神秘学では緑とは何にも属さず何にも変化できる生命原理の色彩だという。
自然の諸現象は自我を介さずとも様々な運動やフォルムや働きを生み出す。それを人間は科学でも芸術でも一種の言語として解読することをしてきた。
同様のことが、一個の肉体/自然とそれを担う人間のあいだにもあって良いのではないか。
自我が肉体に追い縋るようなコトは日常生活では忘却されても、ダンスという領域では覚醒されても可笑しくないのでは、という気持ちになった。
自我の思いやイマジネーションばかりを身体に映すのでなく、身体・生体組織そのものから何らかのメッセージを聴きとろう、という挑戦なのかもしれない。
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STAGE INFO. 櫻井郁也ダンスソロ新作公演10月29〜30